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「そんなこと、できるわけないだろ」
上級使用人が顔を上げて言った。
至極真っ当な意見である。
はあぁと大きくため息を吐いて、上級使用人は立ち上がった。
トラウザーズのポケットから真っ白な手巾を取り出すと、それとともに隙間に手を突っ込む。
そうしてまた隙間から、例のスプーンを引き出した。
まるで、ばっちいものを摘むような手つきである。
「ティモシー、起きろ。洗い場の食器を全て数えてくれ。
水を抜いて、水槽の中も確認だ」
泡を吹く元腰巾着の肩を掴み、ガクガクと揺する。
それでも正気に戻らない元腰巾着。
「おい。いつまでフザケているつもりだ」と上級使用人は、真顔で元腰巾着の頬に往復ビンタを食らわせていた。
別にフザケているわけではないと思う。元腰巾着は。
と言うか、フザケていたのはそっちの方では。
なんて思ったが、もちろん口には出さない。
「君も。
お遊びの時間は終いだよ。調理場に戻りなさい」
床磨きである。断じて遊んでなんかいない。
と言うか、遊んでいたのはそっちだろうが。
もちろん口に出すこともなく、私は藁束を桶に戻す。
「あ。水槽の水を抜くなら、床に撒いてもいいですか。泡を流すので――」
「却下。今すぐ出てけ」
笑顔で即答しやがった。
取り付く島もない上級使用人の返答に、私は心の中で舌打ちした。
「――――これ。銀製じゃない」
私を下処理場の扉に追い立てていた上級使用人の背後で、正気を取り戻した元腰巾着が呟く。
私と上級使用人は同時に振り返った。
「銀じゃない。錫のスプーンだ」
そのくすんだスプーンを水槽で洗っていた元腰巾着が、こちらを見ながら言った。
しばし、上級使用人と元腰巾着が目を瞬かせながら沈黙する。
「なぜ、錫製のスプーンが落ちてたんだ」と声には出さないが、その視線が大きく叫んでいた。
「それは、銀食器が使えない来賓のための食器だと思いますよ」
マリア嬢が、鍋を洗いながら私に言った。
調理場の洗い場である。
銀食器の洗い場からは、「君には関係ない」と上級使用人にそのまま扉から追い出された。
桶も一緒に放り出され、丁寧に扉に鍵までかけてくれた。
まあ、もともと鍵が掛かっていた扉なので、丁寧とは言えないかもしれないが。
そして、洗い場で、皿洗い女中たちと楽しく無駄話と、糊状石鹸水での鍋洗いに興じている。
醜聞は、下級女中の娯楽である。
銀食器の洗い場で見たこと聞いたこと、全て。
彼女たちにぶち撒けた。
守秘義務なんて知ったこっちゃない。あれは私の業務ではないのだ。
そもそも、あのいけ好かない上級使用人も、料理番も、私の正当な上司ではない。ここは洗濯場ではないから、私の上司はマダムだけである。
料理番は、マダムがその指示に従えと言ったから調理場での指示には従うが。だからといって、料理番は私の人事権までは持っていない。銀食器部屋に行けというのは越権行為だ。
つまり守秘義務といったコンプライアンスの問題を持ち出すなら、指示系統の不正運営の方がよっぽど問題だろう。
ぐだぐだと理由をつけて、何が言いたいのかというと。
腹いせである。
そして、マリア嬢の考察。
他の皿洗い女中たちは、「そうなの?」と顔を見合わせている。
「――なぜか銀食器を使われると口周りがかぶれる方とか、稀にいらっしゃるんです。本当に、稀ですが」
マリア嬢は、少し言い淀みながら続ける。
「おば様が――――いえ、私の知り合いの貴族の邸宅では、用意がありました。ご夫人とお子様が、そのような体質でしたので用意があったのかもしれません。
そうですね、多くの方は知らないのだと思います」
寂しそうにマリア嬢が微笑んだ。
在りし日のおば様とエミール様のことを思い出したのだろう。
かつて頻繁に遊びに来ていた、二人がその体質なのであれば、マリア嬢の家でも、その配慮があったのだろう。
マリア嬢が、それが当たり前だと思うくらいに。
エミール様は、かつてこの城でエリアス様の侍従だった。
ならば、そういう体質の人がいることを、食器を扱う上級使用人たちは知っていて当然だろう。
だから、錫で出来た来賓用の食器を、銀食器と一緒に用意していた。
「稀な体質ですので、ほとんど使用されず、放置されていたのかもしれませんね。
――とは言え、来賓用の食器が隙間に落ちているなんて、銀食器部屋の管理不行届きであることに、何ら変わりありませんが」
スンとマリア嬢が真顔に戻って言った。
いや。真顔以上に、鋭利である。
何だか。マリア嬢が、お怒りの様子だ。
「――まったく。くっだらない遊びに、付き合わせないでほしいわ」
マリア嬢だけではない。皿洗い女中たちもお怒りの様子。
何かやらかしたか、私。
本日何度目かの、腹の底からの冷や汗をかいた。
「――――ミアさんは悪くないのよ。巻き込まれただけだもの」
マリア嬢が微笑む。しかし、その声色は恐ろしいほど冷たい。
「本当に。ただの余興で連れて行かないでほしいわ」
それ以降、マリア嬢も皿洗い女中も黙ってしまい、ザッザッと鍋を力強く擦る音だけが聞こえてくる。
もしかして、私のことを思って、怒ってくれているのだろうか。
私を、調理場の洗い場の仲間と、認めてもらえたのだろうか。
そう思うと、なんだか口元がニヤけてしまう。
「ねえ、あんた。次、銀食器の洗い場に行くときは、その石鹸置いてって。
それないと、仕事にならないのよ」
私、ではなく、私の石鹸、ね。
そうだと思った。
でも。
持って行けって突き出したの、そっちでは?
なんてことは、言わないでおく。




