21話 vsゴブリン変異体2
そう口にはしたものの、内心では冷や汗が流れていた。どうしたものか。
先ほどのわずかな交戦で、この二体を相手にまともに戦って勝つのは不可能だと嫌というほど思い知らされた。そして、この変異体と魔法を操るゴブリンロードを相手に、二人揃って逃げ切るのも現実的ではない。
……方法がないわけじゃない。だが、二人で一緒に逃げるのは無理だ。どちらか一方がおとりになるしかない。
役割を考えれば、前衛職である自分が残るのが一番の最適解だった。この凶悪な二体をできるだけ長くその場に引き止め、クロエだけでも逃がす。それが最悪の状況を避けるための唯一の道だ。
「クロエ」
「ダメよ」
「まだ、何も言ってないじゃないか」
「どうせ、レンのことだから「俺がおとりになるから逃げろ」とか言うんでしょ? そんなの絶対許さないから!」
クロエはツンと怒ったような、しかし切実な声色でぴしゃりと言い放つ。
「だが、二人であの化け物どもを倒すのはどう考えても無理だぞ。だったら、少しでも生存確率が高い方に賭けたほうが……」
「ダメったらダメっ!」
クロエは地団太を踏むように足を鳴らす。こうなったら彼女はてこでも自分の意見を曲げない。短い付き合いの中でも、レンにはそれが痛いほどよく分かっていた。
「はぁ……全く」
ならば、この二体を相手に奇跡を起こしてでも倒すか、あるいは別の活路を見出すしかない。
だが、そんな思案に浸っている暇すら、あの厄介な敵は与えてくれなかった。
……ッ、来る!
後方でゴブリンロードが杖を振るう。次の瞬間、無数の石の礫が高速の弾丸となって、レンたちめがけて一斉に飛来した。
「伏せろっ!」
レンはクロエの腕を引いて魔法から避けるように地面に倒れ込む。
ゴウンッ、と空気を切り裂く轟音と共に、外れた礫が背後の地面をえぐり取った。あんなものの直撃を受けたら、鎧ごと全身が粉々に砕け散るだろう。
悠長に作戦を立てている暇などない。このまま遠距離から魔法でハチの巣にされるくらいなら、無理をしてでも懐に飛び込むしかない。
レンは地面を蹴り、一気に立ち上がるとゴブリンロードへと距離を詰める。だが、それを阻むように、もう一匹の変異体が猛然と割って入ってきた。
ガァッ!
肉薄するレンに対し、変異体は手斧ではなく、今度は手にした無骨な鉈を振り上げる。どうやらゴブリンロードから武器を渡されたらしい。統率された連携といい、この変異体が群れの中で上位の戦闘個体であることは疑いようもなかった。
「っ……!」
レンは右上段から勢いよく叩き下ろされる鉈を、剣で弾き返すように受け流そうとする。しかし、変異体は驚異的な身軽さでその鉈の起動をかえ、ガラ空きになったレンの胴体を容赦なく狙い打ってきた。
「くっ……!」
直撃を避けるため、レンは左手の小盾を咄嗟に引き下ろし、懐へ飛び込んでくる軌道を無理やり塞ぐ。
さすがに片手斧のような魔力バフはかかっていないのか、衝撃はそれほどない。クロエに撃ち抜かれた傷も明らかに変異体を弱らせていた。ただラッシュはこれで終わらない。
滅多打ちの連撃。右から、左から、上から。変異体は予測不能な変幻自在の軌道で鉈を振り乱し、レンの防御の隙間を容赦なくえぐっていく。完璧に防ぎきれず、装甲板が削れた金属音が耳障りに響く。
「レンッ!」
窮地に陥ったレンを救うべく、クロエがすぐさま魔法の詠唱で応戦する。
「《ファイヤーボール》――っ!」
クロエの放った鋭い炎の弾丸が変異体を狙うが、ゴブリンロードが頑丈な土の壁を瞬時に作り出し、それを防いでみせた。
ごう音と共に盛り上がった土壁が、空間を切り裂くようにレンとクロエの間に割って入った。
それは単なる防壁ではない。二人の間に厚い土と岩の障壁を築き上げ、分断する。
土煙が晴れたとき、レンの目の前には変異体のゴブリンが一匹、そして壁の向こうにはゴブリンロードと相対するクロエという状況が出来上がっていた。
分断された……っ!?
ゴブリンロードと戦うクロエの身が瞬時に脳裏をよぎり、冷や汗が背筋を伝う。
だが、ゴブリンたちの狙いは明白だった。それぞれを個別に各個撃破する。あるいは、「一対一であっても自分たちが圧倒できる」という絶対的な自信と残酷なまでの余裕の表れだった。
「くそっ……!」
総力戦から、強制的なタイマンの状況へと引きずり込まれる。
クロエの方へ駆け抜けようとするレンの視界を塞ぐように、目の前の変異体が低く喉を鳴らし、鉈をギラつかせて一歩を踏み込んできた。逃げ場などない。
……まずいな。だが、ここで焦ったら一巻の終わりだ
クロエの無事を信じたい、いや、信じるしかない。
レンは雑念をすべて振り払い、目の前の脅威へと意識を完全に集中させた。ボロボロになった剣を強く握り締め、殺気をたぎらせる変異体と対峙する。
変異体のスピードは人間の動体視力を軽く凌駕している。ただ闇雲に剣を振るったところで、残像を切り裂くのが関の山だ。まともに戦えば、避けられて手遅れの反撃を食らう。
「ガァッ!」
目の前を塞いでいた変異体が、人間には到底不可能なほどの低い姿勢から一気に跳躍した。
全身から異様な熱気と殺意を纏い、獲物をひき殺す野獣の突撃だ、鉈を振りかざしてレンへとまっすぐ突進してくる。
とっさに左手の盾を正面へ突き出し、迫り来る突撃の衝撃を受け止める。
殺気と風圧を肌で感じ、レンはわずかに残された感覚のすべてを研ぎ澄ませる。目で追うことなどとうに不可能だ。だからこそ、皮膚を刺すような闘気と気配の感だけを頼りに、変異体の連続攻撃をかろうじて受け止める。
ガキンッ! ガンッ! と、不規則で重い打撃が次々とレンの体をかすめ、抉っていく。変異体の驚異的なスピードと変幻自在の連撃は、レンの防御を完全に崩壊させにかかっていた。右へ左へと打ち込まれる無慈悲な滅多打ち。完全に守勢に回ったレンは、一歩、また一歩と後退を余儀なくされる。
速い……! 追いつけない、見えない……!
「なら!」
レンはあえて自らの防御の形を崩した。
変異体はその隙を狙って鋭い軌道で鉈を振り抜いてくる。レンはそれを避けるでも、盾で受け流すでもない。踏み込み、左腕に装着した鉄のアームガードでその刃を直接受け止めにいった。
ザシュッ!
衝撃と共に、剥き出しの刃が厚手の革と鉄の装甲を容易く突き破り、中の肉へと深く食い込む。熱を帯びた激痛が走るが、レンは顔色一つ変えずに腕の筋肉を硬直し、その鉈を無理やりガッチリと固定した。肉を斬らせて骨を断つ、捨て身の迎撃。
「ぐえ……?」
刃が引っかかり、それ以上深く進まなくなったことに、変異体は間抜けに抜けた声を漏らす。いつもなら一刀両断できるはずの人間が、自ら肉を盾にして自分の動きを封じてくるとは夢にも思わなかったのだろう。その小さな目が驚愕に丸く見開かれた。
その一瞬の隙を、レンが逃すはずがなかった。
「お返しだ……っ!」
至近距離。逃げ場などない。
レンは右手に握りしめた直剣を力任せに突き出し、その切っ先を防御のない変異体の胸へと深々と突き刺さした。
「グギャアアアアアア!!!」
胸を突き刺された変異体の身体から、鮮烈な血しぶきが舞い散る。
致命的な一撃を受け、ガクンと膝をついた変異体は、そのまま地面へと崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……」
倒れた変異体を見てレンはようやく息を整える。
「やった……のか?」
左腕の激痛に顔を歪めながらも、レンは剣を引き抜き、安堵の息を漏らそうとした。
だが、その緊張が解けかけた瞬間。
倒れ伏した変異体の肉体から、先ほどまでとは比較にならないほど、禍々しくひときわ大きな黒いいオーラが、まるで業火のように激しく立ち上り始めた。
「なに……っ!?」
致命傷を受けたはずだ。心臓の位置にある魔石を貫かれ、動かなくなっていたはずの変異体が、ありえないことにガクガクと身体を痙攣させながら起き上がった。
その瞳に光はない。意識は完全にに失われている。
ただ、死してなお肉体に残る狂気と、歪な魔力が混ざり合い、リミッターを外された人形のように、機械的な殺意だけでその肉体が駆動していた。
周囲の空気が異常な高熱で揺らぐ。
すでに死骸同然のはずの変異体が、黒く濁った眼窩をレンに向け、人間離れした異様な跳躍で飛びかかってきた。
とっさに左手の盾を掲げ、致命打を防ごうとしたが、死の淵を越えて暴走する変異体の膂力は先ほどまでの比ですらなかった。
ガキンッ! という耳をつんざく絶叫のような金属音と共に、盾は飴細工のように引き裂かれる。あまりの衝撃に、レンの左手首は不自然な反対方向へとグニャリと曲がり、そのまま彼の身体は木の幹へと激突して地面に無様に転がった。
「ぐっ……あ……!」
全身の骨がきしむ激痛。息を吸おうにも肺の空気がすべて押し出され、声すらかすれる。
変異体の体がゆらゆらとレンへと歩み寄ってきた。胸からは血飛沫をあげ、歪んだ顎から血とよだれがダラダラと垂れている。
剣を使もうと手を伸ばしたレンをあざ笑うかのように、変異体は片腕をガシリと突き出す。その鉤爪のような五指が、レンの首筋を容赦なく捉えた。
「がはっ……!」
凄まじい握力で気管を締め上げられ、声にならない悲鳴が喉の奥で押しつぶされる。
締め上げられる首から酸素が急速に断たれ、視界が真っ赤な血の色へと染まっていく。
くそ……こんなところで、こんなところで死んでたまるか……っ!
……っ。
……。
意識の底、胸の奥底で、全く別の誰かの声が響いた。
それはレン自身の声ではない。静かで、けれどどこか落ち着く、少女の声だった。
……レン。
「……誰だ……?」
虚ろになる視界のなかで、レンはわずかに唇を動かす。
頭の中に直接語りかけてくるその響きに、それを俺は覚えている。
シエル……?
名前を呼んだ瞬間、レンの心臓がドクリと、世界を止めるような重い音を立てて跳ねた。
黒いオーラがレンを覆う。
それは魔力という概念すら超えた、死と呪詛が凝縮されたかのような禍々しい瘴気。その漆黒の衣は触れたものを腐り落とす。
足元の草は一瞬で枯れ果て、木すらも生気を奪われて腐り落ち、黒い灰へと変わった。
異変は、レンの首を掴んでいた変異体にも襲いかかる。
レンを掴んでいたその腕が、黒いオーラに触れた途端、音を立てて崩れ始める。
皮膚が剥がれ落ち、むき出しになった筋肉や骨が腐敗して崩れ落ちていく。
変異体は後方へと跳び退こうと必死に足掻く。
だが、もう遅い。
「逃がすかよ……」
掠れた、レンの声が響く。
逃げる変異体の顔面を容赦なくガシリと掴み取った。
意識はないはずだ、だが変異体は激しい苦悶に顔を歪め、引き剥がそうと必死に暴れ回る。レンの体から噴き出した漆黒の瘴気は、触れた瞬間に容赦なくその肉体組織を侵食していった。
頭部から全身へと巡る黒い霧。
それは魔力ではない。生けるものの命を根底から呪い殺す、絶対的な死の気配だった。
凄まじい腐敗の力に晒された変異体は、声なき悲鳴を上げる。皮膚がドロリと溶け落ち、筋肉と骨が音を立てて崩れていく。生きたまま肉体が腐り落ちる崩壊の末、怪物は魂の絶叫を上げながらその場で溢れ落ち、塵となった。
静まり返った森の中に、不気味なほどの沈黙が降りていた。
レンは自分の右手を見つめる。圧倒的な闇を放っていた漆黒の瘴気は、まるで幻だったかのように、すっと霧散するように引いていった。
それと同時に、極限まで高まっていた反動が押し寄せる。全身の力が一気に抜け落ち、レンは崩れ落ちるように片膝をついた。
……シエルが力を貸してくれたのか?
頭の奥底で響いた少女の声。そして、災厄の力。
一歩間違えれば、あの禍々しい瘴気は敵だけでなく、近くにいるはずのクロエをも呑み込んでいたかもしれない。そう想像しただけで言い知れない恐怖が胸を締めつける。
こんな力、まともに制御できるとは到底思えない。今後二度と使わない方がいい……。そもそも、どうやって発動したのかも分からないが。
恐怖と疲労に冷や汗を流しながらも、レンはハッと頭を上げる。
「そういえば、クロエは……っ!」
分断された土壁の向こうで、一人でゴブリンロードと対峙していたはずの相棒の姿を探し、レンはボロボロの肉体に鞭打って無理やり立ち上がろうとした。
その時、轟音と共に、二人を隔てていた頑強な土の壁がガタガタと音を立てて崩れ落ちた。
「っ……!」
砂煙が晴れたその先に見えた光景に、レンの血の気が一気に引く。
そこには、魔法を使い果たしたのか、力なく地面に倒れ伏すクロエの姿があった。そしてその傍らには、ゴブリンロードが立っている。
「クロエ!!!」
レンが必死に声を張り上げる。
人間めいた知性を宿した瞳でレンをちらりと見た。
ゴブリンロードが手をかざすと、昏倒したクロエの身体が青白い魔力の光に包まれ、ふわりと宙へと浮き上がった。
「待て……っ! おい待ちやがれ……っ!」
動け。動けよ!
レンは叫びながら立ちあがろうとするが、先ほどの力の代償か、限界を超えた体はぴくりとも反応してくれない。ただ地面を掴む指先が痙攣するだけだった。
ゴブリンロードはクロエを宙に浮かべたまま、すたすたと森の奥へ身を翻していく。
「動けよ、クソっ……! クロエ! クロエッ――!!」
掠れた絶叫も虚しく、クロエの姿は鬱蒼とした木々の陰へと飲み込まれていった。




