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 女の悲鳴がする。

 いや、悲鳴じゃない。怒声だ。

 とにかく酷く取り乱した女が、私を叩いている。

 女の手は、爪が長くその隙間が真っ黒だった。指は驚くほど細く、そして(あお)かった。

 私はただ、ひたすら、その嵐が去るのを待っていた。

 その、甘ったるい匂いの中で。


 私が、ミアとして覚えている最初の記憶である。



「――――ミア! ねえ、ミア! 戻ってきて!」


 肩を掴まれガクガクと揺さぶられ、私はやっとのことで彼女の顔に視点を合わせる。


「…………ライラ」


 私はライラと、塔の中の、隠し扉の裏側にいた。

 リーリエ嬢が去った後、ライラが、フリーズした私を、隠し扉の中に押し込んだらしい。

 それなりの体力を削られたのか、ライラの呼吸が荒い。


「――ミア? 本当にミア? なんか焦点が定まってないけど、大丈夫?」


 焦点が定まっていないのは、おそらくライラが激しく揺さぶったからだ。


「…………大丈夫」


「本当に? 何か変よ。

 肌着の部屋に入れば正気に戻るかしら。――――でも鍵がないわ」


 ブツブツと独り言を零すライラ。

 エリアス様の肌着を、気付け薬代わりに使ってはいけない。


「大丈夫。ホントに」


 私は半眼で、そう答えた。




 テリアク。

 そう呼ばれる薬があることは、前にライラから聞いたことがある。


 あれは、リチネの入手を依頼した時だったと思う。「万能薬がほしい」と言う私に、ライラは「テリアクなら無理」と零していた。


 テリアクとは、高貴な方々しか手に出来ない、あらゆる万病――心の病すら治療する神秘薬だと。

 その時は、魔法遣いが作る貴族のための薬、という認識だったが。


 その薬は、心を治療するのではなく、心を殺す。

 神秘でも魔法でも何でもない。ただのヤクだ。



 怒涛の一日を終え、洗濯場の屋根裏部屋に戻る。

 ベッドに潜り込んで、「はぁー」と息を吐く。疲れたな、と思った次の瞬間、ソフィに叩き起こされた。


「…………ちょっと、何。寝ようとしてんのに」


「朝だよ」


 爆睡だったらしい。

 意識を飛ばすほどに。


 普通、こんな時、悪夢を見たりするだろう。

 過去の辛い記憶を振り返ったり。

 一切なかった。


 丈夫な身体で産んでくれたことは、母には感謝している。

 たとえ、阿片中毒(ジャンキー)だったとしても。


 祖父には、恐らくだが愛されていたと思うし、今は仲間にも恵まれている。

 笑って過ごせる今があることは、感謝しかない。

 だから。

 私は、私の中で、ご機嫌斜めで起き出した正義感を再び寝かし付ける。


 何もしない。

 後悔もしない。

 全ては、なるがままに。


 朝食を前にして、指を組んで祈る。

 天におわす神々に、この祈りが届くかは知らないが、祈らずにはいられなかった。


 願わくば、マリア嬢に、笑って過ごせる未来が来ることを。

 願わくば、あの甘ったるい匂いを纏う人間に、二度と遭遇しないことを。

 あと、リーリエ嬢と家庭教師と、できればノア坊ちゃまにも、もう遭遇したくない。

 それから、エリアス様の肌着を洗濯場で洗えるよう、マダムが考えを改めてくれたら。


「…………ミアのお祈り、長くない?」


「寝てるんじゃないの」


「先食べよ」


 周りで洗濯女中たちが囁いているのは、全部丸聞こえである。

 それでも、指を組む手を解く気にはなれなかった。



 日が中天を過ぎた。

 看護女中部屋で、私は作業台の前の三脚椅子に座り、指を組んでいる。

 まだ祈っている、わけではない。


 待てど暮せど、鍵が来ないのだ。

 マリア嬢は解雇されたのだから来ないのは当然として、誰か――小間使でも誰でもいいから、誰か鍵を持ってくる手筈にはなっていないのだろうか。

 鍵がなければ、仕事にならないのだが。


 看護女中部屋に放置され続けていた肌着たちは、今真っ白になって、裏庭で洗濯紐に吊るされて風に靡いている。


 はっきり言って、暇だ。


 私の向かいで、ライラが無駄に深刻な表情で頬杖をついている。何を考えているのか、その胸中は推し量れない。


 それから、閑古鳥が一頻り鳴いて鳴き疲れて静まり返った頃、看護女中部屋の扉がバンと開いた。


 そんな開け方をするのが誰であるか、想像に難くない。

 振り向けば、案の定、ウナ女史がいた。

 扉から一直線に作業台に向かってくる。


 ウナ女史が、作業台の天板の、私とライラの間にバンと手のひらをついた。

 その手をゆっくり除ける。作業台には、鍵が残った。

 エリアス様の肌着の部屋の、鍵。


「――侍女の皆様方は、この部屋に近寄るのが恐ろしいそうよ! 病気が感染(うつ)るからって!

 何よ、今さら!」


 ウナ女史が、ギャアギャアと喚く。


「感謝しなさいよ。わざわざ私が持ってきてあげたんだから」


 そう言って、ウナ女史は作業台の、私とライラの間――所謂(いわゆる)、お誕生席の三脚椅子に、ドカッと腰を下ろした。

 私とライラは、鍵からお互いの顔、そしてウナ女史へと、同時に視線を移していく。


「――――何よ?」


「……あ、いえ。そこに座るんだな、と思って」


「悪い?」


「悪くは、ないのですが。……あの、他の看護女中様は?」


「…………し、知らないわよ!」


 ライラの問いかけに、ウナ女史は、顔色を悪くして視線を泳がせる。正直なお方だ。


 ウナ女史がエリカ女史と一緒にいないのも珍しいが、他の二人の看護女中は一昨日の談話室以来、姿を見ていない。

 どこにいるのだろうか。

 その思案に入る前に、私はウナ女史に問いかける。


「それと――――手、冷やしますか?」


 ウナ女史は、天板を叩きながら鍵を置いてから、やけにその手を脱力させている。おまけに手のひらは真っ赤だ。

 かなり痛かったのだろう。


「うん」とウナ女史が小さく頷いた。

 正直なお方だ。


 汲みたての水を張った洗面桶を、ウナ女史の前に置く。

 彼女は自分の手をそこに差し入れ、少し顔を弛緩させて息を吐いている。


「――――ちょっと。何見てんのよ」


 私とライラを交互に見ながら、ウナ女史が非難がましく声を上げた。

「いえ。可愛らしいなと思って」なんて心の声は、言わないでおく。


「ねえ、あんたたち。鍵持ってきてあげたんだから、仕事しなさいよ!」


 椅子に座って冷水に手を突っ込んでダラけた顔をしている人に言われたくないのだが。

 とは言え、我々下級女中は、口答えせず仕事をするのみである。


「――――ま、今から始めても、無駄かもしれないけど」


 小さく、そして硬い声でウナ女史が呟く。

 廊下へ出ようとしていた私とライラは、扉の前で、振り返った。


 ウナ女史は、こちらを見ていない。

 嫌味や意地悪を言う顔ではない。どこか悔しそうな、泣き出しそうな、苦しそうな表情で、洗面桶の水面に、視線を落としたままだった。


「――あんたたちも、私も、エリカも、クビになるかもしれない…………」


 震えて、消えそうなほど小さなウナ女史の声が、私の耳には、はっきりと届いた。


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