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 人はその制服どおりの人間になる。

 そう言ったのは、どこぞの英雄か独裁者か。どちらにしろ、私とは住む世界が違う。


 こちとら、服を選べる立場にない下級女中である。

 洗濯女中たるもの、洗い晒しのお仕着せを着て仕事をするのが矜持である。


 まあ、何が言いたいかというと、腹を括ったということである。


 明日の服のことである。



 こっそりマリア嬢に、替えの服の手持ちを借りられないか尋ねてみたが、返ってきたのは苦虫を噛み潰したような顔だった。


 服は全て手放したらしい。

 しかも、実家から連れてきた小間使いに暇と共に与えたと言うから、さすがである。

 そんなマリア嬢から、洗い替えのお仕着せを奪うわけにはいかない。


 いっそシュミーズ一枚で鍋洗いするかと、本気で考えたが、それもマリア嬢に苦虫を噛み潰したような顔をされた。

 料理番の目があるからやめなさい、と。


 つまり、断腸の思いで、私は今、煤まみれの鍋を抱えている。



 汚れた桶の底に、べっとりと溜まっている液体とも固体ともいえない黄褐色のもの。

 自作の灰石鹸だ。


 大かまどから湯と灰を拝借して灰汁を作り、残飯桶から上澄みのように固まった脂をかき集めて混ぜる。

 そこに、酒精を入れ、柄杓で掻き回す。

 腕橈骨筋(わんとうこつきん)あたりが悲鳴を上げ始めるくらい、掻き回す。


 そうしてできた糊状石鹸。

 細かな肉片だの野菜屑だの、煤も入ってこの色である。

 見た目は、決して石鹸とは思えない醜さである。


 桶の糊状石鹸を、ざりっと擦るように藁束に付着させ、それで真っ黒な鉄鍋を擦る。

 鉄鍋に焼き付けられていた煤汚れが、瞬く間に脆くなって崩れていく。

 石鹸もろとも藁束が真っ黒になった。それでも、洗浄力は落ちていない。真っ黒な泡が、真っ黒な固い塊を、いとも簡単に壊していく。


 水をかけて濯いだ時の爽快感。

 水が真っ黒になって流れていく。

 格別である。


 鉄鍋の色に然程変化はない。

 強いて言うならば、黒が深くなったくらいか。


 脂多め灰汁少なめの油脂過多で作った灰石鹸。ベトベトギトギトの油汚れを落としつつ、鋳鉄鍋に適度な油膜を残している。


 我ながら、良い配分だったとつくづく思う。


 そして、もちろん、私のエプロンもお仕着せもフィシュも。真っ黒である。


 不可能という文字は愚か者の辞書にのみ存在する。

 前出の独裁者の名言である。


 愚か者で結構。

 洗濯すればすぐに落ちるのだから。



 私が、濯ぎ終わった鉄鍋を水切りのために、ふんっと力を入れて持ち上げると、目を丸くしたマリア嬢に横から声をかけられた。


「ミアさん、もう洗い終わったの……?」


 マリア嬢の手元の鍋は、まだ半分も洗い終わっていない。

 その奥からは、皿洗い女中たちが、半信半疑な顔で私を見ている。

「どうせ、料理番に洗い足りないと突き返される」と視線が嗤っていた。


 料理番は、と言うと。


「――――使っていない鍋が混ざっていたのか」


 とか何とか。私が調理場へ運んだ洗い終わった鉄鍋を見て首を傾げつつ、調理女中に私が洗った鍋を片付けるよう指示を出していた。


 勝った。

 糊状石鹸(これ)洗え(いけ)る。

 内心小躍りしつつ、私は満面の笑みで洗い場に戻った。


「マリア嬢も、石鹸を使いますか?」


 私は、次の鍋に取り掛かりつつ、糊状石鹸の入った桶をマリア嬢に傾ける。

 覗き込んだマリア嬢は、途端に苦虫を噛み潰したような顔になった。


「――――私の知っている石鹸とは、だいぶ、その……、違いますね」


 言葉を選びながらマリア嬢が言う。

 そりゃそうだろう。香料付きのオリブ石鹸を使っていた元侍女様である。

 こちらは、石鹸とは名ばかりの、見た目は吐瀉物か汚泥なのだ。


「廃棄物から自作したので見た目はアレですけど、洗浄力については、先ほどお分かりいただけたかと。

 藁束にこれくらいつけて、鍋を擦ってみてください」


 私が藁束に付けて見せてみると、マリア嬢は少しだけホッとした顔をした。

 素手で触らないだけマシだと思ったのか、マリア嬢は軽く頷いて、桶に藁束を突っ込んだ。



 二人で石鹸を使って洗えば、鉄鍋の山はあっという間に低くなった。

 皿洗い女中たちが砂と水で一鍋の汚れを落とし切る頃には、私とマリア嬢で、山の半分程の鍋を洗い終えている。

 皿洗い女中たちが、驚愕の眼差しを向けてきたが、何か言われることはない。

 ひたすらに藁束で真っ黒な泡というか泥を作り鍋を洗う。


 夕食調理後の鍋や使用人が使った食器など、再び洗い物の山が隆起したりしたが、総じて、作業時間は短縮された。

 調理場が火を落とし、掃除を終え、調理女中が一日の仕事を終える頃、洗い場の鍋山は既にない。

 昨日とは大違いである。


 皿洗い女中たちが今洗っている鍋で今日は終了である。

 皿洗い女中たちから鍋を奪って糊状石鹸で洗おうか迷ったが、やめた。いらぬ争いを生みそうな気配がしたのだ。


 皿洗い女中たちが、それぞれ水と砂で鍋を擦っているのを横目に、手持ち無沙汰の私は、手元の流し台の縁を、糊状石鹸をつけた藁束で擦る。

 鍋から物理的に落とされた油が、水で冷えて流し台に付着したその汚れは、私の灰石鹸とどっこいくらいに酷い有様だったが、藁束で擦れば瞬く間に落ちて水と共に流れていく。


 ついでに自分の手も糊状石鹸で洗う。

 油脂過多石鹸なので、さっぱり感は薄めだが、煤汚れは完璧に落ちてくれる。昨日とは雲泥の差である。

 マリア嬢にも勧めたが、笑顔で断られた。



 ついでに足も、ついでのついでにエプロンやフィシュ、お仕着せも洗ってしまおうかと思ったが、マリア嬢に止められた。

 料理番はもう調理場にはいないと訴えてみたが、駄目だった。


 そんなことをしているうちに、皿洗い女中たちも鍋を洗い終え、片付けも終えて、今日の仕事が終わった。




 めちゃくちゃな一日だった。

 と言っても、昼過ぎまでは、看護女中部屋でほぼ突っ伏していただけなのだが。

 それでも色々あったことには変わりはない。


 お前がいつか出会う災いは、お前が疎かにしたある時間の報いだ。


 なんて言葉も浮かんだが、即座に否定させてもらう。

 疎かになんてしてない。

 動く気力がなかっただけだ。


 まあ、何が言いたいかというと、勘弁してほしいということである。


 洗濯場に戻って来て、その扉の近くに人影を見つけてしまったせいである。



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