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怪物と戦う者は、自らも怪物にならぬよう心せよ。
虚無主義の哲学者の格言である。
いけ好かないユリウスが滲ませた焦りを見て、私は、その一節を思い出していた。
盲目的に崇め奉る正義は、果たして本当に正義なのか。
前提を取り払った虚無主義のような、貼り付けていた忠誠心の皮が剥がれるのを、垣間見た気がした。
エミール様は、侍従ではない。
侍従ではない何かだったのか、或いは、いなかったことになっているだけなのか。
私の知るところではない。
ただ、エミール様も、紋章付きの錫製スプーンも、この城にとっては不都合な存在であることは確かである。
「ここでの話は、他言無用だよ」
ユリウスが再度言った。
軽口を叩く気分にはなれなかった。
まともに頷くことすら忘れて、ただ耳を澄ませた。
先程とは違うその声色に、漆黒に満ちた夜空に六等星の輝きを観た気がしたためである。
その声に、僅かに希望が隠れているように聞こえたのだが、私の気のせいだろうか。
「――じゃ、そういうことで。
さようなら」
銀食器部屋から、突き飛ばされるように追い出された。
やっぱり、いけ好かなさは健在である。
そして、何とも言えない既視感。
このユリウスと呼ばれる男。どこか、マダム・ハウライトに似ている。
唐突に、私はそう思った。
顔貌が似ているわけではない。整っているのは同じだが、マダムの面影なんてどこにもないし、使用人というだけで接点もないはずなのだが。
なぜかそう思った。
どこが似ているのかと自問しながら突き詰めたところで、上手く表現することもできないのだが。
なんとなく、雰囲気が似ている。
息をするように嫌味を言うところとか。
まあ、上級使用人の大半がそうなのかも知れないが。
所謂、同じ部類の人間なのだろうが。
それにしても、雰囲気がよく似ている。
あとでユリウスという人物について、マリア嬢なら知っているかもしれない。
なんて思いながら、皿洗い女中たちの鍋洗いに加わろうと思ったが。
既に解散していた。
調理場にも人がいない。
そんなに時間が経っていたのか。
ということは。
洗濯場の夕食は、とっくに終わっていることだろう。
「――くそったれがぁ」
私は思わずその場で叫んでいた。
おまえが長く深淵を見つめるとき、深淵もまたおまえを見つめ返すのだ。
前出の格言の後文である。
「――私、夕食も食べ損ねてるんだけど……」
そして私が見つめているのは、深淵ではなく、ライラである。
そして、ソフィであり、マーサであり、つまりは、洗濯女中の同部屋の面々である。
「残っているわけがないじゃない」
「昨日の夜は早く戻ってきて一緒に食べたじゃない」
「今日の夕食少なかったのよ」
底知れず淀んだ目は、それこそ深淵である。
分かっている。
毎度毎度、厚意に甘えるわけにもいかないことも。
だけど。
「――ねえ。床に落ちているパン屑、朝はなかったよ。
しかも、食べたことのない白パンのパン屑……」
ざっと五人から一斉に視線を逸らされた。
そう。
白パン。
生まれてこの方、口にしたことがない、小麦でできたパン。
そのパン屑が、どうして屋根裏に落ちているのだ。
どうして、と言いつつ理由は分かる。どうせエマかライラが、誰かから仕入れてきたのだろう。
なぜ、私に残しておいてくれないのか。なんて意地汚いことは言わない。
その場に居合わせなかった私が悪いのだ。
言わないが、心の中で叫ばせてくれ。
なぜ私に残しておいてくれないのか。
「白パンって言っても、一番粉を使ったものじゃないよ」
「たぶんあれは三番粉以降ねーー」
のんびり言ったマーサと、ドヤ顔で言ったサラの脇腹に、ソフィが左右の肘をそれぞれ打ち込む。
一番粉――つまりは、はじめの脱穀で作られる最も白い不純物の少ない小麦粉ではなく、その後の殻を臼で挽いて作った小麦粉だと言いたいのだろうが。
つまりは、小麦粉のパンを食べたと言うことである。
「――パン焼き窯に、行ってみたのよ。ソフィと」
そう言ったのは、エマである。
「そこで面白い話が聞けたから、ミアを待ってたのよ。ね?」
へえ。
みんなで白パンを食べながら、私を待っていたんだ。
それで、私の存在を忘れて全て残さず食べたというわけか。
ふうん。
「ミアだって、芥子の実の焼き菓子、一人で食べたんでしょ。お相子でしょう?」
「相子にもならないわよ。
私たち三番粉のパンよ。砂糖も牛酪も入ってないのよ」
それを引き合いに出されても。
ちなみに、エマの言葉尻をとらえて言ったのはサラである。
あれはラウダヌム擬き入りでクソ不味だったし、小麦粉の風味も何もなかったと思うが。
いや牛酪の風味はあったような気もするが、その後が壮絶過ぎて、あまり記憶に残っていない。
「で、そのミアが食べた焼き菓子の話よ」
私の不貞腐れた顔を無視して、エマが続ける。
「前にソフィが蒸留室の話をしていたでしょう? それで不思議に思ったのよ」
「話した時には半分寝ぼけてて――いや寝ぼけてなんていないんだけど、つまり、うっかり見落としてたんだけど。
蒸留室で作るのは、公爵閣下とそのご家族の食べる菓子なの。
使用人が食べる菓子なんて、作らないんだよ」
「公爵閣下やご家族の口に入るものって、ものすごく気を遣うから、お零れを使用人が預かるっていうのは稀にあったとしても、同じ場で使用人が口にする物を作るって、あり得ないのよ」
エマとソフィが、お互いに顔を見合わせながら話す。
ソフィの表情は、どことなく硬い。
つまり、どこで作られたかによって、私の食べたあの焼き菓子が、誰のために作られたのか分かる、ということか。
「もし、使用人が食べる用に作られた焼き菓子なのであれば、蒸留室ではなく、パン焼き窯ならあり得るかもって、ソフィと話をして。
それで、パン焼き窯に行ってみたのよ」
「でね」とエマが身を乗り出した。
「たまに女中が来るみたいなのよ。
パンを焼いた後の余熱を使って、菓子を作らせてくれって。
しかも、材料は侍女様から、女中たちの労い用に頂いたものだって話よ」
「それと。
――たぶんその女中、蒸留室女中だと思う。
パン職人から聞いた背格好からの推測だけど」
ソフィが言った。
表情が硬いのはそのせいか。
元同僚が、ラウダヌム擬き入り焼き菓子製造に関わっている。
あまり気分の良い話ではない。
真面目な子たちだと、ソフィは寝言のように言っていたではないか。
その発言自体をソフィが覚えているかは分からないが、少なくとも、本心ではあるのだろう。
誰もがなりうるのだ。
深淵に引きずり込まれることも。そして、怪物にも。
それは、私にも言えることである。




