53
日が暮れて、調理場の洗い場に向かう途中で、堆肥場に寄った。
まだ空が明るいせいか、堆肥場には人がいた。
園丁の下男である。
堀の底で、柄の長い農具を使って、汚泥や糞尿をかき混ぜている。かなりの重労働のようだった。
「――汚泥か? 桶を貸しな」
私を見つけると、作業の手を止めて、よく日に焼けた顔でニッコリと笑ってくれた。
愛想がいい。
「あ、いや。汚泥は持ってきてなくて。
――ちょっと確認したいことが……」
正直なところ、人がいるとも話しかけられるとも思っていなかったのだ。
返答が、しどろもどろになってしまった。
私の態度に、下男がカッと目を見開く。
「確認だと?!」と見る見る笑顔が厳つく強張っていく。
不審者だとか何様だとか、怒鳴りつけられるヤツだと思った。
「やっべ! 臭った!?
南風吹いてるからいいかなァって思ったけど、やっぱ、お城の方まで臭ってる?」
下男の凛々しい眉が、急にハの字になった。
別に、臭いの苦情に来たわけではないのだが。
にしても。
この下男、ノリが軽い。
無骨な肉体労働者の形をして、めちゃくちゃ軽い。
「うおっ! いつの間にか日が暮れてる! また苦情が来ちまう!」とか何とか言いながら、農具を引き抜き、エッホエッホと堀の底を移動していく。
「今日の天地返しはもう終いだから! もうそんなに臭わねェと思う!」
そう叫びながら堀の底を軽やかに去っていく下男。
確認したかったのは、芥子の殻が運び込まれたかなのだが。
それを伝える間もなかった。
そして、目下には、丁寧に鋤き込まれた土と枯れ葉と汚泥と糞尿。
と言うか。最早、堆肥。
匂いだって、未だに強烈ではあるが、昨夜のような粘膜が痛くなるような匂いではない。
あの下男、なかなか腕が良いようだ。
思わず、フフッと笑ってしまった。
自嘲である。
ここに芥子の殻が混ざっているかなんて、わかるわけがない。
収穫なし。
そう思いながら、調理場に入る。
途端に、いつも騒々しい調理場が静まり返った。
調理場女中たちが、手を止めて私を見ている。
彼女たちは、皿洗い女中ではない。調理に携わる女中である。なので、臨時皿洗いとは言え洗濯女中の私なんぞ、視界の端にすら入れたくないと常々言っている調理場女中が。
私を見ている。
え。何事。
と洗い場を見遣ると、その半地下の入り口から見知った顔が四つ。マリア嬢と皿洗い女中たちだ。
四人の表情は、憐憫そのものである。
それが、私に向けられている。
「――お前ェ!」
そして料理番の怒声。
それもまた、私に向けられている。
「何をしてくれたんだ!」
ズカズカと激しい足取りで近付いてくる料理番。
何をしたって。何のことだ。
「……お前、臭いぞ」
私を見下ろす形で立ち止まった料理番が、顔を顰めて言う。
「堆肥場に、寄ってきたもので。
あ、今日の天地返しはもう終いだから夜は匂わないと――」
「そんなことは訊いていない!」
じゃあ、何が訊きたいんだよ。
何をしたと問われ、臭いと言われ、誠心誠意答えたのに。
何なんだ。
と口に出して言いたいが、黙っておく。
心の中だけで毒を吐き散らかす。
「――堆肥場の前は、朝から肌着の洗濯をしていました。洗って干してアイロン掛けして、という工程です。
昨日の夜は、そこの洗い場で鍋を洗って、ついでに洗い場も掃除しました。昨日の昼は――」
「本当に鍋を洗ったのか、昨日。
あの山積みの鍋を磨いて、それから洗い場まで磨き上げたと」
料理番が言う。怪訝と言うよりは、目を見開いた驚愕と言った表情で。
磨いたわけではないが、結果的にそうなったのは確かである。
そこを嘘ついて何になる。
と言うか、あの山積みの鍋が、煤汚れを落とされて調理場に戻ったのを確認しているだろう。
「石鹸を横流ししたのかァ!!」
一段と大きくなった料理番の声。
鼓膜がビリビリする。
横流しか。
石鹸の横流しは、していない。
とは言え、材料の酒精は、ウナ女史の了解は得ているが、横流しと言えるような言えないような。白とも黒とも言えない、所謂、灰色だ。
どう応えようか迷っていた時である。
「まあまあ。もっと穏やかに話しましょうよ」
聞いたことのない、若い男の声。
言葉の通り、その声は、とても穏やかだった。
料理番の後方に立っている線の細い男。着ているのは、丈の長い黒いジャケット。上級の男性使用人のお仕着せである。
まっすぐに切りそろえられた薄い金髪に、口角を上げながらも、少し困ったように手振りをつけながら言うその男。
絵に描いたような好青年だった。
「仮に洗濯場の石鹸を使っていたとして、洗い場が掃除されたこと自体は、褒められるべきではないですか」
その上級使用人が朗らかに言う。
振り返って彼を見ていた料理番が、眉を顰めた。
うぐっと口ごもるのを見るに、料理番より立場が上なのだろう。
「私がそちらに問い合わせたのは、調理場の備品管理の不手際ではないんです」
上級使用人にそう言われ、料理番は完全に下を向いて沈黙した。ただ、その口は激しく奥歯を噛み締めている。
「――我々の、銀食器部屋の洗い場より、まさか調理場の洗い場の方が磨き上げられているとは、女中にどのような指示を出したのでしょうか、と尋ねただけですよ」
穏やかに上級使用人が微笑む。
この人。態々、嫌味を言いに調理場まで来たのか。
銀食器部屋とは、随分と暇らしい。
顔を上げた料理番が、私を見る。
眉間にシワを寄せ、口もとをヒクヒクさせた、何とも形容しがたい顔だった。
「――――今日は、銀食器部屋の洗い場の掃除もするように」
「はい?」
なぜ、そうなる。
「でも、マダムの指示がなければ勝手なことは――――」
「お前、家政婦長に何て言われてきた? 料理番の指示に従うように、だろう」
確かに、そのとおりではあるのだが。
なぜ、私なのだ。
「洗い場掃除、しっかり頼むよ」
いつの間にか、私の横に来ていた上級使用人に、ニッコリ笑顔で言われる。
「――――赤毛の、洗濯女中さん」
その目尻を下げた青い瞳が、仄暗く私を見つめていた。
「てか君、臭くない?」
スンと真顔になったその上級使用人の意図を、私は汲みかねていた。




