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「それでは失礼するわ。
――ウナ、また後で」
看護女中二人が部屋を去ったあと、私はすぐさま動いた。
使用していない空の桶を引っ掴んで、部屋の隅に向かう。
私は蹲ると桶に顔を突っ込み、口から喉の奥へ人差し指と中指を押し入れた。
「ミ、ミア――! どうしたの!」
ライラがすぐさま私に駆け寄って、驚愕した声を上げながら私の背中を摩る。
「あんた! アレを分かってて二つ食べたの?! バカなの?」
私とほぼ同時に動き出し、棚に駆け寄ったウナ女史は、泣き叫びながら奥から何かを取り出していた。
今の私に、ライラとウナ女史の言葉に返事をする余裕はない。
込み上げる嘔気と共に、桶に吐き出した胃の内容物。
咀嚼し、飲み込んだ、焼き菓子の残骸。
一度呼吸を整え――と言っても息は荒いままだが――、再度口から喉の奥へ指を入れる。
「ミアに水を飲ませてあげて! 早く!」
ウナ女史がライラに指示を飛ばす。
私は、嘔吐しながら、その声と、慌てて水場へ向かうライラの気配を感じとった。
重たい何かを削るか砕くような音。
ウナ女史が両手で木の乳棒を持ち、金属製の乳鉢でゴリゴリと砕いているもの。
口腔内を通じて鼻に込み上げた胃液の酸っぱい匂いと、阿片の甘ったるい匂い。
それらを、かき分けるように木の香りが鼻孔に入ってくる。
少し息が楽になったところで、ライラが水を持ってきてくれた。行儀が悪いが柄杓に直接口をつけさせてもらう。
大丈夫。後で酒精で消毒する。
柄杓で何杯も、喉を鳴らしながら水を飲む。
気持ち悪くなるほど飲み込んで、そして再び、口から喉の奥へ指を突っ込む。
先ほどよりも水っぽい嫌な音。
できればライラには離れて欲しかった。きっと服が汚れるから。
そんな私の内心を知らないライラは、ひたすら、私の背中を擦ってくれた。
私は、この飲水と強制嘔吐を、何度か繰り返した。
つまりは、胃洗浄である。
水しか吐かなくなった時には、喉に激痛が走り、突っ込んだ指の付け根には赤くくっきりと歯型が残っていた。
へろへろになりながら、桶から顔を上げる。
私は、壁に手を付けながら立ち上がった。
「ミア、どうして――――」
「ライラ…………、知り合いから、お菓子もらっても……、食べちゃ、ダメだよ。
とくに……、芥子の実の詰め物は、拾い食い、ダメ」
私はよろよろと作業台に戻り、三脚椅子に座った。そのまま、天板に額をつけて突っ伏す。
「軽口叩いている場合じゃないでしょう!」
ライラが私の隣で、私の背中を擦りながら、ボロボロと涙を流している。
「起きて! 口を開けて!
これを噛んでて! 楢の樹皮の粉よ」
私はウナ女史に叩き起こされ、強引に口を開けさせられ、木椀からザラザラとした荒い粉末を流し込まれる。
粉に噎せてゲホゲホと咳き込み、思わず口から吐き出す。
「ダメよ! 噛んで! いっぱい噛んで、苦くなった唾と飲み込むの」
ウナ女史に、再び木椀の粉を突っ込まれる。
口の中の水分を奪われ、さらに刃を突き立ててくる凶器のような強烈な苦味。
楢の樹皮。
ウナ女史が、乳鉢で細かくしていたのはこれか。
樹皮に含まれる苦味成分は、植物毒と結合することで、胃が毒を吸収しにくくしてくれる。
そのため、樹皮を煎じたものが、毒消しとしてよく使用される。
「ダメです! 煮出さないと効果がありません!」
「わかってる! 今やってる!
でも呑気に煮てる時間なんてないの! 効かないかもしれないけど、やるだけのことはしないと!」
ライラとウナ女史が、悲鳴のように言い合っている中で、私は再び天板に額をつけて突っ伏した。
それでも、咀嚼は続ける。
全て億劫になり、面倒くさいと放り出したくなり、何にもしなくていいやと楽になろうとする自分を、この口の中の強烈なえぐみが、なんとか現実に引き留めてくれている。
ふわりと浮くような多幸感。阿片の初期症状である。
空腹だったことが悔やまれる。
でも、やるだけのことは、やった。
後は、耐えるだけだ。
「菓子に、何が含まれてたんですか!」
切り裂くような、ライラの声。
「…………ラウダヌムよ」
低く呟くように、ウナ女史が答える。
と言うか。
ラウダヌムって、何だ。
阿片じゃないのか。それに類似する薬物なのだろうか。
「――――え? ラウダヌム?
あの、咳止めのラウダヌムですか?」
答えを聞いたライラの拍子抜けたような声。
だから。
ラウダヌムって、何だ。
ゾワゾワと、背中に小さな虫か何かが動き回るような、不快な感覚に襲われる。
思わず、体を捩ってしまう。
「手巾を濡らして、ミアの首筋を冷やしてあげて!」
ウナ女史の声。そして、声のトーンを変えて絞り出すように続けた。
「ラウダヌムは、一度服用すると服用前には戻れない。死ぬまで服用し続けないと気が狂う。
本当は、安易に手を出してはいけない薬なのよ。
だから――、あのお菓子を食べると、みんなもっと欲しいって、おかしくなるの」
依存性の高い鎮咳薬。
つまり、阿片である。
猛烈な眠気に襲われる。
ライラがウナ女史に鋭い声で何か訴えているが、何と言っているのか、頭が理解してくれない。
口の中の楢も、だんだんと味が薄くなっていく。いや、恐らく味覚が麻痺しつつあるのだろう。
私は、何とか口を動かしながら、その口の中の痺れのようなザラリとした唾を、飲み込んだ。
ダメだ。
もう無理。
睡すぎる。
私は、シルクのような細糸一本で繋がっていた意識を、手放すことにした――――
直後である。
喉に強烈な違和感を覚え、盛大に咳き込む。
そして、平手打ち。片頬のみ、一方通行のビンタである。
誰かが、強制的に且つ暴力的に、私の睡魔をふっ飛ばしてくれた。
「起きろ」
その声の主は、私の前にいた。
作業台に片手を付き、身を乗り出しながら私の顎を掴んでいる人物。
家庭教師である。
喉が痛い。頬が痛い。顔が痛い。鼻孔の奥も痛い。
たらりと鼻から何かが垂れるのが分かった。
「全部飲め」
私の目下、差し出された金属製のコップ。
どす黒い液体が半分ほど入っていた。
鼻が麻痺しているので、中身が何かは分からない。
作業台が一面に焦げ茶色に染まっているのを見るに、私が咳とともに吐き出したのだろう。
私は言われるがまま、そのコップの中身を飲み干した。
液体が、喉を通り胃の中に落ちていくのを、輪郭はぼやけていても、それとなく理解した。
ゲホゲホとまた咽る。
気管に入って反射的に噎せるというより、口に残った強烈な味に噎せ返る。
これは、珈琲だ。
しかも、驚くほど濃い。
「起きたか」
私は、瞬きで返事をした。
あのふわりと心地よかった浮遊感から一転、ズシリと頭の重さが響く。
前後左右、どちらともなく倒れ込みそうになるのを、どうにか怠惰な筋肉が支えてくれている。
いや、実際はライラが横から支えてくれていた。
なぜ家庭教師がいるのか。
なぜ珈琲を飲まされているのか。
そんなことに思考を使う余力は皆無だった。
こういう時、恐らくその人間の本質的な性格が出るのだろう。
私の思考は、作業台に広がる珈琲の染みと、自分の首下のフィシュもお仕着せも、何だったらシュミーズも、ぐっちょりと濡らしている珈琲か嘔吐かわからない、その汚れについてのみ、割かれていた。
「――――げ。ウールに珈琲、落ちねぇな」
独り言である。
たらりと鼻から垂れるそれも、珈琲だった。




