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「洗濯場の石鹸でないのなら、鍋洗いや床磨きに使っている石鹸はどうやって手に入れたんだ?」
料理番に呼び出されて尋ねられた。
身奇麗な女中が去って、しばらくしてからである。
料理番の口調は穏やかだった。石鹸の横流しを咎められた時とは大違いである。
嫌な予感しかしない。
「……大かまどの灰と、廃棄予定の脂を使って、皿洗い女中たちと作ってます」
まあ、今使っているのは酒精入りの私の自作だが。数日後からは、言った通りのものを使うことになるのだ。嘘は言っていない。
「その石鹸で、食器の黒ずみは落とせるか?」
「無理です」
予感的中。
あんたもか。
うんざりしつつ、私は即答する。
「錫製ではなく銀――」
「出来ません。落ちません。無理です。諦めてください」
私は、言いたいだけ言って、すぐさま視線を下げてお辞儀をした。
「私の煤汚れで調理場の床が汚れてしまいますので、洗い場に戻ります。失礼いたします」
そして一目散に、半地下の洗い場に逃げ帰る。
料理番がどんな表情をしていたかなんて、知らないし、知りたくもない。
ただ。
私の表情は、酷かったらしい。
洗い場に戻ると同時に、皿洗い女中たちが眉を八の字にして私を見てくる。
彼女たちの表情は、困惑と言うより怯えの表情である。
「――――何か、問題でもありましたか?」
眉間にシワを寄せたマリア嬢に、私は真顔で首をブンブンと横に振った。
「いえ。どうでもいい話を、聞かされそうになっただけです。
問題ありません」
本当に。
どうでもいい話である。私を巻き込まないで欲しい。
皿洗い女中たちにも、「何も心配することはない」と言おうとしたが、言葉が出なかった。
彼女たちの視線は、既に私から外されていた。
皿洗い女中たちの眉の形は、相変わらず八の字のまま。
口角も下げて、言うならば、完全に引き攣った表情である。
視線の先に、何があるのか、見ずとも分かる。
その方向は、下処理場の端。
例の、鍵のかかった扉である。
私も、無意識に、口角を下げて頬を引き攣らせていた。
「――頼みたいことがあるんだ。赤毛の洗濯女中さん」
背後からかけられる、落ち着いた声。声の主は、私のすぐ後ろにいる。
裏拳を打てば届くのではと思うくらい近い。
足音も立てずに背後を取られた。
いっそ裏拳で顔面を打ってやろうかとも考えたが、やめた。
一応、自制心は機能している。
「――――なんでしょうか」
私は、ゆっくりと振り返って言った。
「驚かないんだね」
「とても驚いています」
「そうかな。歯軋りをしているのかと思ったよ」
穏やかに笑うその顔に、正拳をめり込ませたい衝動に駆られた。
「歯軋りですか。してませんよ」
必死に衝動に耐えながら、私も穏やかに笑った。
まあ、ほとんど歯軋りのような声だったが。
「だから! あんた、その脳筋の発想で従僕に喧嘩売るのやめなさいよ!」と皿洗い女中たちに突き出される形で、私は銀食器部屋に連行された。
例に漏れず、糊状石鹸で、銀食器の黒ずみを落とせないかという話である。
「――靴もピカピカになる石鹸だって言っていたよね。
もしかして、嘘をついたのかな」
そう朗らかに笑った、いけ好かない上級使用人。
ええ。嘘をつきましたとも。
この糊状石鹸で革靴を磨いてはいけません。色が落ちます。
と言いたいところであるが、論点はそこではない。
「銀食器の黒ずみは汚れではありません。銀自体が変質したものです。石鹸では落ちません」
「それを理解した上で訊いているのだ。
銀食器については、貴様より我々の方が詳しい」
この偉そうな発言は、シミーである。
この前の錫製スプーン騒動がショック療法として効いたのか、復活しやがった。
とは言え、まだ万全ではないようであるが。
なにせ、棚の影に身を潜めて顔半分でこちらを見ながら話しているのだから。
「じゃあ、なぜ私を呼んだのですか。
石鹸で落ちないのをご存じであるなら、私が呼ばれる意味ないですよね」
「君、恐ろしく物知りなんだってね。何か知っているかと思ったのだけど。
――我々が知らない、異国の術とか」
だから。私は間諜じゃない。
言ったのはいけ好かない上級使用人であるが、私は横目でシミーを睨みつけた。
家庭教師の妄言を、この上級使用人に伝えたのがシミーであることは、火を見るより明らかだ。
棚から半分見えていたシミーの顔が、もう半分つまりは四分の一ほど引っ込んだ。
「脅すつもりでしたら、止めたほうが良いですよ。私の身の上は、マダムも承知していますから。
あと、それを言い出したご本人様から、誤解を解いてもらいましたので」
「き、貴様! 洗濯女中だけでは飽き足らず、先生までも――――!」
私が横目で睨みながら言うと、シミーが棚の影から叫んだ。依然として顔は四分の一であるが。
「ティモシー、落ち着け。今はそんなことを言っている場合じゃない。
君さ、知っているよね。銀食器が、砒毒で黒ずむって」
いけ好かない上級使用人が、真顔で言う。
思わず、私は顔を強張らせた。
「そこで驚かれても困るんだけど。
銀食器が黒ずむ原因は、砒毒だけじゃない。食材由来で黒ずんでしまうことだってある。今回でいうと、黄身を使ったソースが原因かな。
でもさ。ついこの前、不始末があった調理場だよ。
黒ずんだ銀食器を見たら、誰が何て思うかな。想像してみてよ」
そう言って朗らかに笑ったこの男が、私には、ひたすら不快だった。
「洗い場に君を訪ねた女中は給仕担当。料理を運んだ人間だよ。
その後君を呼び出した料理番。まあ、彼は盛り付けも調理もしていないけどね。
そしてこの場にいるティモシーと私。
この黒ずみが原因で、解雇されるとしたら、誰だと思う?」
「私には、関係のない話です」
「冷たいね。
命を存えた後の、生業について心を砕いてくれと頼んだのは君だろう?」
それは、エリカ女史との会話の中の言葉だ。
なぜ、それを知っているのか。
「――――こちらも、形振りをかまっていられないんだ」
上級使用人がニコッと笑った。
と。思った瞬間に真顔に戻る。
そして、私の肩をガシッと掴んた。
「わかる? 銀の黒ずみだよ。どうやって落とすと思う? ひたすら布で磨くんだよ。無用な傷をつけないようにね。
寝ずに磨いても一晩でどうにもならない。
わかるよね。
執事長にバレた日には一貫の終わり。みんな解雇。
バレずに落とせると思う? 無理だよね」
上級使用人の目が、血走っている。
なんか、キャラが崩壊していないか。
「それもこれも、全部あのじゃじゃ馬のせいなんだけどさ。
わかるかな? もう何回目だと思う? 自腹切ってすり替えてるこっちの身にもなってよって。もうね、金額的にも無理なわけ。
しかも、こんな時にさ。
バレたら、みんなクビだよ。
わかってるのかな、あの子。わかってるんだろうな。わかっててやってるんだよね、あの子」
私には、さっぱり、わからない。
私の肩を掴みながら滔々と語っているが、一体何の話をしているのだ。
まあ、じゃじゃ馬が誰なのか、想像がつかないわけではないが、敢えて考えないことにした。
「なので。
お知恵を拝借したいんです!」
とうとう上級使用人が、洗い場の床に膝立ちになって私を拝みだした。
やめろ。
本当に。そう言うの。
「――あの。
さっきも、言いましたけど、黒ずみは汚れじゃないんで、石鹸では落ちませんよ」
こればっかりは、拝まれても無理である。
あと、その押して駄目なら引いてみろ的な発想も。
迷惑である。
「――あのばっちい石鹸じゃなくても。
何か、方法があれば教えてください!
何でもします!」
ばっちい石鹸って何だ。
こちとら片腕潰す覚悟で自作したんだが。
まあ、いい。
何でもするって、言ったな。
「あ。何でもするって言うのは、どんな方法でも試すって意味で…………。
――いや、何でもないです。
要望があれば、言ってください」
膝立ちのまま、上級使用人が朗らかに笑った。
ただ、その口元は、プルプルと震えていた。




