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 嘘である。


 糊状石鹸で、上級使用人の履物はピカピカにはならない。

 なぜなら、黒革の靴だから。

 石鹸が付着した部分だけ、輝きが失われる。

 靴に付着しないあたりの床に、石鹸を投げ付けたつもりであるが、微細な飛沫まではわからない。


 この上級使用人が今日一日どこにいたのか知らないが、日没後でも黒光りするほど手入れの行き届いている革靴である。

 まあ、石鹸で油分を失った靴を磨き上げるくらい造作もないはず。

 と、口角を上げつつ、内心冷や汗をかいていた。


 が。

 その冷や汗が、氷柱のごとく凍りつく事実に、私は思い至った。


 あの糊状石鹸、溶剤(酒精)が入っているんだった。

 色が、落ちるのでは。


 洗濯女中(わたし)としたことが、失念していた。

 あの黒ぐろとした革靴が、白く点々と色落ちした革靴に、成り果てる。かも。

 今、この瞬間に染料が溶けている。かも。


 最早、口角を上げる余裕はなくなった。

 その黒い革靴だけを見つめて、足元に駆け寄る。

 上級使用人の顔色を伺う余裕も、元腰巾着の悲鳴を聞いている余裕もなかった。


 両手で上級使用人の革靴をがっちりと掴み、顔を寄せて糊状石鹸の有無を確認する。


 今のところ、目立つ付着はない。

 でも、履かれたままだと、見えないところもある。


「――靴、ピッカピカに磨きますんで。今すぐ脱いでいただけますか」


 私は、革靴から視線を上げ、上級使用人の顔を見上げながら言った。

 上級使用人の口角がヒクヒクと動く。


「――――何なの、君」


 暗い上級使用人の声と視線。そのこめかみには、青筋すら見える。

 いきなり「靴を脱げ」は不味かったか。

 お叱りを受けるだろうが仕方ない。靴のためなのだ。


 それに。何なの、と問われても。


「ただの洗濯女中です。今は、臨時皿洗い女中でもありますが」


 私は、真顔で答えた。


 上級使用人が靴を脱がないので、私はポケットから手巾を出して、靴の表面を拭き取る。

 見たところ、色落ちはないようだ。


「やめろ! 勝手なことするな! 離れろ!」


 上級使用人が声を荒げた。

 怒声と言うよりは、悲鳴である。


 上級使用人は私の手巾から逃れようと足を上げるが、私が靴をがっちりと掴んでいるため、ふらふらとバランスを崩している。


 転ばれても困るので、私は靴から手を離し、その足元から離れた。

 よろよろとした足取りだったが、上級使用人は転ぶことなく私と反対の壁の方へたどり着いた。


「本当にさ、何なの君。

 ――――もういいよ! 調理場戻って」


 もういいって、何だ。

 糊状石鹸を投げつけたのはやり過ぎだったにしろ、床を磨けと連れてきたのは、そちらである。


「ティモシー! 床の汚いヘドロみたいなのも掃除して。

 跡形もなく綺麗にしないと、明日、部屋長に殴られるよ!」


 私が帰り支度――といっても桶を持つだけなのだが――をしている横で、上級使用人が苛立ちを隠さず言い募る。

「殴られる」という言葉に、元腰巾着は怯えた表情になった。それを見た上級使用人が声を上げて嗤う。


 本当に、性格悪いなこいつ。


 別に、ティモシーが可哀想とか、そう思ったわけではない。


 私は手に提げた桶を再び床に下ろし、そこから藁束を取り出した。

 床に広がった糊状石鹸を、藁束で一つに集めていく。それを両手ですくって、桶に戻した。

 石鹸が勿体ないと思っただけである。


 手で取り切れない石鹸は、藁束で擦って泡にする。


「何してんの。

 調理場に戻れって言ったんだけど」


 私を見て、遠くから冷たく言う上級使用人。


「ねえ、聞こえてる?」


 それを無視して床を擦り続けていると、いつの間にか、私の目の前に黒革の靴が来る。

 藁束ごと手を踏まれそうになった。


 見上げれば、ニッコリと笑う上級使用人の顔があった。


「――そこの下処理に続く扉、鍵かかってますよね」


「今は開いている。だから戻れ」


「いつもは、鍵かかってますよね」


 私は、藁束を床に置いて立ち上がった。

 上級使用人のすぐ目の前。メンチを切る位置である。


「貴方ですよね、その扉の鍵の管理って。

 私を、この部屋に入れたのも、貴方ですよね。

 銀食器の部屋って、執事長の許可がないと入れないんじゃないですか。銀食器を洗っているこの部屋も同じですよね。

 私が、今ここにいることって、もちろん、ご存じなんですよね。部屋長も、執事長も」


 上級使用人の顔が、不機嫌に歪んだ。


「――まさか、許可とってないんですか?」


 わあ、びっくり。

 と私は、これみよがしに驚いた表情をしてみせた。




 と言うことで。

 私は今、銀食器の洗い場の床を磨いている。


「本当に何なの。意味わからない」


 顔を歪めてブツブツ文句を垂れる上級使用人。


「だから床を掃除させろって、何? 君、何なの、本当に」


 同じことを何度も言わせるな。そして、言うな。

 意味は分かるだろうに。

 石鹸が勿体ないんだよ。

 汚いヘドロみたいと言われたが、洗浄効果は抜群の糊状石鹸である。

 そのまま廃棄されるには、惜しいものなのだ。

 目の前に、石鹸をぶちまけた床があるなら、これ幸いと磨きたくなるだろうが。


 私は、ひたすら洗い場の床に這いつくばって、白い泡を作りながらワシワシと床材を藁束で擦っていく。


「――もしかして君、本当はティモシーが好きなの? 罵倒されるの好きなの?

 それとも罪悪感? 可哀想とか思ってんの? 自分のせいでこんなに零落れて、とか思ってる?」


 何なんだ。

 この上級使用人。


 やることがないのかサボっているのか知らないが、口だけ動かしながら、私から少し離れたところで、すっとこちらを見ながらウロウロしている。


 ウザい。

 本当にウザい。

 少し黙っていて欲しいし、ウロウロしないで欲しい。

 気が散るわけではないが、目障りである。


 この泡立った藁束で、その革靴を磨いてやろうか。

 まあ、靴が可哀想なので実際にはしないが。

 そんな無駄な苛立ちを産む上級使用人の態度である。



 床を磨いていると、見えないものが見えたりする。

 気にも留めないことに、気付くことがある。


 何が言いたいのかというと。

 隙間に落ちているものを、見つけやすいということだ。


 相変わらず、元腰巾着は、私が近付くと声を上げて硬直する。

 そのせいで銀食器を落とされても困るので、私は、なるべく近寄らないようにして、床を磨いていた。

 彼の立つ位置を確認するため、その足に視線を走らしていて気が付いてしまったのだ。


 水槽と壁と床の隙間。

 僅かに光を反射する物に。


 初めは硬貨かと思った。

 落ちている硬貨を見つけるなんて幸運だな、くらいに軽く考えていたのだが。

 場所が場所である。


 まさか、銀食器。

 いやいや。公爵家の財産ともいえる銀食器が、そんな管理でいいのか。


 と、手を止めてそろそろと隙間に近づきながら、目を凝らす。


「――――どうかした?」


 私の後ろでうろついていた上級使用人も、顔を突き出しながら、そろそろと近付いてくる。

 私たちの行動に、元腰巾着も手を止めて、おどおどと視線を走らせる。


 三人で、その隙間をじいっと見つめる。

 やはり、何かある。


 最初に手を伸ばしたのは私である。

 しかしすぐに引っ込めた。マリア嬢の言葉を思い出したからだ。

「銀食器に触れたら、手を切り落とされると考えなさい」と。


 そして、上級使用人の背後に回り、その背中を押す。


「えっ! 何で! ティモシーやって!」


 上級使用人が元腰巾着の腕を引っ張り、自分と隙間の間に割り込ませる。

 私に近付いたがために、元腰巾着が奇声を上げて激しく後退る。

 それに突き飛ばされるように後に回った上級使用人が、私を押す。


 三人が三人、逆押しくら饅頭状態で圧(へ)し合った結果。

 元腰巾着が、隙間に手を入れた。


 と言うか。

 その手を、肘から操っているのは、上級使用人と私である。


 元腰巾着の背中を、上級使用人と私ががっちりと押さえ込んで、腕をトングやリーチャーのようにして隙間に突っ込ませている。


 元腰巾着は、白目を剥いて口から泡を出している状態だ。


 そうやって引き摺り出したそれは、すっかり輝きを失った、小さなスプーンだった。


 もともとは、輝いていたであろうスプーンが、なぜ。

 いや。なぜ、なんて考えることすらない。


 洗っていて落ちて、放置されたとしか考えられない。

 そう思い至った途端、上級使用人が膝から崩れ落ちた。


「…………嘘だろ。……何で。

 数は合っているはずなのに…………」


 真っ青な顔をして頭を抱えてブツブツと呟いている。

 洗い途中に落ちてそのまま長期間放置なんて、銀食器担当としてあるまじき行為である。

 解雇すら考えられる程の失態だ。


 放心状態の二人。

 私は、相変わらず口から泡を吹いている元腰巾着の、スプーンを持った腕を再び隙間に突っ込んだ。

 トンと手首を叩けば、スプーンが手から落ちた。


「――見なかったことにしましょう」


 私はその場で立ち上がって、声高らかに言った。



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