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「なぜ、そうなる」


 作業台の天板から顔を上げて、殺気のこもった琥珀色の瞳を向けてくる家庭教師。

 奥歯を噛み締めるようなその声は、聖堂という言葉を出したからか、若干の焦りが滲む。

 まあ、単に、みぞおちが痛いだけかもしれないが。


「珈琲と張り手を振る舞っていただき、感謝しております。

 でも、私共には、そういう手段もあるということは、ご理解いただけますか」


 私は、相変わらず汚いお仕着せのまま、優雅に微笑んだ。


「――あの治療院の娘は、ローゼンクヴァルツ側の人間だ。今逃がしたとして、何になる」


 口角を上げて家庭教師が言う。

 澄ました顔をしながら、自分の腹を擦っている。まだみぞおちが痛いらしい。


 何になると言われても。

 とりあえず、家庭教師(あんた)の嫌らしい訊問からは解放したかっただけである。


 正直言えば、あの|サイコパス《ブルネットの髪の看護女中》の影がチラつくので、ウナ女史を一人にしたくはなかったのだが。

 それもあって、ライラと一緒に治外法権(洗濯場)に行って欲しかったのだが。


 チラリと横のライラを見遣る。ライラは、ふんすふんすと鼻息荒く家庭教師を睨みつけていた。


 正直に言おう。

 ウナ女史がどうこうではない。今すぐ着替えが欲しい。

 着替えたい。そして、服を洗いたい。

 珈琲の染みは時間との勝負なのだ。


「君は、知りたくないのか。

 なぜ、ローゼンクヴァルツの治療院の娘が、君に楢の樹皮を処方したのか」


「いや、全く」


 どうでも良い話である。


 ライラが着替えを取りに行かないから、自分で取りに行くしかないのだ。

 とっとと退室してくれ。家庭教師。


「――――君は、こちら側の人間だろう?」


「どちら側とか、ないですから」


 私を巻き込まないでくれ。

 本当に、それに尽きる。


 ピクリと、家庭教師の眉が動いた。

 癪に障ったようだ。


「拮抗作用のある珈琲を飲ませてやったのに、とかお考えでしょうか。

 何なら、もどしますよ。汚物桶、まだそこにありますし」


 私は、部屋の端に置かれたままの、先ほど私が顔を突っ込んでいた悲惨な状態の桶を指して言った。


「以前も言いましたが、私はおたく様を信用していません」


 家庭教師は、上げていた口角を下げ、真一文字に結ぶ。

 表情が落ちると、そこにあるのは虚無である。


 私のことを信用するのは勝手だが、だからといって勝手に手駒にするのも、失望して深淵に引きずり込もうとするのも、やめてほしい。


 そもそも。

 この男、魔術師である。

 まあ、サナトリアも魔術師も、私は未だによく知らないのだが。

 兎に角、関わると碌なことにならないのは、分かる。私のような下々の人間には、聖堂の威光は絶対だし、ライラがダメ認定した男に碌な奴はいない。


 とは言え。

 家庭教師の、エリアス様への忠誠心と、ノア坊ちゃまへの愛情だけは、認めてやる。

 

 かく言う私も、エリアス様の肌着を毎日洗濯していると、ある種の愛着のような感覚を覚えるのも事実だ。

 公爵閣下の御継嗣を、愛着なんて言葉で表現するのはいかがなものかとも思うが、数枚ごとに微妙に大きさの変わる肌着を洗っていると、その成長に目を細めてしまうのだ。

 

 まあ、珈琲1ポット分ならば、借りとするのも、検討の余地はある。

 ライラには、怒鳴られそうだが。


「前にも言いましたが、私は洗濯女中です。洗濯婦長かマダムの指示で動いていますので。そこは、お間違えのないようお願いします。

 その上で、休憩時間の珈琲をご用意いただけるなら、――一服くらいはお付き合いします」


 私の言葉に、横で家庭教師を睨んでいたライラが、勢いよく私を振り返る。


「もちろん、ライラの分も一緒に」


 慌てて付け加えると、ライラの憤怒の形相が、やや穏やかになった。


 家庭教師の琥珀色の瞳は、変わらず暗く冷たい。

 私だって「病もうが死のうが関係ない」女中の一人である。餌代わりに使いたいだけなのは、考えれば分かることだ。


 餌のフリくらいはしてやる。

 だから、珈琲持って駆けつけてこい。



「と、言うことで。

 お召し物、脱いでいただけますか」


「はあ?」とライラと家庭教師が同時に大きな声を上げた。


 何を驚くことがある。

 家庭教師のウエストコートにもトラウザーズにも、溢れた珈琲が付着しているのだ。

 何度も言うが、珈琲の染みは時間との勝負だ。


「優秀な洗濯女中の言うことを聞いてもらわないと、染みが残りますよ――――」


 唐突に、裏庭の扉が開く。


「ミア、また服を汚したんだって?」


「ギリギリ乾いたからいいけど、いい加減気をつけな、よ………」


「看護女中様を顎で使うなんて、ミアも偉くなったわ、ね……」


 ニヤニヤ笑いながら、私の今朝洗って干していた着替えを持って看護女中部屋に登場したマーサとソフィ、そしてエマ。


「――――何してんの?」と三人がこちらを見て、固まったまま言った。


 そう。

 こちら。

 床に尻餅を付く家庭教師と、そのトラウザーズの裾を持ち襲いかからんとする私、そして、そんな私を羽交い締めにするライラ。


「あら。三人で楽しそう――――」


 エマが口元に手を当てて、ふふふと微笑んだ。


 その後の出来事は割愛するが、三者三様ならぬ六者六様、簡単に言うと混沌(カオス)である。




 とりあえず、私は無事、自分の着替えは手に入れた。

 手に入れたのだが、気付いてしまった。


 日が暮れて、調理場の洗い場の煤汚れの中に立って。

 石鹸を自作したところで、鍋や肌の汚れが水で落としやすくなるだけで、服が真っ黒になることは何一つ変わらないことに。

 鍋の煤を落としつつ、お仕着せを汚さないなんて、絶対に無理である。


 つまり、明日着る服がない。


 私は、調理場の熱気に当てられて脂汗をかきながら、同時に冷や汗もかいていた。


 今夜も皿洗い女中たちから、藁束を渡される。

 地獄の夜が、また始まった。


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