第三話 毒を孕む教育と目覚める本能
本格的にヴェロニカによるシャディアのお世話が始まった。朝の洗顔の水は冷たく、着せられるドレスは質素なものばかりだが、シャディアはヴェロニカの悪意に気づかない。
毎朝、井戸まで行かずに済み、清潔な服を着られる。それだけでシャディアは幸せだった。
「おはよう、ディア」
「おはようございます、ジーク様」
朝食の席では、アルバジークは決まってシャディアの額に口づけを落とす。お決まりの挨拶のようなものだ。口づけをされるたびにくすぐったそうに身をよじるシャディアを、ヴェロニカの冷たい眼差しが指していた。
顔を赤らめたままシャディアは席に着く。朝食に温かな野菜のスープが出されたが、シャディアはなかなか手を出そうとはしなかった。
「どうした、ディア? 食欲がないのか?」
「あ、いえ……。まだ少し寝ぼけているみたいで」
アルバジークにはそう誤魔化したが、本当は竜の国の食事が口に合わなかった。何を食べても苦い味がするのだ。それは自分がまだ竜に馴染んでいないからだと、シャディアは自分に言い聞かせていた。
しかし本当のところは――。
(ふふっ、いい気味ね。そのまま痩せこけて、陛下に愛想をつかされてしまえばいいわ)
ヴェロニカが、シャディアの食事に細工をしていた。竜族でも苦味を感じる薬草を、密かに混ぜ込んでいたのだ。
「ディアは今日も竜王妃の教育があるのか?」
「はい。自室に戻って、リンドールさんに教えてもらう予定です」
「そうか。あまり無理せずともいい。俺たちの寿命は長い。ゆっくり学んでいけばいいのだ」
朝食を終えて自室へと戻るシャディア。ヴェロニカの悪意に気づいていないシャディアは、前を歩く彼女に声をかけた。
「あの……リンドールさん。竜の国のお料理は少し、その……苦いんですね」
「……さあ? 地の民の口には合わないのかもしれませんね」
口調こそは丁寧だが、『地の民』という言葉には侮蔑が含まれていた。シャディアは違和感を覚えたものの、ヴェロニカを疑うということはしない。気のせいかと思い、頭を横に振っただけだった。
(この愚鈍な女……! 苛々する……!)
ヴェロニカはもともと、アルバジークの伴侶となるべく育て上げられた貴族の娘だった。そのために血の滲むような努力をしたし、ライバルから陰湿な虐めを受けることもあった。それでもここまで耐えられたのは、ひとえにアルバジークの伴侶となりたかったからだ。あの高潔な白い竜の隣に、並び立ちたかったからだった。
だからこそ、いきなり現れたただの番であるシャディアを忌々しく思っていた。ただ番だというだけで、無条件でアルバジークに愛されるシャディアがうらやましいのだ。
「今日は前回に続いて礼儀作法の勉強をしましょう」
分厚い教本を開いて、それをシャディアに見せるヴェロニカ。
「……ええと、これは……」
「読み方を忘れてしまったのですか? 竜の国では読めて当然のものです。 番様は記憶力がよろしくないようですわね」
「あ、その……ごめんなさい……」
しかしヴェロニカが読ませているのは、難解な古竜語だった。純粋な竜族ですら、すらすらと読むことは難しいそれを、ヴェロニカはシャディアに押し付けていたのだ。
(リンドールさんに迷惑をかけてばかりだ……。こんな私に、本当に竜王妃なんて務まるの……?)
「番様、もっと頑張っていただかねばなりません。このままでは番様はお飾りの妃として立ち、別に優秀な妃を陛下につけることも考えねばならなくなりますよ」
「そんな……」
アルバジークの隣に他の誰かが立つことを想像して、シャディアの心は暗く淀んだ。彼の隣にいるのは自分だけでいたい。そんな思いが、シャディアの心の中で渦巻いていた。
しかし自分が不出来なのはヴェロニカの言う通りだ。自分がもっと頑張らなければならないと、シャディアは湧き出た嫉妬心を押さえ込み、教本へと視線を戻した。
(そうよ、あなたにアルバジーク様はもったいないわ)
明らかに先ほどより落ち込み、焦りが表情に出ているシャディアを見て、ヴェロニカはほくそ笑む。いかにして自分がアルバジークの隣に立つか。ヴェロニカの頭の中は、その目論見でいっぱいだった。
その日の夜、アルバジークの寝室では。差し出された手を、シャディアは戸惑いながらも取った。
「ああ、俺のディア……」
ベッドの上で後ろからたくましい身体に抱きしめられる。自分の心臓が口から飛び出してしまうのではないかと思うほど、シャディアの鼓動は大きな音を立てていた。
「大丈夫だ、ディア。そなたの心の準備ができるまでは何もしない」
そう言って、やさしくシャディアの髪を梳くアルバジーク。髪の手触りを楽しむように何度も梳いては、そっと口づけを落としていた。
「勉強はどうだ? 何か困ったことはないか?」
「……正直とても難しいですが……、リンドールさんは根気よく教えてくれます」
「少し瞳の色が陰ったな。本当に何もないのか?」
「……はい」
「そうか……。まだ続けられそうか?」
「……がんばりたい、です」
アルバジークの隣に他の人が立つのは嫌だ。そんな思いから突いて出た言葉だった。
「あまり無理をする必要はない。そなたが傍にいてくれるだけでも十分だ」
アルバジークの温かな手が頬を撫でる。その手を、シャディアはぎゅっと握った。
「ジーク様の隣に立ちたいんです。……誰にも、近づけたくない」
自分にこんな強い思いがあるなんて夢にも思わなかった。これが竜の本能というものなのだろうか? シャディアが自分の感情に驚いている中、アルバジークは彼女が見せた独占欲に歓喜していた。
「俺の隣はディアだけだ。誰も俺の傍には近寄らせないよ」
額、瞼、鼻先、頬と、次々とアルバジークの唇が降り注ぐ。シャディアはそんな行為に困った顔をしながらも、どこかうれしそうに受け入れていた。
最初こそアルバジークに抱きしめられて緊張していたシャディアだったが、背中越しに聞こえる彼の鼓動が心地よく、つい瞼が重くなってしまう。
「眠いのか、ディア? ゆっくりおやすみ」
低く甘い声が耳元で囁く。頭を撫でられる感触に酔いしれながら、シャディアはそっと眠りについた。
(ああ、なんて可愛いんだ……! 俺のシャディア……!)
愛しい存在が腕の中にいることを噛みしめながら、アルバジークもそっと目を閉じる。その日、シャディアは、黒竜と人の姿をした自分が向かい合っている光景を夢に見たのだった。
――パリン! アルバジークの寝室から離れた一室で、サイドテーブルから落ちた花瓶が割れて砕けた。
「アルバジーク様と同じ部屋で眠るなんて! 許せない!!」
ヴェロニカの細い腕が、手あたり次第に周囲の物を薙ぎ払う。バサリと本が床に落ち、椅子が転がる。額に入れられたアルバジークの肖像画が棚の上で倒れた。
「あれほど竜王妃にはふさわしくないと教えてやっているのに……!」
ヴェロニカはギリリと歯ぎしりをする。アルバジークにふさわしい竜王妃はこの自分だ。竜王妃になるために、ここまで生きてきたといっても過言ではない。朝から晩まで古竜語の習得に励んだ。礼儀が完璧にできるまで、例え身体を痛めようとも努力を怠らなかった。
「あんな女が竜王妃だなんて認めない。自ら身を引くように、社交で恥をかかせてやるわ!」
真紅の髪が逆立ち、まるで炎のように見える。琥珀色の瞳には、猛毒のような剣吞な光が宿っていた。




