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疲労と眠気と空腹。
私は、その連合艦隊からの一斉射撃を受けている。
看護女中部屋の作業台の天板に片頬を押し付ける形で、完全に突っ伏している私。
撃沈である。
と、くだらないことを考えてしまうほど、疲れ切っている。
朝方のララの悲鳴から始まった洗濯場の騒動は、全くもって酷いものだった。
私がベッドから立ち上がろうものなら「立たないで! 汚れる!」と叫ばれ、座ろうとすると「座らないで! 汚れる!」と叫ばれる。
そして「触らないで!」「歩かないで!」「動かないで!」と続いた。
なら私はどうすればいいのだ、と困り果てた末に、シーツで簀巻きにされ、数人がかりで運ばれたわけである。
もちろん、そのシーツ巻きは、エマに手際よく洗濯紐で縛られた。
緊縛というより、紐で巻かれた燻製肉を想像してしまったのは空腹のせいだろう。
しかも、その後、屋根裏部屋から下りる急な階段から放り投げられ、ネッサに無事受け取ってもらえたものの、そのままネッサに水槽に沈められた。
「あ、これ死ぬやつだ」と、本気で思った。
一回死んだことがあるから分かるのだ。
事件か事故か、何らかの危害を受けて亡くなる場合、ある種の前触れのような感覚がある。
「やってしまった感」あるいは「やられた感」の様なものである。
その前触れの後に、怪我で済むか死亡するかは紙一重、あるいは運だと思う。
ヒヤリハットから重大インシデント、重大事故へと繋がる構造と同じなのだと思う。
知らないうちに死んでいた、というのは、あまりないのではないだろうか。
まあ、私も一度しか死んでいないので分からないが。
と、くだらないことを考えてしまうほど、疲れ切っている。
つまりは、シーツ巻きで濡れ鼠にされたあと、洗濯女中たちによってたかって麻布を擦り付けられて、私は生還した。
鼻孔が天板近くにあるからか、酒精の匂いが鼻につく。
毎日、エリカ女史が遺してくれた酒精で天板を拭いているからだ。
エリカ女史には申し訳ないが、空腹も相まって気持ち悪くなる。これほど拭き掃除を恨めしく思ったことはない。
この耐え難き空腹。
昨日のネッサからもらった林檎以降、何も口にしていないのだ。
朝食が喉を通らなかったわけではない。
一連の煤落としのあと、服を替えて洗濯場の食堂に行ったが、朝食が終わっていたのだ。
もちろん、私の分が残っている――なんてことはなく。洗濯女中たちの胃袋に全て納められていた。
せめて、五月芋の欠片くらい、残してくれてもよくないか。
だから手癖が悪いと言われるんだ。
なんて悪態は心の中だけに留めておいた。
そして、今日も日没後は調理場の洗い場である。
それを知っているのか、こうして私が完全無力化していても、ライラもウナ女史も何も言わない。
また煤だらけで屋根裏部屋に戻ることは絶対に避けなければならない。
さて、どうするか。
外の水場で全身を洗ったとしても、水だけでは煤は落ちない。
ならば洗濯石鹸を拝借するか。
だったら、そもそも鍋洗いに石鹸を使ってしまおうか。早く終わるし、石鹸水内の煤は再付着しにくいし、それが良いかもしれない。
それと、煤洗いの前に、獣脂を肌に塗り込もうか。そうすれば、石鹸ですぐに煤が落ちる。
確か廃棄用の残飯桶に、脂の塊がへばりついていた。あれを使えば――――
ハッと正気に戻った。
私は、思わず、ガバッと飛び起きた。
「え! 何!」
大きく飛び跳ねるくらいビクッとさせながらウナ女史が叫び、謎のポージングをとっている。
ライラは、いつも通り半眼で私を見ていた。
二人に構わず、私は頭の中で材料を揃えた。
残飯桶の脂と、調理場の大かまどから溢れる灰。
そして、さっきからずっと私の胃を掻き乱すこの匂い――酒精。
石鹸が、作れる。
「酒精――。
日没後の調理場に持って行っていいですか。向こうで少し使いたいのですが」
私は、ウナ女史に向き直って、言った。
「どうぞ」
ウナ女史は、あっさり頷いてくれた。
「――あんた、もしかしなくても、今笑ってる?
ちょっと、笑顔が…………」
笑顔が不気味だと言いたいのだろう。
自覚はある。特に、妙に気分が高揚した時は、よく言われる。
「魔物の挿絵、ですよね」
半眼のまま、ライラが言った。
また変なこと思いついた、と思っているのだろう。
それにしたって。
「そう! 聖典画の魔物!
あんたの笑顔、それにそっくりよ」
二人して、余りにもな言い様である。
せめて魔女にしておいて欲しい。
二人に言い返そうと思っていたら、扉が軽く叩かれた。
こちらの返事を待つこともなく、扉が開かれる。
入ってきた二人。
ブルネットの髪の看護女中と、あの無神経な看護女中である。
無神経な看護女中は、不貞腐れたような顔のまま扉の横から離れない。
ウナ女史の表情が硬くなる。
スンと無表情になる私とライラ。
「――えっと、ごめんなさい。
何か、取り込み中だったかしら」
ブルネットの髪の看護女中が、少し気まずそうな顔をして私とライラ、そしてウナ女史を交互に見る。
「あなたたちに、これを渡そうと思って。侍女様から頂いたものよ」
そう微笑み、ブルネットの髪の看護女中は、作業台の私の近くにバスケットを置く。
中から出てきたのは、手の込んだ焼き菓子。食べ応えのありそうな大きさのものが、二つ。
実に、美味しそうである。
私は、お腹がぐずりそうになるのを意地で押さえつけた。
「お辞めになった侍女様に目をかけてもらっていたんですってね。
鍵と一緒に、軽食も用意されてたと伺って……」
ブルネットの髪の看護女中が、少し悲しそうにウナ女史に視線を向ける。
「本当はウナが用意すべきなのよ」と、声にこそ出ていないが、実にそう言いたげな視線である。
サッとウナ女史が俯いた。
恥をかかされた、という表情ではない。
蒼白とも言える顔で、表情が抜け落ちている。
「侍女様から、あなたたちに食べさせて良いと許可をいただきました。
私たちに遠慮なく、お二人でどうぞ」
穏やかに、ブルネットの髪の看護女中が言う。
そして、彼女はウナ女史に向き直った。
「――ねえ、ウナ。
私たち、エリカに助けられたのよ。
だから、あなたも、公爵夫人や侍女様に、ちゃんと向き合いましょう?
でないと、エリカに顔向けできないわ」
ウナ女史は、俯いたままである。
その肩を、ブルネットの髪の看護女中が抱く。
「大丈夫。心配はないわ」
そう優しくウナ女史の背中を摩る。そうして、ふと気付いたように、顔だけ私に向けた。
「あなたたち、昼食は食堂で摂ってないのよね。
もう昼食時間は過ぎているのだし、私たち看護女中に構わず召し上がって」
ブルネットの髪の看護女中が、形の良い唇の端を上げて微笑む。
それは一見して、聖者のようである。
「では、遠慮なく」
私は、目の前の焼き菓子に手を伸ばした。
拳より一回り大きな、高価な牛酪をふんだんに使用したと思われる生地。
私はそれを、瞬時に咀嚼し飲み込んだ。
そして、ライラが手をつけるより前に、もう一つを掴み取った。
「私、昨日の夕方以降、何も食べてないんだよね」
ライラを半眼で睨みつけて言う。
要するに、私に譲れということだ。
ウナ女史が、顔を上げて私を見ていた。驚きと言うよりは、怯えの色である。
「――ごめんなさい。今日は二つしかいただいてないの。
また、いただいたら持って来るわ」
ブルネットの髪の看護女中が、困ったように、そして愉快そうに笑った。
二つ目を口にし咀嚼し飲み込む。
「ちなみに、こちらは、どちらの侍女様からいただいたのでしょうか」
「――――ローテヒューゲル夫人よ」
そう答えるブルネットの髪の看護女中の聖者のような微笑み。
反吐が出る。
ずっと、この人が微笑う度に。私は吐きそうだった。
この二人が部屋に入ったときから鼻につく、そして、口いっぱいに広がる、甘ったるい匂いに。
よくある芥子の実の詰め物に混ぜられた、芥子の匂いである。
私は、瞬き一つせず、ブルネットの髪の看護女中を見つめた。
その、嘘の臭い笑顔を。




