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「マダムの話なんかした?」


 翌朝の、ソフィの言葉である。


 蒸留室について私に教えたことは、辛うじて覚えていたが、マダムの件(くだり)は記憶にないらしい。


「子供じゃないんだから、寝落ちとかしないよ、私。

 ミアの聞き間違いでしょ」


 首を傾げながらソフィが真顔で言った。

 あれを寝落ちと言わずに何というのか。

 まあいい。

 みんな疲れていると言うことにしておこう。



 それから数日は、日中は看護女中部屋、日没後は調理場の洗い場、終わり次第大至急洗濯場に戻るという日課だった。

 ちなみに、大至急洗濯場に戻っているのは、夕食に間に合わせるためである。


 つまり。未だにマダムは、皿洗い女中を雇い入れてくれない。


 マダムは悪い人じゃない。ソフィはそう言うが。

 これは完全に、私に対する嫌がらせだ。

 悪い人ではないにしろ、私のことは、きっと嫌いなのだろう。


 と言うか。

 マダムは私に、何をさせたいのだろうか。

 目障りなら、解雇すれば済むものを。


 ふと、そんな根本的なことを考えてしまった。


 まあ。

 家庭教師の依頼(こづかい稼ぎ)には、この臨時皿洗い女中はちょうど良いのであるが。

 堆肥場や食糧庫の近くを私が徘徊していても、誰にも不審がられないのだ。


 とは言え、これといって、何か収穫があったわけではない。


 まず堆肥場。

 明るい時間帯に見に行くと、必ず、丁寧に撹拌された見事な堆肥が、堀底に鎮座している。

 そして、あの日以来、園丁の下男と遭遇できていないため、話を聞くこともできていない。


 続いて芥子の実の殻剥き。

 下処理は朝一番に行われるため、私は遭遇したことがない。

 そして下処理で出た廃棄物。

 私が洗い場に来る頃には「そこの桶に入ってない? ないなら、誰かが堆肥場に持って行ったんじゃない?」と言われる。

 双六で言うなら、振り出しに戻る、である。


 で。蒸留室と蒸留室女中。

 ソフィは調理場の近くと言ったが、どこにあるのか分からないし、誰が蒸留室女中なのか分からない。

 ソフィには、自分の名前を出すなと言われているし、誰彼構わず話しかけるのも憚られる。

 マリア嬢に聞いてみたが、言葉を濁された。自身が公爵夫人の侍女であったことを知る女中たちとの接触を、マリア嬢は極力避けているらしい。それはその通りだと思う。


 こんな状況である。

 収穫なんて、あるわけなかろう。


 家庭教師から前金は受け取ったが、期日が定められているわけではない。

 やることはやる。

 ただし、その速度は指定されていない。

 はず。


 そう自分に言い聞かせつつ、私は、看護女中部屋の棚の中の、真っ白になって丁寧に畳まれているのに歪(いびつ)に積み上がる子供用の肌着と向き合った。


 そもそも。私の主戦場は、エリアス様の肌着の洗濯である。


 ちなみに、歪なのは、肌着の大きさにばらつきがあるためだ。

 塔の部屋の、これまでの肌着の積み上げ方と、私とライラの肌着の取り出し方が、噛み合わなかったせいである。

 どうにかして同じ大きさの肌着を積み上げようと、ライラとあれこれ試行錯誤しているが、未だ無様な状態である。


 そこに今日洗い上げた肌着を積み上げて、私は調理場の洗い場に向かった。




 調理場はピリピリとした空気に包まれている。

 連日のことである。


 私は、殺気立った料理番や調理場女中の隙間を縫って、大かまどの灰を桶いっぱいに拝借する。

 最早、誰も私に気を留めない。


 灰はもちろん、糊状石鹸の材料である。

 ただし、今日使用する石鹸のためではない。


 酒精を使わずに、糊状石鹸を作っているのだ。

 灰と脂。それだけで石鹸はできる。しかし、時間がかかる。

 酒精を混ぜれば、私の上腕二頭筋が千切れるかも、くらいで出来上がるところ。酒精なしであると、朝昼晩と皿洗い女中が一人ずつ腕を潰しながら撹拌して10日。それでやっと石鹸として使える代物になる。


 エリカ女史の酒精が底をついたわけではない。

 ただ、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。看護女中部屋からの融通が、いつまで続くかは不明だし、それこそ横流しとイチャモンを付けられるのも困る。


 と、言うことで。

 皿洗い女中たちに一日三回、つまりは一日三人、人身――ならぬ人腕御供になってもらった。


 最初に作った桶が石鹸になるまで、あと数日。その間は、酒精入りの糊状石鹸で凌いでいる。

 一日一つずつ、撹拌する桶が増えていくが、まあ仕方ない。


 そんなことを考えながら、灰から灰汁を作っていたところだった。


「ねえ」


 と背後から声をかけられたのは。


 とても控えめな、と言うより、敢えて潜めたような声だった。

 「何でしょう」と私は振り返った。

 皿洗い女中ではない、身奇麗なお仕着せを着た女中が、そこにいた。


「あなた、あの真っ黒な焦げ鍋を洗い上げる石鹸を持っているのよね」


 その女中は、あたりを気にしながら、小さい声で私に尋ねた。


「それ、食器にも使えるのよね」


「ええ。使えますよ」


「――食器の、黒ずみも、落とせるかしら」


 一段と声が小さくなる。


 黒ずみ。

 錫食器の宿命とも言える、それ。

 糊状なので、砂などの研磨剤よりも黒ずみを優しく落とすこともできるとは思うのだが。

 今使っている糊状石鹸には、酒精が入っている。


「落ちなくもないですが。絶対大丈夫とは言えませんね。錫は、変色しやすいですから」


「…………錫製ではないの――――」


 女中の、消えそうなほど小さい声。

 錫製ではない食器。それって。

 嫌な予感しかしなかった。


「――――銀食器」


「使えません」


 私は即答した。


 寄せ集めの廃棄物で作った即席石鹸である。それで銀食器を洗うなんて。

 銀食器の洗い場には、高価な石鹸があったはずだが。


「ほんの少しだけ……」


「できません」


「誰にも言わないから……」


「いけません」


 なおも食い下がる女中を、都度都度跳ね除ける私。


「この糊状石鹸で、黒ずみを落とすことはできません。無理です」


 最後は、ピシャリと一刀両断させてもらった。

 なにせ、無理なものは無理なのだ。

 銀の黒ずみは、石鹸ではどうしようもない。

 銀自体が変質してしまっているのだ。いくら糊状であっても、石鹸では絶対に落ちない。

 それこそ、研磨剤で磨くしかない。

 まあ、研磨剤を使うと、銀食器のあの輝きは消えるだろうが。


 そもそも。

 高貴な人々の使用する食器として銀食器が好まれるのは、あの輝きも然ることながら、砒毒に反応するからでは。

 正確には、砒毒の混合物に反応しているので、毒のものではないのだが。

 どちらにしろ、銀食器が黒ずむと言うことは。


 やめた。

 考えない。


 私は、ニッコリと口角を上げて、その女中に言った。


「鍋の煤汚れが床に流れていますから、洗い場に長居されると、お召し物が汚れますよ」


 洗い場から出てってくれ。という意味である。


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