54
「あの、すみません。銀食器部屋って、何ですか」
私がそう言うと、あたりが静まり返った。
いけ好かない上級使用人も、料理番も、調理場女中も、洗い場の皿洗い女中たちまでも。
束の間、呼吸すらしていないのではと思ってしまうほどの沈黙。
「――――お前。まさかその年齢で新人か?」
料理番が目を丸くしながら言う。
「洗濯女中としてであれば五年目ですが、臨時皿洗い女中としてはまだ新人の域かと」
と言うか。
その年齢って、何だ。その年齢って。
私を何歳だと思っているのか。そもそも、あんたは私の年齢を知っているのか。
「あはは、真面目に答えるんだ。面白いね、君」
上級使用人が、目を細めて歯を見せて言う。言葉と違って、不愉快そうな声。
「何か、と問われてもね。何も、知らなくていいよ。
君は、洗い場に這いつくばって、従僕の足だけ見て、邪魔にならないところで、床を磨き上げているだけでいい」
要するに、余計なことはするな、である。
強烈に人を見下す毒を吐いているのに、顔だけは好青年を維持し続ける上級男性使用人。
それはそれで尊敬に値する。
まじまじと、その一見穏やかそうな顔を見ていたら、私の両脇を誰かが固めた。
皿洗い女中たちだった。
「少々支度のお時間をいただきます!」
「床磨きの用具を整えましたら、すぐ戻りますので!」
両脇の二人が上擦った声を張り、そして私を半地下の洗い場へ引き摺っていく。
「――あんたねぇ! アレにケンカ売ってんじゃないわよ!」
「さすがに洗濯女中でもダメでしょ――」とか何とか言いながら、昨日の糊状石鹸の残りが入った桶に、藁束や麻布を放り込んでいく皿洗い女中たち。
「銀食器部屋は、公爵閣下と公爵夫人、パトリツィア様やエリアス様が、普段お使いになる食器類を管理保管する部屋です。
執事長が指名した従僕だけが、入室を許可されている部屋です」
大かまどの灰が目一杯入った桶を私に持たせながら、マリア嬢が言う。
「――え、執事長?」
女中の責任者がマダムであるなら、執事長は男性使用人の責任者。しかも、城内に限らず対外的なことも行う。所謂、公爵閣下の秘書的存在だ。
その執事長が、指名した従僕――なのか。
あの、いけ好かない上級使用人は。
「銀食器には、絶対に触ってはいけません。何があってもです。どんなに汚れていてもです。――まあ、汚れなんてないでしょうが。
銀食器に触れたら、その手が切り落とされると考えてください。
ひたすら、顔を上げず、目を合わせず、言葉を発せず、床の汚れを落とすのです。
出来ますね?」
マリア嬢に、めちゃくちゃ真剣な顔で言い含められる。
私だって、分別ぐらいはあるつもりだ。
そう思いつつも、黙って頷くしかなかった。
皿洗い女中たちが、道具の入った石鹸桶を、灰と反対の手に持たせる。
「頑張れ」
「脇目を振らないこと」
「余計なことしないのよ」
そう言う皿洗い女中たちに、掌で背中を強く押されながら、私は半地下から追い出された。
いけ好かない上級使用人に連れてこられたのは、洗い場である。
調理場の半地下の洗い場と、大差ない銀食器の洗い場。
大差ないと言うのは、今日の洗い場と比べてである。私からしたら、十分に清潔な洗い場である。
ちなみにであるが、この洗い場は、調理場の洗い場の近くにある。調理場の洗い場と、下処理場を挟んで隣に位置していると思われる。
銀食器の洗い場へは、下処理場の隅の鍵のかけられていた扉から入ってきたのだ。
上級使用人の後ろを歩いているとは言え、背中を押して追い出したはずの私が、すぐ半地下に戻ってきたのだ。
目を瞬かせる皿洗い女中たちと目が合って、少し気まずかった。
ぎこちなく会釈しながら下処理場へと通り抜けてきた。
さて、銀食器の洗い場。
調理場の洗い場の水槽と比べて、半分ほどしかない。
銀食器専用なので、それでも十分大きいのだろう。
そこに、男性使用人が一人、こちらに背中を向けて作業をしていた。
水仕事をしているからか、黒いウエストコートに黒いトラウザーズ。黒いジャケットの着用はない。
いけ好かない上級使用人は、私にその場で待機するよう身振りで指示を出し、その作業中の男性使用人に、背後から近づいた。
「ちゃんとやってるかい、ティモシー」
肩口から手元を覗き込むように声をかけられ、男性使用人の背中がビクンと大きく跳ねた。
「あはは。驚きすぎだよ。いい加減、慣れてくれないかな」
そう朗らかに笑ういけ好かない上級使用人を見る男性使用人。
その横顔に、見覚えがある。
家庭教師の、元腰巾着ではないか。
「――部屋長もひどいよね。
調理場の洗い場が見違えるようにきれいになったからって、こっちは水跡一つ残すなとか。
まさか銀食器でなくて、床を磨くことになるなんて、舐められたものだよ」
饒舌な上級使用人。
元腰巾着は、かつて傲慢で謎の自信に満ちていた顔が、今や怯え切った小動物のような目をして、彼を見ている。
何の因果か。
そう思った時だった。
「だからさ。
――――彼女、連れてきたよ」
元腰巾着が振り返って私を見る。
悲鳴。
と言うか、絶叫。
水槽の縁にしがみつき、そのまま中に落ちてしまうのではないかと思うほど身を乗り出して、私から僅かでも離れようと必死の元腰巾着。
その横で、上級使用人は口を大きく開けて笑っていた。
カエルとかヘビとか、他人の苦手なものを、その目の前に突き出して、他人が動揺している姿を見て楽しんでいる。
それである。
他人が驚いたり動揺したりしている様子を見るのを、娯楽だと思っている人間がいるのは知っている。
「いやぁ、ちょうど君が洗い場にいてくれて、本当に良かった。
君だって、ティモシーが嫌いだろう。ざまあみろと思っているんだろう?」
は。ふざけんな。
元腰巾着が皿洗いに零落れたとか、従僕たちから舐められていて憐れだとか、そういうことはどうでもいい。
元腰巾着に対する、怒りも憎しみも憐憫も、何にもなくて、ただただ関心がない。
それに尽きるのだが。
めちゃくちゃ腹立たしい。
人の嫌がることを敢えてして愉しむ神経は、如何なものかと思う。何より、私を巻き込むな。
自前で用意した小道具ならまだしも。
例えるなら、カエルやヘビと同じである。泣き叫ばれたその生き物たちは、ただ単にその場で生きているだけではないか。
私はただ、洗濯をしていただけだし、昨日も床の汚れを落としただけだ。
私は、ダンと床に灰の桶を置き、糊状石鹸の桶に手を突っ込んだ。
糊状石鹸をこぶし大――と思ったが勿体ないので、こぶしの半分くらい掴む。
そして、満面の笑顔の、上級使用人の足元近くに投げつけた。
ベチャと音がして、糊状石鹸が床に広がる。
まるで、吐瀉物か汚泥のような、それが。
それを見て、上級使用人は真顔で黙り込んだ。
元腰巾着は「ヒィィ」と奇声を上げながら体を竦めている。
「――なんか、ものすごい汚いものを見つけた気がして。
あ。もしかして、お履物に付きました? すみません。床しか見ていなかったもので。
こんな見た目ですが、これ、とても良く汚れが落ちる石鹸です。お履物がピカピカになりますよ。磨きましょうか?」
口角を上げて、私は言った。




