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「は? 水と砂だけ?」


 煤汚れの鍋を黒麦の(わら)束で擦りながら、そう声に出したのは私である。


「藁束があるじゃない」


「麻布なんて、手癖の悪い洗濯女中なんかに渡せないわよ」


 鍋から顔を上げずに、皿洗い女中たちが言う。

 真っ黒な煤汚れに使う道具の話である。


 藁束か麻布かの話ではない。

 洗濯女中の手癖が悪いという評価は全くその通りだと思うし、そこをどうこう言うつもりも全くない。

 苦笑いしているマリア嬢も、藁束を使って擦り洗いしている。

 新入りの私が藁束なのは当然だろう。


 水と砂だけで、この脂まみれの煤を落とせと言うことに愕然としているのだ。


 石鹸などという贅沢は言わない。

 たかが鍋洗いにそんな高価な物を使えないのは理解している。

 だが、しかし。


「――灰汁は? なぜ灰汁を使わないの?」


 脂まみれの煤と言ったら灰汁だろう。灰汁に砂を混ぜての擦り洗い。

 洗濯女中でなくとも、炭焼き小屋で暮らしていた時だってそうしていた。常識のはずだ。


「これだから、洗濯女中は………」


「ガサツで無神経――」


 はああと深い溜息と共に悪態を吐く皿洗い女中たち。

 洗濯女中のガサツで無神経という評価も全くその通りである。


「――灰汁は、使えないのです。今は」


 マリア嬢が消えそうな声で言う。


 今は、とは。どういうことだろうか。

 そう思っていたら、皿洗い女中の一人が解説してくれた。


「洗濯女中は脳筋だから、知らないでしょうけど。灰汁を使うと、鍋が変色するのよ。

 そんな鍋で調理してみなさいよ。もし、また食中毒が出たら、私たち確実にクビよ」


 なるほど。だから「今は」なのか。

 五月芋の不始末による解雇の嵐が吹き荒れた直後である。神経質になるのは理解できる。

 洗濯女中は脳筋という評価も全くその通りだ。


 だが、しかし。

 灰汁で変色した鍋に起因する食中毒は、皆無である。


「――ここにある鍋って、鋳鉄(ちゅうてつ)鍋ですよね。まさか、銅鍋が混ざっているとか……」


 私は小声でマリア嬢に尋ねる。


「ええ、全て鉄製です。銅製はありません」


 マリア嬢も小声で答えた。


 さすが、元雑用もこなせる侍女である。鍋の素材も熟知している。

 そして、マリア嬢も、灰汁使用禁止のこの洗い場の異常さを理解しているようだ。


 銅鍋であれば、洗浄に灰汁は使わない。それこそ変色するからだ。

 特に銅鍋の内側は錫引き(すずメッキ)が施されているので、灰汁で洗うと、この錫が腐食してしまう。そうして銅が剥き出しになった銅鍋で調理すると、料理が劇的に不味くなる。


 そもそも銅鍋は高級品である。あの赤褐色を維持してこそ価値がある。そのため、銅鍋は料理番自らが調理後の手入れを行う。


 まあ、銅鍋の外側が変色したとしても酢で磨けば済む話なのだが。

 そして、水分が付着したまま銅鍋を放置すればすぐに青緑色の錆びが出てくる。これも酢で磨けば済む話なのだが。


 そして、何より厄介なのが、料理番も調理場の女中たちも、この青緑色の錆が猛毒だと信じていることだ。

 青緑色の顔料であれば猛毒が使用されている場合があるが、銅の錆は口にしたところで人体に影響はない。

 とは言え、青緑色は毒という知識が刷り込まれているのだろう。

 決して本人たちには言わないが、調理場の方々というのは、認識を改められない可哀想なオツムの持ち主なのである。


 そして、鉄製鍋。

 灰汁で洗って変色したとして、それは表面の黒い油膜が剥がれただけである。つまり、鉄鍋本来の色なのだ。

 なんだったら、砂でガリガリ削るより、よっぽど鍋にとって優しいのだが。

 まあ、油膜がなければ、焦げ付きの原因になる。それを嫌がる料理番もいるだろう。

 とは言え、油を塗って焼き締めれば済む話なのだが。


 兎にも角にも、調理場の方々というのは、可哀想なオツムの持ち主なのである。

 決して口には出さないが。


「――昨夜は、洗い終わった時に朝鳥の声を聞きました」


 マリア嬢が鍋を藁束で擦りながら言う。その横顔からは、一切の表情が消えていた。

 それは最早、夜ではなく朝ではないか。

 なんて余計なことは言わない。


 確かに、戦力にならないかも、なんて言ってはいられない状況である。


「灰を使いましょう」


 私はマリア嬢に顔を向け、力強く言った。

 それでも、マリア嬢は私に顔を向けず、藁束を掴む手だけを激しく動かしている。


「――実は一昨夜、私も灰を使って洗ったのです。すぐに料理番に看破されました。

 …………次は、許さないそうです」


「…………なるほど」


 既にマリア嬢は、挑んでいたのか。

 そして玉砕した。


 私とマリア嬢の会話を聞いているのかいないのか、奥の皿洗い女中たちは俯いたまま鍋を黙々と擦っている。


 水と砂と藁束。

 ずっと擦っているが、鋳鉄鍋はベッタベタのままである。 

 やってられない。


 私は鍋を擦る手を止め、周囲を見渡した。

 洗い場にかまどはない。でも、すぐ近くに調理場の湯沸かし釜の大かまどがあったはずだ。


 洗い場の隅に並べられていた廃棄予定の調理屑や残飯の入った桶を一つ手に取った。

 最早、汚物と変わらないその中身を、他の桶に移し替える。

 ベチャベチャと汁が跳ねるが気にしない。

 空になった桶は、お世辞にもキレイとは言い難い。さっと水洗いしたいところだが、時間が惜しいのでそのままである。


 空になった桶を持って、大かまどへ向かった。


 大かまどの焚き口から溢れ落ちるほどに、たまった大量の灰。

 私は素手で開口部近くの灰をかき集め、桶に入れていく。

 夕刻の大かまどは、既に火が落とされている。それでも、灰はまだ少し熱を持っていた。


「おい、お前! そこで何をしている! 灰汁は使うなと言ったはずだ!」


 すぐさま料理番の怒声が飛んでくる。

 私は彼に向き直って言った。


「鍋洗いに灰汁は使いません」


 灰汁は、であるが。


「明日の洗濯のためにいただいて行こうと思いまして。

 もちろん、桶はちゃんとお返しします」


 口角を上げて笑ってみせると、それ以上、料理番は何も言わなかった。ただ、歯噛みするような引き攣った顔で凝視された。


 手も服も真っ黒であるし、桶だってドロドロだ。調理場にこれ以上汚れが付いても困るから、早く洗い場に戻れと言いたいのだろう。

 言われなくても、そうする。

 今は時間が惜しいのだ。


 私は洗い場に戻り、桶の灰を片手で一掬い、擦り洗い用の砂桶に入れた。


「――灰を、使うのですか?」


 眉間にシワをよせるマリア嬢。


「はい。ですが、少量を砂に混ぜるだけです。

 直接鍋に振りかけると、どうしても濃度が高くなってしまいますから。

 ――黒皮膜を剥がしきらず、ベトベトの触感だけ落とします。料理番が気付かないギリギリを狙うんです」


 私は、マリア嬢を見て、にやりと笑う。

「少し使いますか?」と桶を向けて尋ねると、マリア嬢は無言で力強く頷いた。

 そして、指先で灰を摘む。


 足元に灰の桶を置き、私は砂桶から砂を摘む。僅かに灰の混ざった砂。

 それを真っ黒な煤汚れになすり付け、藁束で力いっぱい擦る。

 下腕、上腕、肩、及び胸。上半身の筋肉を総動員させれば、瞬く間に黒皮膜が薄くなった。

 やり過ぎたかとも思ったが、まあ許容範囲だろう。


 私は今、汚れの落ちる快感に酔いしれている。もちろん、洗濯物のことなんて考えていない。

 洗濯ならぬ洗浄中毒なのは元より、一端(いっぱし)の拝筋主義者のそれである。


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