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朝食は扁豆のスープだった。
昨日の夕食の残りであろう、煮崩れた五月芋とトロトロになった黒麦、そしてたっぷりの扁豆。
ホカホカと程よい湯気を昇らせて、優しく身体を目覚めさせてくれる。
そんな滋味あふれる朝食。
洗濯場の食堂で、配膳の終わった朝食を前に、一同静かに指を組む。
この糧に感謝し、良き一日になるよう祈るのだ。
そして私は、組んだ指に、重い頭を乗せて項垂れている。
今の気分は、最悪の一言に尽きる。
肉体的な疲労もあるが、精神的な疲労の方が大きい。
知りたくなかった公爵夫人の闇と、マリア嬢への呵責の念。気分は落ち込んだままである。
そして、何より、睡眠不足。
寝静まった真っ暗な洗濯場の屋根裏部屋に戻って、肉体的疲れから倒れ込むようにベッドに潜ったものの、色々考えてしまったのだ。
全く眠れなかった訳ではないが、朝鳥の声が響き始める頃にうつらうつらしたのも束の間、ソフィに叩き起こされた。
こんな状態では、朝食なんて摂れない。
その時間、寝ていたい。
なんて思いながらも、匙を手に取った。
結果、完食である。
洗濯女中の誰よりも早く。
いや、ライラの方が早かったかもしれない。
まあ、とにかく、他の洗濯女中たちが3口目を口に運ぶ頃には、私とライラの皿から、朝食は消えていた。
とりあえず、消化器官は元気らしい。
「え。もう食べ終わってる」
サラが、若干引いたような、笑っているような、含みのある声と視線を向けてくる。
「昨日、遅かったものね」
と呑気な声はマーサだ。
そう。昨晩は夕食も夜食もなく、何なら昨日の昼から何も口にしていない。
自覚症状はなかったが、相当な空腹だったらしい。
「何かあったの?」
少し口を窄めるような、小声という程でもないが、声を潜めるようにサラが尋ねる。
私は、無言でサラを見つめた。
私の隣で、ライラも同じ行動を取っていたらしい。
「聞くの駄目だった? 二人とも様子が変よ」
サラが一瞬たじろいだ。
まだ洗濯場には知らされていないのだろう。
昨日の、ノア坊ちゃまの嘔吐を。
「まだ」というか、今後も洗濯場には知らされないままなのかも知れない。
私とライラが、この食堂に現れて、誰も何も気にしていないことから、なんとなく察してはいたが。
そして、昨日居館にいたであろう、マーサとエマとソフィ。
彼女たちも何も知らないようだ。
質問を投げかけたサラを、三人でニヤニヤと笑いながら見ている。
「またアレのせいでしょ」
「例の人たちからの嫌がらせ」
「えー。サラ、知らないの?」
口々に言う三人に、サラはスンと取り澄ました顔をした。
「…………知ってるわよ」
絶対、知らない。
と言うか、その間はなんだ。
その場にいるほぼ全員がそう思ったことだろう。
「本当に知ってるってば」
サラが言葉を重ねる。やけに食い下がってくる。
「そうなの? いいの? 私、話せるよ?」
挑発するのはソフィだ。
「いい。私だって、情報のツテくらい持ってるし」
あ。サラのへそが曲がってしまった。
とりあえず、洗濯場は変わらないようだ。
まだ何か食べたいという空腹感と、頬杖を突いていても首が落ちるほどの圧倒的な眠気に襲われながら、洗濯女中たちのやり取りを見ていた。
「――――あんたたち! いつまで食べてるの! 仕事しなさい!」
ネッサの声で、船を漕ぎつつあった私の頭が覚醒する。
そして、他の洗濯女中と共に蜘蛛の子を散らすように食堂を後にした。
食堂を追い出されて、私とライラはトボトボと重い足取りで看護女中部屋へ向かった。
気が重い。
マリア嬢のこともそうだし、華やかな居館に巣食うものを、まざまざと見せつけられて、そこへ勢い勇んで立ち向かおうなんて、微塵も思わない。
しかも、今日は、寝椅子を元に戻しに、エリアス様の居室がある階に行かねばならない。
自分が始めたことであるし、解体して洗う以外の方法はなかったと、今も思っている。仕方ないのは分かっているが、あの談話室に行くのは気が引ける。
色々とハイな状態になっていた昨夜のうちに、組み立てまで済ませておけばよかった。
そこは後悔している。
可能であれば、マリア嬢に談話室へ同行してもらいたい。
彼女が一緒であれば、少しは気が楽になる。
いや、駄目だ。
また迷惑をかけてしまうかも知れない。
マリア嬢にはマリア嬢の仕事があるのだ。彼女に甘えてはいけない。
仕事と言えば。
エリアス様の肌着。また存在を忘れていた。
リネンで覆い隠してある状態で、看護女中部屋に一晩放置されていた肌着たち。
本来施錠されて保管されているものが、無施錠の部屋にあるというのは、この上なく、焦燥感を掻き立てられる。
とりあえず。
朝一番でやることは、エリアス様の肌着を塔の部屋に戻すことである。
悶々と考えながら歩く。
考えれば考えるほど、看護女中部屋に向かう足取りは、自然と早くなっていった。
そして、その道中考えていた目論見は、初手から見事に打ち砕かれた。
鍵が――マリア嬢が、来なかったのだ。
「まあ、昨日の今日だし」
「今日は、エリアス様の肌着より、昨日の汚れ物を片付けろってことでしょうね」
と、ライラと顔を見合わせた。
そう二人で納得しつつ、しばらく言葉なく黙り込む。
「…………別に、昼食のことなんか、考えてないわよ」
唐突にライラが言う。
「私だって。別に食欲ないし」
そう言うと同時に、ギュルルと私のお腹が鳴った。
食後の蠕動運動である。決して、空腹な訳ではない。
「本当に。食欲ない」
私は改めて、半眼のライラに告げた。
看護女中たちの姿もない。
彼女たちの場合は、マリア嬢と違って、そのうち誰かしら現れるとは思うのだが。
なので、ひとまず今日は、昨日の汚れ物を洗濯することにした。
石灰を酢で中和した掃除女中のお仕着せ。若干、生地がごわついているが、許容範囲である。服に残っている穀物酢の匂いは、これはアイロンがけで、どうにでもできる。
昨日さっと水で予洗いしたノア坊ちゃまの服。かなり汚れがひどい。
ウエストコートとブリーチズは、ウールなので手がかかるが、シャツは首回りのレースも含め麻糸なので灰汁に浸けておけば良いだろう。
そして、家庭教師の服。水洗いも何もしていない、桶に入ったままの服。
色々と、残念な記憶が思い出される。
桶ごとライラに押し付けようと思ったが、ライラはノア坊ちゃまの服をサッと取って、ニコッと笑うと、急ぎ足で裏庭に行ってしまう。
と言うことで、私は、こいつを洗うことから始める。
ふと、気になって、桶に顔を近づける。
臭いが、しない。
私の鼻が駄目になったのかと思った。
掃除女中のお仕着せからは穀物酢の匂いがするし、隣の桶にある昨日脱いで水に晒している私のお仕着せに鼻を近づければ、嘔吐物と排泄物の臭いが、確かにする。
しかし、この服からは、微かな香水の匂いしかしない。
香水で紛らわしたのかとも思った。
しかし違った。紛らわしたのではない。
ウエストコートとシャツを広げて確認してみたが、汚れ自体がないのである。
正確には、嘔吐物と排泄物の汚れだけが、ない。
埃は付いているし、袖口にはインクの跡のような汚れがある。
洗濯染みもないので、汚れた場所だけ急いで自分で洗ったわけでもなさそうだ。
何だこの服。
もしかして、別の服を渡されたのか。
腹の底がザワザワする。
判断力が低下しているのだ。「なぜ」なんて考えてはいけないのに。
あの家庭教師の野郎、パチモン掴ませやがって。
加えて、怒りの沸点も低下している。
睡眠不足のせいである。




