第六話 唯一無二の居場所と愛の誓い
騒がしい悪意から解放された朝の寝室。シャディアはアルバジークの腕の中で目を覚ました。愛しい人の薔薇の香りが鼻孔に広がる。シャディアは胸いっぱいにその香りを吸い込んで、彼の胸に顔を埋めた。
「随分と愛らしいことをしてくれる」
「ジ、ジーク様!? 起きていらっしゃったのですか?」
シャディアは慌てて身体を離そうとする。しかしアルバジークの逞しい腕が華奢な身体に回り込み、逃がすことはない。
「おはよう、ディア」
「……おはようございます、ジーク様」
アルバジークのやさしい口づけが額に落とされる。シャディアを少し赤らめて、それを甘受した。
「新しい教師はどうだ?」
「とても分かりやすく、やさしく教えてくださいます」
「俺とエスカリウスの乳母をしていたからな。知識と教養は誰よりもあるはずだ」
「ふふ。休憩時間には、よくお二人の幼い頃の話をしてくれるんですよ」
「……何? 恥ずかしい話でなければよいのだが……」
自分の幼い頃の話と聞いて、アルバジークは苦虫を噛み潰したような顔をする。シャディアはそれさえも愛しくて、目を細めて笑みを深めた。
「そろそろ起きねばならぬが、そなたを離したくないな」
「私も離れがたいです」
シャディアを抱きしめるアルバジークの腕の力が強くなる。そのとき、扉をノックする音が響いた。
「おはようございます、陛下。お目覚めの時間です」
「……エスカリウスか。無粋なやつめ」
アルバジークが唇を尖らせる。その仕草が子どものようで、シャディアは声を立てて笑った。
「ああ、行きたくない。政務など、エスカリウスが適当にやっておけばよいのだ」
「そんなことを言って。ジーク様は誰よりも民を想っていらっしゃるじゃないですか」
「……一番に想っているのはディアだがな」
「もう、ジーク様ったら」
コンコンコン。催促のノックが響く。アルバジークは小さく舌打ちをして、扉の方を睨みつけた。
「起きている! しばし待て!」
それからシャディアに向き直ると、その小さな唇に口づけを落とす。何度も落とされる小鳥のついばみのような口づけに、シャディアはくすぐったくて笑ってしまった。
「はあ、ディアの笑顔は癒される。……仕方ない。起きてやるとするか」
「私も勉強の前に、あの子の様子を見てこようと思います」
「そうか。大丈夫だとは思うが、十分に気をつけるように」
「はい」
いつまで名残惜しそうなアルバジークと別れて、シャディアを侍女の手を借りながら身支度を整える。そして向かった先は、ベヒモスのいる厩舎だった。
「シャディア様! おはようございます!」
すっかり親しくなった老いた飼育員が元気よく挨拶をしてくれる。シャディアはそれに微笑んで応えると、厩舎の一番奥、あのベヒモスがいる檻へと進んだ。
「おはよう、シグルド。今日も良い天気よ」
「クルルル」
シグルドと名付けられたベヒモスは、シャディアの姿を見るなりうれしそうに甘えた声で喉を鳴らす。かつて彼を戒めていた頑丈な鎖はもうない。主を見つけたベヒモスは従順なのだ。
シャディアは扉を開けて、檻の中へと入る。するとシグルドは藁の上に寝そべり、お腹を見せた。
「ふふ。甘えん坊ね、あなたは」
やさしくお腹を撫でてやる。シグルドはうっとりとした表情で目を細め、小さく喉を鳴らした。
「午後は散歩に行きましょう。勉強が終わったらまたここに来るわね」
「グルゥ」
うれしそうに声を上げるシグルドに、シャディアは笑みを零した。
(ジーク様のお仕事は、いつ終わるかしら……?)
シャディアの瞳は、シグルドとの一見以来、ずっと竜化したままだった。竜の血が馴染んできたせいか、シャディアは無意識にアルバジークを求めるようになっていた。少し離れていただけで、アルバジークのことを考えてしまう。隣にいれば、彼に触れたくてたまらない。
これが番というものかと、シャディアは一人苦笑した。それでも、気持ちの悪い色だと言われ続けたこの金の瞳が、今はアルバジークと同じ色だということが誇らしくてたまらない。
そんなシャディアの表情の変化を察したのか、シグルドが不思議そうに首を傾げる。
「なんでもないのよ。ただ、ジーク様のことを考えていただけ」
止まっていたお腹を撫でる手を動かせば、シグルドは気持ちよさそうにまた小さく鳴いた。
王宮に戻ったシャディアは、竜王妃教育に励んだ。今なら分かる。ヴェロニカに教わっていたことが、どれほど難しいことだったかを。本来の教育内容は、すんなりと学ぶことができた。教師の教え方が上手いということもあるかもしれない。確実に竜王妃としての知識と教養を身に着ける日々は、シャディアに一人の女性として、竜王妃になる者としての自信と覚悟を与えてくれた。
そして夜。勉強で学んだことをベッドの上で振り返りながら、シャディアはアルバジークの帰りを待っていた。
いつもより少し遅い時間に、寝室の扉が開かれる。少し疲れた様子でアルバジークが顔を出した。
「おつかれさまです、ジーク様」
「ああ、ディア。充電させてくれ」
仕事が終わったアルバジークは、いつもまず一番にシャディアを抱きしめる。しかし今夜は一味違う。抱きしめられる前に、シャディアは自らアルバジークの胸へと飛び込んだ。
「ディ、ディア!?」
シャディアの思わぬ行動に、アルバジークがうれしさと驚きを顔に乗せて慌てる。
「おかえりなさい、ジーク様」
「……ディア。ただいま」
ぎゅっと薔薇の香りに包まれる。その濃厚な香りに、シャディアの金の瞳の瞳孔が、うっとりするように広がった。
「――ジーク様、好き」
「!?!?」
ベリッと音がしそうなほどの勢いで、アルバジークがシャディアから身体を離す。そして目をまん丸にさせながら、シャディアの顔をまじまじと見つめた。
「ディ、ディア? 今、なんと?」
「……ジーク様が好き、です」
「っ、ああ! ディア!」
アルバジークの身体が歓喜でぶるりと震えたかと思うと、唇に彼の熱が重なっていた。
「ディア、好きだ。愛している。俺だけのディア……」
額に、瞼に、目尻に、鼻先に。アルバジークの少し熱い唇が落とされる。アルバジークはシャディアを横抱きにしたままベッドへと座って、彼女を膝の上に乗せた。
「ディア……」
指先、手の甲に口づけが落ちる。そして薄くなった手のひらの傷を見て、アルバジークは自分が痛そうに眉をひそめた。
「傷はもう痛まないか、ディア? そなたを危険な目に遭わせた俺を許してくれるか?」
傷を労わるように手のひらに唇が落とされる。シャディアはそれがくすぐったくて、少し身をよじった。
「もう少しも痛くありません、ジーク様。それにあれは、私自身が立ち向かったことです。――ジークに、相応しい女性になりたかったから」
「そなた以上に俺に相応しい者などいるものか。ディアは、俺の唯一無二の存在だ」
深い口づけとともに、二人は寝台の上へと倒れ込む。二人の竜の血が共鳴し、部屋全体に柔らかな金色の光が満ちていく。
自分の身体に圧し掛かるアルバジークの重みさえ、シャディアは愛しいと思った。
「ディア、愛している」
「私も愛しています、ジーク」
薔薇と百合の香りが溶け合っていく。
シャディアは初めて心から、彼の隣が自分の居場所なのだと感じた。アルバジークの大きな手が、肌を撫でるように滑っていく。シャディアはその手つきに溺れながら、幸せな熱に包まれたのだった。




