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「日没後は、厨房の洗い場へ行きなさい」


 その日、看護女中部屋での仕事を終え、ウナ女史が目を赤くしたまま、エリアス様の肌着の部屋の鍵を持って出た。

 ウナ女史と入れ違うように現れたネッサに呼び出され、私が連れてこられたのは、マダムの部屋である。


 そしてマダムから、この言葉を頂戴した。

 適当な相槌すら打てないほど、唐突な話だった。


 まず、前回この部屋に入った時のような、茶を嗜みながら優雅な所作での(くど)い嫌味はない。

 私はネッサと共に、マダムの執務室の扉の前に立ったままだ。

 マダムは机で何か書きつけながら、書類から顔を上げることも、私とネッサに視線を投げることもなく言った。


「料理番の指示に従いなさい。――以上」


 それからマダムは、一言も発しないまま、ペンを走らせている。


 マダムが私に嫌味を言わないとは珍しい。

 よほど忙しいらしい。


 ネッサと、お辞儀をしてからマダムの執務室を出る。


「――人手が、足りないそうよ」


 ネッサが、扉の前で小声で言った。


「他の女中も呼ばれているんですか?」


 そう問いかけた私に、気まずい顔でネッサが首を振った。


 五月芋の騒動で解雇者が多数出た調理場。人手不足は理解できる。

 理解できるが、私一人で補完できるわけがないだろう。

 嫌味はなくても、嫌がらせはきっちりしてくる。マダムの人柄を再度理解した。


「はい」とネッサから片手に収まる程の林檎を渡される。


「夕食よ」


 私は思わず、目を剥いてネッサを見てしまう。


「もう日没は過ぎたわ。早く行きなさい」


「え。今日から、と言うか、今からですか」


「今からよ。すぐ行ったほうがいいわよ。

 色々と、調理場も殺気立っているから」


「――あの、いつまで……」


「新しい皿洗い女中が来るまでよ」


 それ、マダムの胸先三寸というやつでは。

 なんて思ったが、言わなかった。

 渡された林檎を有難く口に運び、咀嚼し、飲み込んだ。


「――――行ってきます」


 それだけはネッサに告げた。




 調理場の半地下にある洗い場で、私が見たものは、絶望の山であった。

 元の素材が分からないほど真っ黒になった鍋やら釜やらが、ところ狭しと積み上がっている。

 その山の奥では、顔もキャップもフィシュも、もちろんエプロンも手も、真っ黒にしながら洗う皿洗い女中たち。


 明るい洗濯場とは正反対の、煤と灰と脂にまみれた半地下の真っ黒な洗い場。

 初めて立ち入ったこの空間に、私は認識を改めざるを得なかった。

 底辺職場は、こちらだったと。


 私は洗濯場以外の職場を知らなかったので、隔離された洗濯場が最底辺だと思っていたが、そうではなかった。

 洗濯女中のみなが言う「調理場よりはマシ」という発言には、大いに賛同したい。


 洗濯場と厨房の洗い場、それぞれ洗濯女中と皿洗い女中の働く場所であるが、その二つは、モンドシュタイン城の底辺二大巨頭と呼ばれる。

 どちらも、キツい、汚い、危険の3K職場である。

 お互いがお互いを意識し、常に「そっちよりこっちが上」と崇高なる罵り合いをしている。


 現に、私をこの半地下の洗い場に連れてきた料理番は、「なんだよ、洗濯女中かよ。使えないヤツを寄越しやがって」と盛大に悪態を吐いていた。

 使えないかどうかは、働きを見てから判断して欲しいものだ。


 とは言え、あのキャップとエプロンとフィシュの煤汚れをどうやって落とそうか、と考えている自分がいることも事実である。

 皿洗いとしては使えないと言われるのは、確かにその通りかもしれない。



「え――――、ミアさん?」


 煤鍋の山の奥で、誰かが私の名を呼んだ。

 聞いたことのある声である。

 しかし、皿洗い女中に知り合いはいないし、他の女中は呼ばれていないとネッサは言っていた。

 では誰だ。


 私は、こちらを向く真っ黒な顔に目を凝らした。


「――もしかして、マリア……じゃなかったブロムベーレン――――」


 私の言葉は途中で、まるで聖堂の鐘が間近で打ち鳴らされたような轟音にかき消された。

 私の名を呼んだ真っ黒な顔の女中が、慌てて私に駆け寄ろうとして、鍋の山を崩したのだ。


「おい! 来て早々に、何やってやがる!」


 その騒音を聞きつけた先の料理番が、調理場からのぞき込むように顔だけ出して、怒鳴っている。

 奥で作業する皿洗い女中は、料理番の怒鳴り声はおろか地響きのような騒音すら耳に入っていないようで、黙々と鍋洗いに徹している。

 が、そんなことはどうでもいい。


 ゴロンゴロンと私の足元まで転がってきた小鍋を拾いながら、私に辿り着く人物。

 真っ黒な細い指を、真っ黒な顔の前に一本立てて、「シーッ」と言いながら慌てている人物。

 紛うことなき、マリア嬢である。


 マリア嬢は生きている。

 その事実に、私は心の底から安堵した。

 エリカ女史が、あんなことになってしまったのだ。

 マリア嬢の安否が気にならない訳がない。


「――その。今更、実家に戻る勇気がなくて……。

 家政婦長にお願いして、こちらで働かせていただいています。

 私のことは、マリアと、そうお呼びいただけると…………」


 おずおずと言うマリア嬢を、私は思わず両腕を広げてその肩を抱きしめていた。


「ミ、ミアさん?!」


 マリア嬢が素っ頓狂な声を出す。


「――――ごめんなさい。

 本当に、申し訳ありません。全て、私の責任です。私が、あの時、お呼び立てしなければ……。

 お詫びしてもしきれません」


 私は、マリア嬢の肩を抱きながら、項垂れるように頭を下げた。


「貴女の責任ではありませんよ。元から、いつ言い渡されてもおかしくなかったのです。

 あの場から、離れられて…………安堵しているのも事実ですし。


 それに私、今煤汚れで真っ黒なのです。

 そんなに引っ付いていたら、ミアさんのお召し物が汚れてしまいますよ」


 言葉を選び言い淀むマリア嬢。

 最後の付け加えたような言い回しは、暗に私に頭を上げてくれと言いたいのだろう。


「――私もこれから煤まみれになる予定ですから、お気になさらず。

 皿洗いの戦力にはならないかもしれませんが、服の煤汚れなら任せてください。洗濯で落とせます」


 私は、マリア嬢から離れて顔を上げ、袖を捲し上げた。

 私を見て、ふふふっとマリア嬢が笑った。


「相変わらずですね」


 マリア嬢が笑っている。

 それだけで、泣きたくなるくらい嬉しい。既に鼻の奥がむず痒く、事実、私は半べそをかいていた。


「そうは言っても、ミアさん。

 ――――戦力になってもらわないと、困ります」


 スンと真顔に戻ったマリア嬢が言った。


「ここの鍋全て、朝までに洗い終わらなければならないんです」


 マリア嬢のこの顔を、私は知っている。

 かつて家庭教師に、縫い針を突き付けた時の、あの顔だ。


「余計なことは考えないでください。特に、洗濯物の話は禁止です。

 わかりましたね」


 有無を言わせぬ迫力を湛えるマリア嬢。

 確かに、健在である。


 私は「はい」とだけ答えた。


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