2話 宿屋
店の軒先にぶら下がる、木製の看板。宿であることを確信し、レンはその建物に足を踏み入った。
無骨な木の扉を開けると、ふんわりと香ばしい料理の匂いと共に、ざわめいた喧騒が耳に飛び込んでくる。どうやらここは、一階が酒場も兼ねているタイプの宿らしい。
レンが扉を開けて入ってきた瞬間、広場で飲んでいた冒険者たちが物珍しそうに一斉にこちらをジロリと見た。だがすぐに興味を失ったように自分たちの会話へと戻っていった。
「……で、食事か? 泊まりか?」
店主は、レンを品定めするような鋭い視線で見据えながら、低く掠れた声で言った。
「……泊まりで」
「金はあるのか? うちは前払いだ」
「あぁ、ある」
レンはポケットから、さっき商人の取引で手に入れた金貨を数枚取り出し、カウンターの木板の上にそっと置く。
くすんだ黄金の輝きを見た瞬間、店主の険しかった眉間がわずかに緩む。態度が劇的に変わったわけではないが、警戒の色は明らかに消えていた。お金の威力は、この世界でも共通らしい。
「何日だ」
「とりあえず、この半分で泊まれるだけ頼む」
全額使ってしまうのは不安だったので、数枚を残して金貨を差し出す。店主はそれを慣れた手つきでつまみ上げ、じっと重さを確かめると、フッと鼻を鳴らした。
「これだけあれば、数ヶ月は朝の飯付きで泊まれるな」
「わかった。それで頼む」
「なら、その階段を上がって一番奥、突き当たりの部屋だ。朝は飯が出るが、夜の分は追加でもらうからそのつもりでな」
そう言うと、店主はジャラリと音を立てる古い鍵をレンに放り投げてきた。
レンはそれを慌ててキャッチし、ギシギシと頼りない木の音を鳴らす階段を上る。案内された部屋を開けると、そこにあったのは板張りの床に直置きされた木のベッド。その上にはペラペラの薄い布布団が一枚敷かれているだけの、徹底的に簡素な空間だった。
レンはそのままベッドへと倒れ込んだ。張り詰めていた緊張の糸が切れた瞬間、今日一日で溜まりに溜まった疲労感が全身を襲う。
……明日のことは、起きてから考えよう。
そう思いながら、レンは深い眠りの底へと落ちていった。
「……知らない、天井だ」
ぼんやりとした頭で、古びた木目の天井を見上げる。
体を起こそうと動いた瞬間、硬いベッドがギシリと大きな音を立て、節々が痛んだ。夢オチであればよかったのだが、現実は非情に、そこにある。窓の隙間から差し込む、まだ完全に登りきっていない朝焼けの光。外から聞こえてくる喧騒が、ここが自分の慣れ親しんだ自室ではないという現実を否応なしに実感させた。
さて、どうしたものか。
まずは現状の整理だ。疑いようもなくここは異世界で、自分は異世界転移者というやつなのだろう。
魔法が実在するかどうかはまだ確認できていない。だが、昨日出会った獣人や、剣を帯びた傭兵たちの様子からして、文明レベルは中世ファンタジーのそれに近い。
手元には金貨が数枚あるが、これはあくまで当座のしのぎにすぎない。このままだと、そう遠くない未来にのたれ死ぬのは確実だった。かといって、いざ一攫千金と意気込んでも、自分の運動神経では魔物の餌食になるのがオチだ。
……無理ゲーすぎる。
不安と焦りが頭をもたげるが、考えても答えは出ない。結局のところ、まずは街の中心にある冒険者ギルドのあたりを覗き、下働きでも何でもいいから仕事を探すのが一番の近道かもしれない。
あれこれと頭を悩ませていると、タイミング良く「ぐぅ」と腹の虫が鳴り響いた。
そういえば、昨日は色々ありすぎてまともに食事をとっていなかった。
「……そういや、朝飯が出るって言ってたな」
昨日の無愛想な店主の言葉を思い出し、体を大きく伸ばすと、ギシギシと音を立てる階段を下りて一階の食堂へと向かった。
一階に降りると、まだまばらではあるが、何人かの客がすでにテーブルについて食事をとっていた。
どうやら、店の一角に置かれた大きな鍋から、自分で粥のようなものをよそって配膳するスタイルのようだ。鼻をくすぐる香ばしい匂いに引き寄せられるように、レンは鍋の置かれた厨房の入り口へと足を向けた。
その奥では、エプロンをつけた妙齢の女性が木べらでぐつぐつとかき混ぜているのが見える。
「あの、すみません」
声をかけると、仕込みに追われていたのか、額の汗をぬぐいながらこちらを振り返り、笑みを向けた。
「あれ、お兄さんおはよう。ここに泊まるの初めて? そこの黒い鍋に入ってるのを、自分の分だけよそって持ってっていいからね」
彼女はレンのすぐ近くにある木製の器と、湯気を立てる黒鍋を指差して教えてくれた。
「ありがとう」
礼を言い、レンは器を手に取ると、黒鍋から慎重に粥をすくってよそう。そのまま近くの長机に腰を下ろした。
目の前にあるのは、見た目にはかなり質素な、いかにも庶民的な麦粥だった。
スプーンですくい、息を吹きかけてから口に運ぶ。
じっくりと煮込まれた麦はふっくらと柔らかく、口に含んだ瞬間、素朴ながらも優しい旨みがじんわりと広がっていった。塩気の効いたスープには、おそらく昨日の料理の残りなのだろう、細かく刻まれた肉の旨みが溶け込んでいる。
朝のひんやりと冷えた空気と、昨日からの疲労困憊の体に、その温かさが染み渡るようだった。
「……見た目は地味だったけど、案外これ、めちゃくちゃうまいな」
素朴ではあるけれど、不思議と底から力が湧いてくるような、そんな味だった。呟いたレンに、すぐ近くから声がかかる。
「でしょ?」
丈夫そうな冒険者用の革鎧に、動きやすいズボン姿。背中には弦のない弓のようなものを背負い、腰のホルダーには使い込まれた小ぶりの剣がラフに吊るされている。サッと後ろで一つに結ばれた活発そうな金髪。いかにも冒険者の雰囲気を漂わせる少女だった。
ニカっと快い笑みを浮かべた少女は、当然のように椅子を引き、レンの向かい側の席に腰を下ろした。
「わざわざ遠方から、この麦粥を目当てに泊まりに来る客だっていっぱいいるんだからね」
彼女は自慢げにうっすらと膨らみのある胸を張り、ふふんと鼻を鳴らす。
「私はクロエ。アンタは、名前なんていうの?」
「俺の名前は立花レンだ。こっち風に言うなら、レン・タチバナ、かな」
「ふーん、変わった名前ね。で、レンは何しにこの街へ?」
何しに、と言われても困る。レン自身、気づいたら放り出されていたのだから。
「いや、それがさ……いつの間にか、この街の街道沿いにぽつんと立ってたんだよ」
「ぷっ……何それ。冗談言うにしても、もう少しマシな嘘を突きなさいよ」
「いや、それがマジなんだって。だから、右も左も分からなくて、いま本当に困ってるんだよ」
本気で頭を抱えるレンを見て、クロエは面白そうに目を細めた。
「ふーん、じゃあ、これからどうするつもりなの?」
「とりあえず、冒険者ギルドに行ってみようかと思ってさ。何か仕事でもあればって」
「確かにあそこなら、いろいろ依頼や仕事の斡旋もしてくれるだろうけどさ」
スプーンを止めてクロエに向き直る。
「たださ、冒険者ギルドに行きたいのはやまやまなんだけどさ、俺にはギルドカードがないんだ。作るには名義ってのが必要なんだろ?」
その言葉を待っていましたとばかりに、クロエは目を輝かせて身を乗り出した。
「あぁ、それね! 名義なんて言っても、ギルドも形式的に置いてるだけだから、街の住人が『こいつは不審者じゃないよ』って一筆書いてやれば、あっさり作れちゃうのよ」
「といっても、さっきも言った通り、俺は今日この街に着いたばかりで知り合いなんて一人もいないんだって」
「それよ、それ!」
「私なら、代わりに名前を貸してあげてもいいわよ?」
「マジで?」
「その代わり……もちろん、タダってわけにはいかないけどね」
……あぁ、やっぱりそれが狙いか。
おおかた、昨日の夜レンがカウンターに置いた金貨をどこかで見られていたらしい。
だが、そうは言っても今のレンにとっては渡りに船だった。背に腹は代えられない。
「いくらだ?」
「昨日、カウンターで見せてたでしょ? あれ、全部」
「待て待て、いくら何でもふっかけすぎだろ! 足元見すぎじゃないか?」
「別にいいのよ。私は今すぐその金がなきゃ困るわけじゃないし、嫌なら他の人を当たれば? 他に頼れる知り合い、いないでしょ?」
クロエは小悪魔的な笑みを浮かべ、余裕綽々と肩をすくめてみせる。
「くそっ……」
見事に弱みを握られたものだ。だが、他に方法もないのも確かだった。
いずれにせよ、じっとしていては始まらない。今日は予定通り、クロエと共に冒険者ギルドへと足を運んでみよう。無駄足に終わる可能性もあるが、動かないよりはマシだ。
クロエはジロリとレンの全身を値踏みするように見つめた。いかにも運動神経がなさそうな、貧相な体つきを確認して、彼女は呆れたように肩をすくめる。
「……で、それはそうとアンタ、魔獣と戦えるの?」
「いや、無理だけどさ。他に伝手なんてマジで何もないんだよ」
「ま、いっか。いまは街の周辺も結構慌ただしい時期だし、運が良ければ荷物持ちの雑用くらいならさせてもらえるかもね」
「慌ただしい……? 何かあったのか?」
クロエの何気ない一言に、レンは思わず眉をひそめた。
「聖騎士団がこの街に来るんだって。定期的な魔獣の討伐任務なんだけど、いつも以上にピリピリしてて慌ただしの。私、目と耳がいいから、そういう情報には結構詳しいんだから!」
自慢げに言っているいわゆる盗み聞きである。
「……わかったよ。頼むよ」
「あはは、話が早くて助かるわ! じゃあ、さっそく朝の片付けが終わったら一緒に冒険者ギルドに行きましょ!」
こうして、手持ちの貴重な資金をゴッソリと巻き上げられつつも、レンはクロエを連れて、初めての冒険者ギルドへと向かうことになったのだった。




