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 この小箱の中の布が、元はどんなシルクの布だったのか想像に難くないが、この状態のシルクを元に戻すのは、不可能だ。


 五人の返事を聞いたローテヒューゲル夫人の切り替えは早かった。


「そう。貴女方、洗濯場に戻りなさい」


 スンと真顔に戻ると、それだけ短く言って踵を返す。

「リーリエ、来なさい」と泣いている桃花色のローブの侍女を呼んだ。リーリエと呼ばれた侍女は手の甲で涙を拭いながら、ローテヒューゲル夫人の後を追う。


「それから、マリアは洗濯婦長に返信を」


 ローテヒューゲル夫人の言葉に、小箱を持った侍女が低い声で「はい」と返事をした。


 侍女が閉じようとする小箱の蓋を、私は両手でグッと手で押さえた。


「………可能な限り、元に近付けることは、出来なくもない、かも、しれないです」


 段々と尻窄みになる私の声。

 ヤケクソだったのは認める。

 ジトッとした目で洗濯女中四人に睨まれた。

 四人は今戻れれば昼食にありつけるだろうが、私は進退がかかっているのだ。

 悪あがきくらいはさせてほしい。


「そう! 期待してるわ。

 マリア、あとは貴女にまかせるわ」


 ローテヒューゲル夫人は束の間立ち止まり、見事な切り替えの早さで、パアッと明るく笑った。

 苦虫を噛み潰したような顔のマリア嬢の返事を待つこともなく、リーリエ嬢を従えて風のように部屋から出て行った。


「………貴女。自信がないのなら、おやめなさい」


 マリア嬢が小箱を持ったまま、眉間にしわを寄せて私を睨む。

 ライラたちも「本当にできるの?」と言いたげな顔だ。

 できるも何も。やらないと、私にはマダム・ハウライトが待ち構えているのだ。

 おそらく四人は、それを知らない。


「可能な限り、やってみようかと」


 案はある。

 確信はないが、試す価値はあると思う。


「洗濯婦長も色々と試されたようですが、最終的には匙を投げました。

 ローテヒューゲル夫人の期待を裏切ると、痛い目を見ますよ」


 苦々しくマリア嬢が言う。

 思わず「えっ」と五人でマリア嬢を見てしまった。


 ちょっと待て。ネッサが匙を投げたなんて、私は何も聞いていない。


 洗濯女中四人が揃って私を見たが、私はブンブンと首を振った。

「婦長が無理なことを私たちができるわけ無いじゃない」と四人の顔に書いてある。

 ご尤も。ネッサが色々やってこれなのなら、絶望的なのは間違いない。


「…………とりあえず、これ、広げて見てもいいですか?」


「ええ」とマリア嬢は頷いて、部屋の中央にあるテーブルに移動した。

 洗濯場のような染みだらけの天板のテーブルではない。真っ白なクロスの敷かれたテーブルである。まあ、我々洗濯女中が洗ったクロスだろうが。


 小箱をそのクロスの上に置き、「どうぞ」とマリア嬢に促された。

 彼女は布に触りたくないらしい。指一本触れようとしない。

 私は、そっと布を取り出し、クロスの上に広げた。


「うわっ」


 声をあげてしまった。

 片腕の長さほどの歪な四角形の布。たぶん女性用のスカーフだ。元は正方形だったのだろうが、型崩れしたようだ。

 元の色かは分からないが、くすんだ白色の朱子織。金糸で縁取られた刺繍は、よく見れば点対称の唐草模様のようで、薔薇のモチーフがあしらわれている。

 元の形を想像すれば、使用人が触ってはいけないものだと分かる。


「これって、金額換算できないくらい高価なものですよね? こんなボロボロになってたら駄目なんじゃないですか?」


 引き攣った顔でソフィがマリア嬢を見た。


「ですから、ローテヒューゲル夫人が元に戻してほしいと仰っているのです」


 マリア嬢が慳貪けんどんに答えた。「余計な詮索はするな」とでも言いたいのだろう。

 とは言え、確認したいことは山程ある。


「シルクの朱子織のスカーフ、ですよね?」


「光沢は置いておいて、色は元からこの色なんですか?」


「ええ。色は、ほぼ元に戻っています」


「元に戻る? 変色していたんですか?」


「いえ。汚れが付いていて」


「何の汚れです?」


「血液汚れですか?」


「お飲み物の、葡萄酒の汚れです」


「だから、洗濯した訳ですね」


「それで? お湯で洗ったんですか?」


「それとも、灰汁に浸け置きですか?」


 洗濯女中五人で、矢継ぎ早に質問をする。

 取り囲まれたマリア嬢は完全に圧倒されている。


「その両方かと。鍋で、灰と煮込んだと、聞いています」


 思わず絶句した。

 五人とも、スカーフを見て沈黙している。

 シルクに熱湯は厳禁だ。灰汁も厳禁。なぜなら繊維自体が傷むから。そして、傷んだ繊維は、元に戻らない。

 熱湯と灰汁、どちらか一方であってもシルクの修復は難しい。それを、両方施されたと言うことか。


「ミア、これは無理だよ。諦めるしかない。

 シルクを灰と煮込むって、あり得ないよ。形があるだけマシだと考えるしかない」


「洗濯婦長が手を尽くして、ここまで戻りました。ですが、ローテヒューゲル夫人は、この状態に納得されていません」


「納得されてないって言っても。洗濯の範疇を超えてるよ、これ」


 食い下がるソフィを宥めながらも、他の三人も同じ意見なのか、頷いている。


「あー、私は、やるだけやらないと………。成果無しで帰ったら、マダムの懲罰部屋行きなんだよね……」


 ぶっちゃけてみると、やはり四人は知らなかったようで、四者四様の表情だ。

 エマは口元を手で押さえて驚いていて、ソフィは眉間にシワを寄せて厳しい顔。マーサは今にも泣きそうで、ライラに至っては黙想中である。


「確かに。あんなホラ吹かれて、そのお仕置きが、ただの手紙の受け渡しで済む訳ないよね」


 ソフィが尤もなことを言う。


「懲罰部屋よりも先に、頭と胴が離れますよ」


 マリア嬢が、深く溜息を吐きながらボソッと呟いた。

「はい?」と五人でマリア嬢を見てしまった。


「解雇の比喩表現ではありません。首を刎ねられる、と言う意味です。

 ローテヒューゲル夫人の納得する出来にならなければ、貴女は刑に処されるんです」


 眉間にシワを寄せて、マリア嬢が私を見る。


「………金糸刺繍のシルクスカーフを、灰と煮込んで台無しにしたのは、洗濯女中の貴女だと。そういう筋書きです。

 理不尽だとお思いでしょうが、ローテヒューゲル夫人は、全ての責任を貴女に負わせるつもりです。

 ですから。

 自信がないのならおやめなさいと、言ったではないですか」


「…………いや、その時はもう、ローテヒューゲル夫人いなかったし」


 思考が散乱して、ついどうでも良いことを言ってしまった。


 マリア嬢は、顎にクルミの殻のようにシワを寄せて、口をへの字にしている。


 つまりは、リーリエと呼ばれていた、ローテヒューゲル夫人の後ろで泣いていた桃花色のローブの侍女の身代わり。

 マリア嬢の、私を見る時の強い視線と眉間のシワは、最早標準装備と捉えることにしているのだが、本当に彼女が苦々しく思っているのは、もしかしたら、私ではないのかもしれない。


「揚げ足を取っている場合ではありません。

 ローテヒューゲル夫人にああ言ってしまった以上、貴女は何としてでも、スカーフを仕上げなければならないんです」


 マリア嬢に睨まれた。

 要するに、命懸けでやれということか。


「あー………。それなら、私以外の四人は洗濯場に戻りますよ。本人たちは絶対できないって言っていますし、正真正銘の手紙の遣いだけですから」


 私は、マリア嬢だけを見つめながら言った。

 視界の片隅に四人はいたが、あえて意識しないようにした。

 助力を求めてはいけない。巻き込んではいけない。四人は関係ない。

 そんな気持ちもあるが、四人を見ると、泣きたくなるからだ。

 ライラやマーサ、エマもソフィも、彼女たちが断頭台に頭を垂らしている姿なんて、想像したくもないし、想像してはいけない。


「貴女方五人が、この部屋から出ることは許可されていません。

 ーーーただ。ローテヒューゲル夫人の考えでは、責を負うのは貴女一人の予定です」


 刎ねられるのは、この首一つだけ。

「だから五人で知恵を絞りながら何としてでもやりきりなさい」と言われているようで、本当に泣きそうになった。


 この硬い骨に、この温かく脈打つ首に、斧が振り下ろされるとしたら。

 これはもう、笑うしかない。

 実際に笑った。ほとんど泣き笑いだが。


「ミア。随分と楽しそうじゃなくて?

 笑っている余裕があるなら、思い付くもの片っ端から試しましょうよ」


 エマが、横から私の肩を抱く。


「その前に、シルクの状況を確認しないとだね。婦長が何か施しているなら、それも調べないと」


 ソフィが、スカーフの刺繍を、指の腹でなぞりながら目を凝らす。

「絶対できないとは言ってないんだけど」と四人が不敵な笑みを浮かべた。


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