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 日が暮れて、調理場の洗い場に向かう途中で、堆肥場に寄った。


 まだ空が明るいせいか、堆肥場には人がいた。

 園丁の下男である。

 堀の底で、柄の長い農具を使って、汚泥や糞尿をかき混ぜている。かなりの重労働のようだった。


「――汚泥か? 桶を貸しな」


 私を見つけると、作業の手を止めて、よく日に焼けた顔でニッコリと笑ってくれた。

 愛想がいい。


「あ、いや。汚泥は持ってきてなくて。

 ――ちょっと確認したいことが……」


 正直なところ、人がいるとも話しかけられるとも思っていなかったのだ。

 返答が、しどろもどろになってしまった。


 私の態度に、下男がカッと目を見開く。

「確認だと?!」と見る見る笑顔が厳つく強張っていく。

 不審者だとか何様だとか、怒鳴りつけられるヤツだと思った。


「やっべ! 臭(にお)った!?

 南風吹いてるからいいかなァって思ったけど、やっぱ、お城の方まで臭ってる?」

  

 下男の凛々しい眉が、急にハの字になった。

 別に、臭いの苦情に来たわけではないのだが。


 にしても。

 この下男、ノリが軽い。

 無骨な肉体労働者の形(なり)をして、めちゃくちゃ軽い。

「うおっ! いつの間にか日が暮れてる! また苦情が来ちまう!」とか何とか言いながら、農具を引き抜き、エッホエッホと堀の底を移動していく。


「今日の天地返しはもう終いだから! もうそんなに臭(にお)わねェと思う!」


 そう叫びながら堀の底を軽やかに去っていく下男。


 確認したかったのは、芥子の殻が運び込まれたかなのだが。

 それを伝える間もなかった。


 そして、目下には、丁寧に鋤き込まれた土と枯れ葉と汚泥と糞尿。

 と言うか。最早、堆肥。


 匂いだって、未だに強烈ではあるが、昨夜のような粘膜が痛くなるような匂いではない。

 あの下男、なかなか腕が良いようだ。


 思わず、フフッと笑ってしまった。

 自嘲である。


 ここに芥子の殻が混ざっているかなんて、わかるわけがない。



 収穫なし。

 そう思いながら、調理場に入る。


 途端に、いつも騒々しい調理場が静まり返った。

 調理場女中たちが、手を止めて私を見ている。

 彼女たちは、皿洗い女中ではない。調理に携わる女中である。なので、臨時皿洗いとは言え洗濯女中の私なんぞ、視界の端にすら入れたくないと常々言っている調理場女中が。

 私を見ている。


 え。何事。

 と洗い場を見遣ると、その半地下の入り口から見知った顔が四つ。マリア嬢と皿洗い女中たちだ。

 四人の表情は、憐憫そのものである。

 それが、私に向けられている。


「――お前ェ!」


 そして料理番の怒声。

 それもまた、私に向けられている。


「何をしてくれたんだ!」


 ズカズカと激しい足取りで近付いてくる料理番。

 何をしたって。何のことだ。


「……お前、臭(くさ)いぞ」


 私を見下ろす形で立ち止まった料理番が、顔を顰めて言う。


「堆肥場に、寄ってきたもので。

 あ、今日の天地返しはもう終いだから夜は匂わないと――」


「そんなことは訊いていない!」


 じゃあ、何が訊きたいんだよ。

 何をしたと問われ、臭いと言われ、誠心誠意答えたのに。

 何なんだ。


 と口に出して言いたいが、黙っておく。

 心の中だけで毒を吐き散らかす。


「――堆肥場の前は、朝から肌着の洗濯をしていました。洗って干してアイロン掛けして、という工程です。

 昨日の夜は、そこの洗い場で鍋を洗って、ついでに洗い場も掃除しました。昨日の昼は――」


「本当に鍋を洗ったのか、昨日。

 あの山積みの鍋を磨いて、それから洗い場まで磨き上げたと」


 料理番が言う。怪訝と言うよりは、目を見開いた驚愕と言った表情で。


 磨いたわけではないが、結果的にそうなったのは確かである。

 そこを嘘ついて何になる。

 と言うか、あの山積みの鍋が、煤汚れを落とされて調理場に戻ったのを確認しているだろう。


「石鹸を横流ししたのかァ!!」


 一段と大きくなった料理番の声。

 鼓膜がビリビリする。


 横流しか。

 石鹸の横流しは、していない。

 とは言え、材料の酒精は、ウナ女史の了解は得ているが、横流しと言えるような言えないような。白とも黒とも言えない、所謂、灰色(グレー)だ。


 どう応えようか迷っていた時である。


「まあまあ。もっと穏やかに話しましょうよ」


 聞いたことのない、若い男の声。

 言葉の通り、その声は、とても穏やかだった。


 料理番の後方に立っている線の細い男。着ているのは、丈の長い黒いジャケット。上級の男性使用人のお仕着せである。

 まっすぐに切りそろえられた薄い金髪に、口角を上げながらも、少し困ったように手振りをつけながら言うその男。

 絵に描いたような好青年だった。


「仮に洗濯場の石鹸を使っていたとして、洗い場が掃除されたこと自体は、褒められるべきではないですか」


 その上級使用人が朗らかに言う。


 振り返って彼を見ていた料理番が、眉を顰めた。

 うぐっと口ごもるのを見るに、料理番より立場が上なのだろう。


「私がそちらに問い合わせたのは、調理場の備品管理の不手際ではないんです」


 上級使用人にそう言われ、料理番は完全に下を向いて沈黙した。ただ、その口は激しく奥歯を噛み締めている。


「――我々の、銀食器部屋の洗い場より、まさか調理場の洗い場の方が磨き上げられているとは、女中にどのような指示を出したのでしょうか、と尋ねただけですよ」


 穏やかに上級使用人が微笑む。


 この人。態々、嫌味を言いに調理場まで来たのか。

 銀食器部屋とは、随分と暇らしい。


 顔を上げた料理番が、私を見る。

 眉間にシワを寄せ、口もとをヒクヒクさせた、何とも形容しがたい顔だった。


「――――今日は、銀食器部屋の洗い場の掃除もするように」


「はい?」


 なぜ、そうなる。


「でも、マダムの指示がなければ勝手なことは――――」


「お前、家政婦長に何て言われてきた? 料理番の指示に従うように、だろう」


 確かに、そのとおりではあるのだが。

 なぜ、私なのだ。


「洗い場掃除、しっかり頼むよ」


 いつの間にか、私の横に来ていた上級使用人に、ニッコリ笑顔で言われる。


「――――赤毛の、洗濯女中さん」


 その目尻を下げた青い瞳が、仄暗く私を見つめていた。


「てか君、臭くない?」


 スンと真顔になったその上級使用人の意図を、私は汲みかねていた。


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