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尻尾を巻いて逃げる。
恐怖で犬が脚の間に尻尾を丸め込んで逃走する様。
まさにそれである。
屋根裏部屋も含め洗濯場の灯りは既に消されていたようだが、消灯からまだ間もない時刻だったのだろう。
私の声に呼応するように、洗濯場の中から、けたたましい物音が響いた。
上から聞こえるガタンとは、ほぼ同時に複数の窓を開ける音。
恐らくは食堂の奥から聞こえるバタバタバタとは、狭い階段を大勢が駆け下りる足音。
「こらァ! 変態!」
「なに覗いてんのよ!」
そして開いた窓から響く怒声と、投げつけられる屑か何か――ではなく緑色の五月芋。
誰だ。食べ物を投げたやつは。
ドンという地響きと共に扉が外側に開いて、ネッサが飛び出してきた。
「のぞき、だって?」
恐ろしい程静かに言うネッサの手には、洗濯棒。
と言うか。洗濯場の扉は内開きだったはずなのだが。
「看護女中様が服を持ってきてくださって。着替えようとしたら、いたんです。
私が大声あげたら、逃げました」
私はネッサに簡単に説明する。
嘘は言っていない。
洗濯場に徐々にあかりが灯される。
ネッサの後から、わらわらと出てきた洗濯女中たちの手には、一様に洗濯棒が握られている。
「覗き魔め! どこ逃げた!!」
「取っ捕めてやる!」
エプロンやキャップはしていないが、まだ寝支度前だったのか、服を着ている彼女たちは、ガンガンと洗濯棒であたりを叩きながら洗濯場周辺から屋敷林への捜索へと移る。
まるで山狩りだ。
思い知るがいい。
洗濯女中を敵に回すということを。
ちょっと大事になったかも。と思わないでもない。
そう言えば、男に「とっとと失せろ」って言ったな。なんて心の中で冷や汗をかいたが黙っておく。
「で、ミア。ちゃんと金もらったの?」と隣にいた洗濯女中に尋ねられた。
目を瞬かせる私に、周りの洗濯女中たちが口々に言う。
「まさか、タダで逃がしたんじゃないわよね!」
「ちゃんと詫び料取りなさいよ!」
オトシって反社会的勢力じゃないんだから。
だから偏見を持たれるのだ。他の使用人を脅迫してるって。
まあ、偏見ではなく、客観的事実なのだが。
洗濯場の食堂では、ウナ女史が蒼い顔をして、椅子に座っている。
その横には、ライラ。ウナ女史を宥めるように肩に手を置いていた。
「護衛役と見せかけて、痴漢だったなんて。
さぞ恐ろしい思いをされましたね」
斜め横に座ったソフィが、神妙な面持ちで共感を示しながらウナ女史を慰めている。
が、ウナ女史が恐ろしい思いをした――と言うか、現在進行形でしてるのは、決して、衛兵擬きのせいではない。
治外法権と化している洗濯場と洗濯女中にドン引きしているのだ。
よく見れば、ライラの手も、ウナ女史を宥めているわけではない。
ウナ女史を椅子に留め置くために、置かれているのだ。
ウナ女史の向かい側では、エマとサラが、机に両肘を付いて僅かに首を傾げて微笑んでいる。
「態々、ミアのために大切な服をお貸しくださるなんて。看護女中様はなんて心の広い方なんでしょうか。
――――で、私たちには、何をお持ちいただけたのでしょうか」
こら。やめろ。
たかり行為をするんじゃない。
ウナ女史が、ドン引きどころか、完全に口から泡を吹いて失神しそうになっているではないか。
と言うか。失神してしまった方が、ウナ女史にとっては幸せかもしれない。
朝までゆっくりお休みいただけるなら、それに越したことはない。
そんなこんなで、ウナ女史は無事に朝を迎えることができた。
まあ、何をもって無事というかは、定かではないが。
そして、無事でないのが、私である。
物理的に締め上げられている私。
腰回りを細く胸を引き上げるための下着――ステイズである。
ウナ女史が持ってきてくれた服の着付けのためである。
クリーム色のロングスカートに、袖口だけが赤いクリーム色のジャケット。
そう。
エリカ女史の遺品である。
以前着用したことがあるので分かるのだが、こんなにステイズを締め上げなくても、着られることは着られる。
それに、いくら私と言えど、ステイズ自体は、毎日お仕着せの中に着用しているのだ。前開きの自分で紐を通して締めるものであるが。
ただ、それだと、エリカ女史の服と若干合わない。胸はスカスカ、腰回りはパツパツ。
まあ、若干である。
だから、今日もそれで着ようと思っていたのだ。
が、ライラとエマ、そしてウナ女史に猛反対されたのだ。
「ジャケットの前立て隙間から下着が見えるなんて、はしたない」と激怒したのはライラ。
ぶっちゃけ、以前この状態で居館を歩き回った事があるのだが。
「服にあった物を着けないと、姿勢が悪くて疲れるし、何よりシルエットが最悪」と半眼で忠告したエマ。
私の姿勢が悪いのは、元からである。
二人にブチブチと言い返していたら、鶴の一声。
「元の持ち主のように綺麗に着られないなら、貸さない」と。
そして始まったステイズの締め上げである。
今、着けているステイズは、後ろを厳重に紐で締め上げる、必ず誰かの手が必要なもの。
底辺育ちの私がそんなもの持っているはずもなく、ライラのものを借用している。
そう。
ライラのものである。
あの、腰の細い、ライラのものである。
普通に、千切れるんじゃないかと思う。
「ねえ、革紐ない? 麻紐は強度が心許ないんだけど」
「そんな高価なもの持ってるわけない」
「それなら、私の外出靴の紐、貸してあげる」
サラは首を突っ込まなくていい。
また負債が増えるじゃないか。
そして何とか、三人のお眼鏡に適う形になった私。
「服が良いと魔物には見えないのね」
「まあ、ある意味、ツワモノ感がひしひし伝わってくるけど」
「これはこれでステキ」
柄にもなく背筋を伸ばし、顎を引き口角を僅かに上げて微笑んでいる私に、三者三様の感想をくれた。
ちなみに、私が微動だにしないのは、締め付けられていて動けない、というわけではない。
動けるのだが、動いてはいけないからだ。
そう。
容易に動けるのだ。
しかし、少し力を入れるとブチッとはじける。ライラから借りたステイズと、サラから借りた革紐が。
上腕二頭筋の力こぶで、服の袖が千切れるのと同じ原理である。
なので、こうして、力を入れないように息を細く長く吸ったり吐いたりを繰り返している。
もちろん、水の入ったタライを持ち上げたり、リネンを絞ったり、洗濯物を叩き洗いしたりしても、ブチッといくだろう。
結局、今日の服を手に入れたところで、仕事にならないようだった。
だからって。
昨日の今日でふざけるな、と声を大にして言いたい。
呑気に珈琲をすするくらいなら、ライラとサラへの弁償覚悟で洗濯仕事をしたい。
「家庭教師様からです」と、明るい栗色の髪の若い下男が、看護女中部屋に持ってきた封蝋付きの手紙を見た感想である。
「受け取れません」
私の返事に、ポカンとする下男。
「家庭教師様にお伝えいただけますか。
手紙を送るな、と。私、字が読めないんで」




