25話 覚悟
「レンさん!」
ガディは、村へと戻ってきたレンたちの姿に気づき、慌てて駆け寄ってきた。血と泥にまみれたボロボロの装備。そしてレンの腕の中でぐったりとするクロエの姿にガディは息を呑んだ。
「ガディさん、すまない。部屋を借りる。それと、村にある限りの回復薬を持ってきてほしい……! 買い取るから、すぐにだ!」
「それは、構いませんが……いったい、その……」
ただ事ではない、切羽詰まったレンの鬼気迫る雰囲気にガディはそれ以上言葉を続けることができなかった。
今は状況を説明している時間はない。それだけ言い残すと、レンは借りている村長宅へと急ぎ足で上がり込み、そのまま奥の部屋へと向かった。
ぐったりと意識を手放しているクロエを、そっと慎重にベッドへ横たえさせる。
だが、結局のところ今のレンにできることは少なかった。彼自身に高位の回復魔法は使えないし、道中で使ったポーションも底をついていた。
このシルト村の備えでは、今のクロエを救うことなどできない。
今からアイゼンヴェールまで引き返すべきか? いや、そこまでクロエの体力がもつはずがない。だが、今この瞬間にも南の廃坑からゴブリンの軍団がこの村を、そして周辺の街を飲み込もうと迫っている。しかし、だからといって、苦しむクロエをこの村に一人きりで見捨てていくなど、レンの選択肢に片隅も存在しなかった。
控えめなノックの音が静かな部屋に響いた。
「レンさん、村にある限りのポーションを持ってきました」
ドアの隙間から顔を覗かせたガディが、手際よく数本の小瓶を取り出して差し出す。
「すまない、うちの村じゃこれが限界だ。大した効果はないかもしれないが……」
ガディは申し訳なさそうに頭を深々と下げた。
「いえ、こちらこそ無理を言ってすみません。お借りします」
レンは差し出された中から一本を掴み取ると、そっとクロエの身体を起こし、乾いた唇へとポーションを含ませた。
瓶の口から癒しの光が零れ落ちる。しかし、クロエの荒い息遣いは一向に収まる気配がなく、ポーションの効果はまるで弾かれたように彼女の身体には届いていなかった。
「くそっ……やっぱり、効かないか……!」
レンは悔しそうに歯を食いしばり、空になったガラスの小瓶を握りしめた。
「それで…その何があったのですか?」
「ああ。クロエは……ゴブリンロードにやられたんだ」
レンの絞り出すような言葉に、ガディは目を見開いて息を呑んだ。
「ゴブリンロード!?」
「この村の近くにある、あの廃坑の跡地だ。魔獣が出るって話だったろ……あそこに、ゴブリンの軍団が潜んでいたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ガディは青ざめた顔でよろめいた。
「そんな……まさか、あそこが奴らの巣窟に……っ!」
「正直、時間がない。すぐに村の人々を集めてくれ。避難の準備をさせるんだ」
レンの切迫した口調に、ガディはただ事ではない危機を察知し、慌てて部屋から駆け出していった。
バタンと閉ざされた扉の音が、妙に重く部屋に響く。
「なぁクロエ、どうすればいい……」
だが、返ってくるのは浅く熱い吐息だけで、彼女の瞳が開くことはない。
「俺一人にできることなんて、たかが知れてるよ……」
頭の中で、絶望が波のように押し寄せてくる。
クロエも救えない。シルト村も救えない。あんな大軍を相手に、たった一人の人間がどうにかできるわけがない。
「結局、俺は何も変わってないんだよ。人間、そう簡単には変われない。何者にもなれない俺は、結局いつまで経ってもただの俺なんだよ……」
ガクリとベッドの縁に額を押しつけ、レンはその場でうなだれた。
静かな部屋に、クロエの苦しそうな荒い呼吸音だけが痛々しく響き渡る。
もう、辞めちゃおうかな……。全部逃げて、忘れてしまえばいい
この数ヶ月で多少の生きる術は覚えた。一人で生きていくくらいならできるだろう。そもそも、これ以上頑張る必要があるのか? どうせ自分には何もできない。上手くいきそうになったって、肝心なところで結局失敗する。今までだってずっとそうだった。
めんどくさいこと、自分の手に負えないことから、ずっと目を背けて逃げてきた。自分を助けてくれた人たちを置き去りにして、ずるずると逃げ続けてきた。今回だって同じだ。
そもそも、クロエみたいな可愛い子が、自分なんかと一緒に行動していること自体が間違っていたんだ。不相応な奇跡に手を出したから、こんなバチがあたったんだ。
逃げよう。今ならまだ、間に合う。すべてを放り出して、一人でどこかへ消えれば、こんな責任も絶望も全部なくなる。
そしたら終わりだ。楽になれる。
ああ、なんだか、ものすごく疲れてしまったなぁ。
伸ばした指先が、クロエの手の甲に触れる。
「っ……冷た……」
思わず息を呑んだ。微かに残っていたはずの体温はすっかり失われ、まるで氷のように冷えきっている。
慌てて自分の両手でその小さな手を包み込み、懸命に擦る。熱を送るように、自分の体温を分け与えるように、強く、きつく握りしめた。
冷たい。いくら擦っても、暖かくなってくれない。
手のひらを通して伝わってくるのは、命が急速にすり減っていくような、言いようのない恐怖だった。
このままでは、本当にこの子が二度と元に戻らなくなってしまう。
クロエを……失うのか?
嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ。
笑い合ったこと、くだらないことで言い合ったこと、危険を乗り越えて安堵したこと。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ……っ!」
また、いっぱい笑い合いたい。また、二人で並んで旅の続きをしたい。
まだクロエの好きなものだって、彼女の過去だって、聞いていないこと、知らないことが山ほどある。もっと話したいことがたくさんあるのに、クロエのことを自分はまだ何も知らないじゃないか。
こんな異世界で、一人で置いていかれるなんて冗談じゃない。そんなの、絶対に嫌だ。
「逃げたい……」
弱音が、ぽろりと口をついて零れ落ちる。
責任も、絶望も、重荷も、すべて投げ出してどこかへ消えてしまいたい。
けれど……。
「……でもっ……もっと、この子と話したい……! もっと、一緒に……生きたい……っ!」
逃げ出したいという弱さと、失いたくないという叫びが激しくぶつかり合い、レンは冷たくなったクロエの手を顔に引き寄せ、子供のように声を上げた。




