第五話 檻の中の覚醒と人間界への追放
ヴェロニカによる竜王妃教育はまだ続いていた。
「竜族はベヒモスに騎乗する民族です。今日は騎乗の練習をしましょう」
軽装に着替えて厩舎に向かうシャディアとヴェロニカ。そこにはベヒモスの飼育係である一人の老いた竜族がいた。
「お目にかかれて光栄です、番様」
「あ、初めまして」
「騎乗の練習に来られたんですな。陛下もベヒモスに乗って駆けるのがお好きですので、お二人でお出かけになられるのもよろしいですな」
「ジーク様が? それは楽しそうです」
「陛下のベヒモスは実に聡明でしてな。それとは反対にまだ教育ができていない凶暴なベヒモスもおるのです。番様もそのベヒモスには十分に注意してくだされ」
「はい、分かりました」
二人が話している間に、ヴェロニカはカツカツと厩舎の奥まで足早に歩く。そしてとある檻の前で立ち止まった。
「番様が騎乗するベヒモスはこちらです」
――ガシャン! 頑丈な鉄の音が響く。その音を聞いて、飼育係は顔を青くした。
「リ、リンドール様。そのベヒモスはまだ教育中です。番様にはもっと別のベヒモスを――」
「いいえ。竜王妃となるお方なのです。凶暴なベヒモスくらい手なずけていただかなければ」
飼育係の制止をヴェロニカは聞き入れない。彼女が指定したベヒモスは、あの凶暴な個体だった。
(リンドールさん……もう悪意を隠そうともしないのね……)
シャディアは悲しく思うが、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女のことは自分でなんとかすると決めたのだ。そう奮い立って、シャディアはヴェロニカの隣まで近づいた。
「こ、これは大変なことになった……!」
二人のただならぬ空気を察して、飼育係は走り出す。それに見向きもせずに、ヴェロニカは檻の扉を開けた。
「さあ、番様。中へ」
檻の中のベヒモスが首につけられた頑丈な鎖を引っ張りながら、低い唸り声を出して威嚇する。シャディアはその勢いに怯んだ。
(これがベヒモス……。なんて大きくて恐ろしいの……)
グルルと剥かれたその牙は、シャディアなど簡単に貫いてしまいそうだ。ベヒモスの吊り上がった眼には全てを拒絶する意思が感じられ、シャディアは一歩も動けずにいた。
その様子を見たヴェロニカはほくそ笑む。シャディアができないと泣き叫び醜態をさらすか、怪我を負えばよいと彼女は目論んでいた。
「………」
覚悟を決めたように、震える手で檻を掴んだシャディア。檻の中に入れば、ベヒモスは咆哮してさらに威嚇した。
「……いい子ね。害は与えないわ、大丈夫」
相手を怯えさせないようにゆっくりと手を伸ばしながら近づく。そのときベヒモスが角を振り上げた。
「っ、」
角の先がシャディアの手のひらを裂き、血が散った。百合の香りが濃くなる。手のひらから流れる血を見た瞬間、ドクンと心臓が脈打ち、シャディアの瞳が竜化する。
「グォォオン――!」
シャディアの身体を漆黒のオーラが包む。その金の瞳に見つめられたベヒモスは大きく一鳴きすると、その膝を折り、頭を下げた。
「そんなバカな……!?」
そんなベヒモスの態度に驚くヴェロニカ。シャディアはそのままゆっくりとベヒモスに近づき、角にやさしく触れた。
「もう大丈夫よ。あなたを傷つける者はいないわ。私があなたを守ってあげる」
「グルゥゥゥ」
シャディアの手がベヒモスを撫でる。ベヒモスは気持ちがよさそうに、そっと目を閉じた。
そのときだった。慌てた足音が聞こえてきたかと思えば、アルバジークとエスカリウス、そして飼育係が厩舎に顔を出したのだ。
「ディア!」
アルバジークがシャディアの名を呼ぶ。振り返ったシャディアの手が血に濡れているのを見た瞬間、アルバジークは目にも留まらぬ速さでベヒモスの檻を壊してシャディアの前に立っていた。
「俺の番を傷つけた罪、万死に値する!」
シャディアを傷つけたベヒモスを仕留めようと、怒りをあらわにするアルバジーク。しかしその前に立ちはだかったのはシャディアだった。
「ジーク様。この子はもう私に屈服しています。もう私の騎獣です」
「だめだ。この獣はそなたを傷つけた」
アルバジークの怒りはすさまじく、竜王のオーラが威圧感となって周囲の者を息苦しくさせる。そんな中で一人凛として立っていられたのは、シャディアだけだった。
「いいえ、ジーク様。この傷はこの子と絆を確かめるために必要だったもの。――それよりも、罰すべき者は他にいます」
シャディアは竜化した金の瞳をヴェロニカに向ける。ヴェロニカはアルバジークとシャディアの威圧感を向けられ、膝をつかずにいられなかった。
「どうやらこの子は私を主と認めたようですよ、リンドールさん」
「……っ」
「私はこの子を私の騎獣として認めます。ですが――あなたを侍女とは認めない」
シャディアの金の瞳は美しく煌めき、ヴェロニカをまっすぐに射抜く。
「誰もが凶暴と知るベヒモスをシャディア様に差し向けたのは、明らかに殺意を持った行為だ」
「ち、違います……! 凶暴なベヒモスを従えれば、番様の後ろ盾になると思って――」
「死罪だ」
エスカリウスに弁明しようとしたヴェロニカだったが、アルバジークに短く告げられた言葉に息を呑んだ。
「そ、そんな!? 私は竜王妃候補として! アルバジーク様の隣に立つべく生まれてきました! なのに! たかが番だというだけの女のために、私を殺そうとされるのですか!?」
ヴェロニカは涙を流しながら、アルバジークに縋りつく。しかしアルバジークは彼女を冷たくあしらうだけだった。
「エ、エスカリウス様! 私の忠義はよくご存じでしょう!? どうか! どうかアルバジーク様に進言を!」
今度はエスカリウスに縋りつく。しかし彼は黙って頭を横に振っただけだった。
「ど、どうして……? どうしてこの私にこんな仕打ちを……?」
ヴェロニカは呆然とする。そして頼みの綱だというように、震える手でシャディアの服の裾を掴んだ。
「つ、番様……。どうかお願いです。これからは従順な侍女としてお仕えします。下働きのようなことでも何でもいたします。だから、どうか……っ」
なんと哀れな姿だろうか。あれほど嫌悪していたはずの自分に縋りつくヴェロニカの姿を見て、シャディアは心から同情した。
「ジーク様、彼女の罰は私に決めさせてください」
「……情けをかけるつもりか、ディア」
その瞳に冷徹な光を宿してシャディアは首を横に振る。一度は喜びに笑みを見せたヴェロニカだったが、シャディアの告げた罰に絶望した。
「――竜の血を封印して、人間界に堕としましょう」
高貴だと思っていた血を封印され、下賤だと蔑んだ世界へ追放される。それがどれほどヴェロニカにとって辛い罰か、シャディアは理解していた。
「ああ……っ、そんなっ、嘘よ。嫌ぁ……っ」
人間のままのシャディアだったら、ヴェロニカを許していたかもしれない。しかし黒竜となって竜の本性が目覚め始めた今、自分を殺そうとした彼女を許せるほど、シャディアは理性的になれなかった。
「ディア、こちらへ」
伸ばされた手を取ると、ぎゅっとアルバジークに抱きしめられる。
「そなたが無事でよかった……。飼育係から話を聞いたときは、心臓が止まるかと思った……」
アルバジークの腕が震えている。彼にとって、シャディアを失うことは半身をもがれるようなものだ。その気持ちが痛いほど分かるシャディアだからこそ、彼を慰めるようにそっと抱きしめ返した。
「私は大丈夫です。私はここにいます、ジーク様」
エスカリウスをつれて、二人は厩舎をあとにする。厩舎の中には、ヴェロニカの泣き叫ぶ声だけが響いていた。




