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鼻につく。
という表現では足りない。目が痛くなるほどの、強烈な臭いを放つ堀。
それはそうだろう。
調理場の洗い場や下処理で出た廃棄物のみならず、居館から出た汚泥、糞尿すらこちらに廃棄されているのだから。
城壁の裏手にある堆肥場である。
私はそこに、桶の汚泥を流し入れながら、目を眇めるように、その堀の底を眺めた。
真っ暗で、何も見えない。
顔を近づけて見てみる――――なんてことは流石にしない。
存在の確認だけなら、明るくなってからでいい。
とりあえず、皿洗い女中に言われた仕事だけこなして、調理場の洗い場に戻った。
鍋も使用人の夕食の片付けも終わった洗い場。
皿洗い女中たちは、とっくに帰ったと思いきや、まだいた。
しかも、藁束を握りしめて、真っ黒な床に四つん這いになっている。
「――この辺も、擦れば落ちるかなって思って」
皿洗い女中の一人が照れくさそうに言った。
汚れがあると落としたくなるのは、とても良く分かる。
と言うことで。
私も、藁束を片手に、這いつくばる。
「――――危ないわ。これ」
皿洗い女中が顔を、ハッと上げて言った。
「気付いたら朝になってるヤツよ。危険過ぎる」
私が堆肥場から戻ってきた時には活気のあった調理場が、今や、火は落ち、人は消え、明かりもない。
床磨きに熱中しすぎたようだ。
「危ない、危ない」「やめよ、やめよ」と皿洗い女中たちが立ち上がって、藁束を桶に放り込みながら、床に水を撒く。
そう。
汚れ落としは中毒性が高いのだ。
皿洗い女中たちが帰り支度を始めている中で、マリア嬢だけが、藁束で床を擦り続けている。
「もう上がるけど。まだ続けるの?」
「また明日にしよ」
皿洗い女中たちに言われるが、マリア嬢は顔だけ上げて笑った。
「もう少しだけ。お先にお休みください」
そう言っているが、マリア嬢も、少し疲れているような気がする。
私も、マリア嬢の横で、四つん這いになって藁束を動かし続けた。
「明日も早いんだから、ほどほどにしなよ」と言いながら洗い場を後にする皿洗い女中たち。
マリア嬢を仲間のようなものと認めているのが、よく分かる。
嬉しいような、ホッとしたような。それでいて、ほんの少し、好きなものを先取りされたような、不思議な感覚だった。
人気のない調理場。
暗い洗い場に、燭台一つ。
その頼りないあかりのもと、二人で床を擦る。
「――ミアさんは」
しばらく沈黙が続いた後、マリア嬢が手を止めた。小さな声だが、よく響く。
「お帰りにならないんですか。もう夜も更けますよ」
「あの辺の汚れを落としてから帰ろうかと。
マリア嬢は、私にお構いなくお帰りになってください」
「…………そうですか」
それだけ言って、マリア嬢はまた床を磨き出す。
耳に入るのは、ザッザッと藁束の擦る音だけ。二人して、口を閉じたまま、ひたすらに手を動かした。
「――何か、ありましたか?」
先に口を開いたのは私である。
マリア嬢が、何かいつもと違う気がした。私が芥子の実の話を聞いたあたりから。
どことなく、多弁である。
マリア嬢は、藁束を握りしめたまま、床を擦る動きを止めた。視線は床のまま。
「芥子の実、ですか?」
そう尋ねる私の声は、自分でも驚くくらい重かった。喉が詰まるような、そんな息苦しさがあった。
顔を上げたマリア嬢が、私を見てふわりと微笑んだ。
「いいえ、芥子の実は関係ありません。
家のことを、色々と思い出したもので。
――ミアさん、少しだけ話を聞いていただけますか。私の、罪の話です」
この薄暗い洗い場の、マリア嬢のその笑顔は、告白者の自嘲だった。
「私の母の友人に、南部地方の由緒ある貴族に嫁いだ方がいらっしゃいます。
私は、その方の口添えで、ノルデン公爵夫人の侍女になりました」
マリア嬢は、ゆっくりと静かに語り出した。
ご実家の聡明なお母様と、マリア嬢が『おば様』と呼ぶ、姉妹のような絆で結ばれたご友人の話を。
そのご友人は、後妻として嫁ぎ、男子を儲けた後は、マリア嬢の自宅に、お子様を連れて頻繁に遊びに来ていたそうだ。
「――今思えば、おば様は、婚家が少し窮屈に感じられていたのかもしれません。
お子様のご兄弟はいらっしゃいましたが、年の離れた成人ばかり。まだ幼い男の子ですから、伸び伸びと遊ばせてあげたい。そう思われていたのではないでしょうか。
私には、本当の弟のような可愛くて大切な子でした。
我が家の庭でも農園でも、ずっと笑い声を上げて駆け回っていて、子守役の私は、いつも走って追いかけていました。
隠れるのも上手で。見つけるのに時間がかかると、寂しくなったのか泣きながら抱きついてくるのです。
将来は私と結婚するとか言って、おば様を困らせたこともありました。私にすれば、10歳も年下の幼子の戯言です。
本当に可愛い子でした」
そう言って微笑んだマリア嬢の頬に、涙が伝う。
「その子は、エリアス様の侍従になるために、このモンドシュタイン城に入りました。
やっと、字が書けるようになったような、幼い子です。まだ乳母といて当然の年の子です。
それもあって、おば様は、私が公爵夫人の侍女となるよう、口添えしてくれたのだと思います。
でも、私がモンドシュタイン城に入る前に、その子は実家に帰されました。
口もきけず、歩くこともままならず、ただ寝ているだけの状態で」
なぜ、幼い子が。
そう思ったのは一瞬だけ。
マリア嬢は明言しないが、分かっているのだろう。
エリアス様の侍従になるための子供。それは、ノア坊ちゃまと同じである。
恐らくは、毒見役。
「――3年前になります。私が、侍女として、この城へ来たのは」
マリア嬢の頬を伝った涙が、ハタと床に落ちた。
3年前、マリア嬢は城に入る直前に、おば様の屋敷へ挨拶に伺ったそうだ。
寝台に横たわったまま動かず肌の色すら変わってしまった男の子と、その虚ろな横顔に頬を寄せるおば様。
子どもの小さな体の上を、優しく摩るように置かれたおば様の手を、マリア嬢は強く握りながら、口にしたと言う。
「なぜ彼がこんな目に遭わなければならなかったのか。私が原因を突き止めます」と。
それに対して、おば様は、マリア嬢に顔を向けて静かに言ったそうだ。
「『原因が分かれば、この子は治るのか』と。
その言葉を発したおば様のお顔が、未だに忘れられません。とても虚ろで、それでも瞳だけに光りが灯っているような。
私は、自分の不用意な発言を恥じました」
マリア嬢の声が震えていた。
根拠のない希望を持たせてしまった後悔。
結局、マリア嬢はお母様に、公爵夫人の侍女として、余計なことはしないよう釘を刺されたらしい。
何かあった時、マリア嬢の命も、或いは、それでも賄えないこともあるのだと、諭されたのだと言う。
御継嗣様の侍従として城に入ったものの、寝たきりになって納得のいく説明もないまま帰されたのだ。
そこに陰謀めいた何かがあることは、誰もが薄々感じていたのだろう。
「――なので、実家に帰る勇気がなかったのです。今更、おば様にも、母にも合わせる顔がない、と」
藁に縋る思いで、マリア嬢の連絡を待っているおば様。
解雇という不名誉な事態に不安を募らせる母親。
会えない、会いたくない、そう思ってしまうのは当然である。
そう言葉をかけようとしたが、やめた。
できなかった、と言う方が正しい。
「――――手紙が、来たのです」
マリア嬢の言葉が、まだ続いていたからだ。
その目を伏せて、瞳に湛えていた涙を、ハラハラと零しながら。
「暇を出した、小間使からです。
少し前に届いていたのですが、時間がなくて、開けてもいなくて。
昨夜、時間があったので、読むことができました」
そう言いながら、マリア嬢は、真っ黒な両手で、顔を覆う。
泣いていた。
止めどなく涙を流していた。
「亡くなっていたそうです。
先月に、あの子――エミールが…………。
――――私、ノア様に、エミールを重ねていました。
ノア様を見守り、看病することで、エミールから、逃げていたのです。
でも、私の可愛いエミールは、たった一人しかいないのに。
何で、私、逃げたのだろうって。
あんなに可愛くて、大好きだったのに。何で、ちゃんと、向き合わなかったんだろうって」
マリア嬢が、嗚咽を漏らしている。
「私が、もう少し、上手く立ち回っていれば、あの子は、死なずに済んだのかもしれないと。
もしかしたら、起き上がれるくらいには、回復することも出来たかもしれない、と。
そう思ってしまうのです」
マリア嬢は悪くない。
そんなの罪じゃない。
いくら私がそう思ったところで、そんな言葉は、マリア嬢にはかけられない。
蹲るように震えるマリア嬢を、私はただ、無言で抱きしめた。
同じく、目を赤くして、涙を零すことしか。
私には、それくらいしか、できなかったのだ。




