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 結論。家庭教師には黙っていることにした。

 と言うか、私たちから家庭教師の耳に入れる話ではないという判断だ。


 ノア坊ちゃまに限らず、城内の誰かが食後に体調不良を起こした場合、まず、その料理を作った人間に目が向けられる。

 今回であるなら、調理場。

 当然、マダムが動いているだろう。


 そもそも、洗濯女中の私たちが調理場の内幕にとやかく口を出すことも、おかしな話だ。

 調理場の責任者は料理長であるし、その上司はマダムだ。


 一介の洗濯女中である私たちは、余計なことはしてはいけない。


 ごちゃごちゃと理屈を捏ねて、罪悪感を減らそうと、自分の考えを正当化した。


 責任の分散とか集団浅慮(せんりょ)とか、色々な言葉が頭を(よぎ)る。不祥事体質なんて(そし)られるだろうが、知ったこっちゃない。

 ノア坊ちゃまだって元気になっている。それで良いではないか。


 要するに、何もしないのが一番ということだ。



 所見も述べたし、とっととズラがろう。

 隣で零下の如く冷たい空気を纏っている家庭教師には目もくれず、「では、そういうことなので」とライラと二人、寝椅子から立ち上がる。


「待て」


 コソ泥のように――いやコソ泥もそんな姿勢はしないのだが――前屈みに静々と寝椅子から離れようとしていた私の上半身が、後ろに引っ張られる。

 家庭教師が、私を呼び止めながら、私のお仕着せの背中をガシッと掴んでいた。


「………いかがいたしましたか」


 と私は恐る恐る振り返って家庭教師を見た。


 昨日の談話室での全方向に向けた剥き出しの敵意ではない。一点集中型の、向けられたら視線だけで失神しそうなほどの敵意。

 と言うか最早、殺意。


 ピリピリの違和感くらいで。と思わなくもないが、何も言わない。 


「――――私は何も存じ上げません。

 後は、マダムにお尋ねください」


「まだ何も言っていないだろう」


 話を聞けば(ろく)なことにならない。

 もうこれ以上、何も答えるつもりはない。

 後は、マダムかネッサを通してもらわないと。


「調理場の上級下級問わず使用人の数と名前と出身地が聞きたい。年齢と担当業務も」


 私が知る訳ないだろうが。


「マダムにお尋ねください」


 組織論でも責任論でも、もちろん、意地悪でも嫌がらせでも何でもなく、心の底からの純粋な本音である。




「――――失礼いたしました」


 豪華な廊下に出て、軽く頭を下げながら扉を閉める。


 その扉の向こうで、寝椅子に座っている家庭教師が、片腕を押さえて痛みに震えていたようだが、よく見えなかった。

 あまりにも扉が滑らかにスウッと音もなく閉まったので、それに感動してしまった。


 戻ろう、看護女中部屋に。

 そして、エリアス様の肌着の洗濯に。

 そう気持ちを切り替えて廊下を歩き出した。


 塔の螺旋階段に繋がる隠し扉の前。

 もう二度とこの廊下を歩くことはないだろうと少し安堵していた時である。


 ローブを着た侍女の姿があった。


 私とライラは(おもむ)ろに立ち止まり、お辞儀の姿勢を取って、彼女が通り過ぎるのを待った。

 ところが侍女は、私のすぐ前で立ち止まる。私に用があると言わんばかりの行動である。

 ローブの色からしてマリア嬢ではない。


「顔を上げなさい」


 鼻にかかった不機嫌そうな侍女の声。聞き慣れない声だ。

 ゆっくり顔を上げ、侍女を見た。

 思いのほか、近くに彼女の顔があった。


 見覚えは、ある。誰だっけな。


 侍女と目が合い、そう頭を働かせたその瞬間、バシッと顔半分に衝撃を受けた。

 頬に、平手打ちを食らったのだ。


 そうだ。スカーフをやらかした、リーリエと呼ばれていた侍女だ。

 と、その衝撃で思い出した。


 痛いか痛くないかの二択から選べば、痛い。

 だが、暴力沙汰に慣れている洗濯女中(わたし)にしてみれば、大した痛みではない。

 音だって、平手打ちと呼ぶには余りにも残念な音だった。


 きっと叩いた本人も痛かろうと思ってリーリエ嬢を見れば、やはり、叩いた手を庇うように反対の手で覆っていた。

 人を叩き慣れていないのだろう。


 なんて明後日なことを考えているのは、それなりに衝撃を受けたからだ。

 頬ではなく、心に。


 そもそも、エリアス様の居室がある階で、平手打ちをかますとは、侍女としての行儀は如何なものなのだろうか。

 やるなら使用人階で思う存分折檻すればいいのに。


 とか何とか、正常性バイアスとも呼べなくもない思考を展開させていた時である。


「……あんたのせいで、マリアが辞めさせられたのよ」


 私は、顔を上げてリーリエ嬢を見た。「へ?」と間抜けな声が出た。


 リーリエ嬢は、その眼に涙を湛えて、私を睨みつけていた。

 その涙の理由は、叩いた手が痛いせいではないだろう。


 心臓が、握り潰されたかと思った。


 鼓膜に鼓動が蔓延っているので心臓が潰れていないことは確かなのだが、心房か心室かその両方か、あるいは食道か胃か。

 とにかく、胸がグリグリと痛い。


「…………いつ、いえ。マリア嬢は、どちらに――――」


 本来、女中である私が、マリア嬢を呼ぶ際は、ブロムベーレン嬢と呼ばなければならない。しかし、そこにすら、頭が回らなかった。


「昨夜のうちに、実家に追い返されたわ……! あんたのせいよ。

 あんたが、マリアに、あんな子供の看病なんてさせるから!」


 呼び方に気が回らないのは、リーリエ嬢も同じのようで、ノア坊ちゃまを「あんな子供」呼ばわりする。


 そんなことより。

 マリア嬢が、解雇された。

 私のせいで。

 私が、マリア嬢を談話室に呼んだから。


 色彩豊かな廊下が、色褪せて見える。

 それくらい、衝撃が大きかった。


 隣にいるはずのライラの表情も姿も、ライラの存在自体、私の意識から消えてしまうほど、私は呵責の念に苛まれていた。


「全部、あんたのせいよ!」


 リーリエ嬢が、腕を振り上げる。

 今度は手を握っている。平手打ちで手のひらが痛くなったからだろう。

 ぼんやりした意識の中で、私はそれを認識した。

 ただ、その緩い拳が、振り下ろされることはなかった。


 リーリエ嬢の怒声が響いたせいか、廊下の先から衣擦れの物音がした。

 僅かに鼻につく甘ったるい匂い。

 その気配を感じ取ったのか、ハッとした顔で、その匂いのする方へリーリエ嬢が振り返る。


 振り上げた腕もそのままに、彼女の怒気で紅潮した頬が、またたく間に白くなる。

 まるで恐怖で血の気が引いたような、そんな(かお)である。


「あんたのせいで……。マリアがいないから。

 私に回ってきたじゃない――――!」


 喉の奥で小声で唸るように、まるで嗚咽のように、リーリエ嬢が言う。

 今にも泣き出しそうなリーリエ嬢。振り上げた腕を下ろさないまま、踵を返し廊下の先へ駆けて行った。



 絶望は絶望を呼び寄せる。

 負の感情は、思い出したくなかった記憶の蓋を開けてしまう。



 私は、この匂いを知っている。

 ――――テリアク(阿片)の匂いだ。


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