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 しわを伸ばす目的ではないので、決して押し付けてはいけない。アイロンのコテを濡れた麻布に接触させるだけ。

 ジュウと音を立てて湯気が上がった。


「いち、に、さん」


 そして、アイロンを持ち上げる。

 微かに漂う気化した穀物酢の匂い。

 麻布からホカホカと上がっていた湯気は、いつの間にか立ち消えた。


 一度、麻布を剥がして、下のベルベット布の状態を確認する。

 微かな湯気を纏う、暖かく湿ったベルベット布。無事なようだ。


「こんな感じで、次はこの隣、またその隣って、アイロンを当ててく。

 それを、3回」


 私の横で固唾を呑んで見ていたライラに顔を向けた。

 「3回……」とライラが繰り返す。


 ライラの表情筋が固まっているように見えるのは、気のせいだと思う。

 ライラには、同じ手順となる毛布の蒸気消毒をお願いした。

 毛布に向かうライラの背中が、ぎこちなく見えた。



 再び濡れた麻布を敷き直し、次の場所にアイロンのコテを当てる。


 1度目が終わる頃には、額に大粒の汗が浮かんでいた。


 部屋には、熱気と湿気と穀物酢の匂いが充満している。

 エリカ女史が窓を開け放ち、空気を入れ替える。

 夜の風が首筋をかすめた。その清涼感に汗が引く。私は、視線をベルベット布に落としたまま、作業を続けた。



 3回目が終わった時には、夜は深くなっていた。

 既に毛布の3回の蒸気消毒を終えていたライラとともに、ベルベット布をひっくり返す。

 起毛の表地。その光沢と肌触りは、洗う前と遜色はない。


「だっはー!」


 変な声が出た。

 安堵感の大波に飲み込まれた気分だった。


 向かい側では、ライラも弛緩しきった顔で天井を見つめている。

 私の視線に気づいたのか、スンと取り澄ました顔に戻って、「まだ組み立てが残ってるわ。気を抜くのは早いのよ」と真面目くさった声を上げる。


 「そうだね」


 とだけ、私は返した。

 ライラの、だらけた顔にお目にかかれるとは。僥倖である。



 寝椅子の組み立てを、これから行うか、明日にするか、エリカ女史の顔色を窺いながら、ライラと相談していた。

 その時。

 扉が叩かれ、そして開かれた。


 廊下に人通りはなく、既に灯りは落とされている。

 とは言え、居館全体が寝静まったわけではなく、遠くでさざめきのような喧騒に似た生活音が漏れ聞こえる。


 廊下にいたのは、マリア嬢だった。


「お忙しいことは承知しているのですが、エリアス様の肌着のお部屋の、鍵をお返しいただけますか」


 マリア嬢は、暗い廊下から部屋に入ろうとせず、その場に礼儀正しく立ったまま、穏やかな顔でそう言った。


 エリアス様の肌着。

 存在を忘れていたかと言えば、そうではないのだが。

 とりあえず、看護女中部屋での洗濯については、ノア坊ちゃまの嘔吐物や排泄物汚れを優先させてもらったので、肌着のタライは、部屋の隅っこにリネンを被せて保管させてもらった。


 いや、ここは正直に言おう。

 今の今まで、その存在を忘れていた。


 廊下から伝わる、張り詰めたようなヒリヒリする空気。

 マリア嬢がお怒りモードなのかとも思った。

 今日はあれだけ無茶苦茶なお願いばかりしてきたのだ。私に怒りをぶつけるのは当然だろう。


 でも、そうではなかった。


 圧倒的な違和感の正体。

 それは、真っ暗な中、一人突っ立っているマリア嬢の姿。小間使いもいなければ、燭台すら持っていない。


 私は、誰にも知られないよう息を呑んだ。


 疫病患者の看病をした侍女が、公爵夫人からどう扱われるか。

 少し考えれば分かるではないか。


 喉から下、胸、鳩尾、そして丹田。すり潰されるような激痛が、ゆっくり体の中に落ちていく。

 彼女のこの処遇には、私にも責任の一端がある。


「鍵をお渡しいたします。よろしければ、どうぞ、明るい場所へ」


「いえ、この場で結構です」


 私が入室を促しても、マリア嬢は動かない。

 今更、疫病が云々ということもない。なぜなら、マリア嬢は談話室でノア坊ちゃまと接触しているのだから。


 マリア嬢の穏やかな視線が、二人の看護女中を捉えて曇る。その瞳には暗がりばかりが広がっていた。


「とにかく、中へ入ってください!」


 マリア嬢の姿を明るい場所で確認したくて、私はマリア嬢の手を取った。

 強引なのは認める。


 マリア嬢の眉間にシワが寄る。

 いつものそれとは明らかに違う。


 私の取った手を解こうとするマリア嬢。

 そのローブの付け袖が、赤い。

 これは血の赤だ。

 それも、ごく最近。というより、今まさに付いたばかりの。


 エリカ女史が何かを察知して駆け寄ってきた。遅れてウナ女史も来る。

 看護女中たちを前に固まったマリア嬢を、私は無理やり部屋に引き入れた。


「失礼」


 私が部屋の扉を閉めると、エリカ女史が、一言断ってマリア嬢の袖を捲り上げた。


 手首から肘にかけて、何本も引かれた赤い筋。腕の内側の真っ白なマリア嬢の肌に、残酷なまでに深く刻まれた赤い痕。


 ハッとウナ女史が息を呑み、思わずなのだろうが、口に手を当てている。


 何かが引っかかったのか。

 いや、これは明らかに故意に付いた傷だ。

 等間隔に水平な3本。それが幾重にも交差している。


 人の、爪痕。


「また、あの御方ですか」


 エリカ女史が低く言う。

 その言葉に、マリア嬢は顔色を変えて、エリカ女史から距離を置こうとする。


「消毒くらいはさせてください」


 エリカ女史がマリア嬢の、反対の腕を掴んで、彼女との距離を詰めた。


「――――侍女(わたし)の傷の治療をして、何の意味があるのです。

 貴女は貴女の仕事をして欲しいと、何度も言っているのですが」


 マリア嬢が渋い顔でエリカ女史を睨んだ。

 エリカ女史は、その視線を躱すようにマリア嬢の腕の傷に目を向け、冷たく言った。


「あの御方は、最早私にも、どうしようもできない」


 あの御方――――公爵夫人。

 マリア嬢に、この傷を負わせたのは、公爵夫人の爪。

 そして、看護女中たちの――エリカ女史の職務怠慢。


 腹の中が、どろりと溶ける気がした。


 看護女中たちが、誰の看護のためにいるのか。少なくともエリカ女史は、エリアス様の看護女中ではない。

 看護が必要なのは、公爵夫人である。

 (れっき)とした、心の病なのだ。


 思い浮かんだ推論は、そのまま腹の底に埋めた。


 私が知ってもよい情報ではない。

 洗濯女中として私が任されたのは、エリアス様のお召し物であって、公爵夫人のお召し物ではないのだから。

 公爵夫人に関することは、私の知り得ない情報だ。


 私は息を殺しながら、二人から離れた。

 これ以上、この二人の会話を聞いてはいけない。

 そう判断した。



 振り返ると、部屋の隅にライラがいた。

 いつの間にそこに、と場違いにも突っ込みたくなった。

 完全に存在感を消し、壁と一体化したライラの横に、私も陣取った。


「…………マーサと、ソフィと、エマ。三人は、知ってるわ。

 もちろん、婦長も」


 ライラが、顔も視線も表情も動かさず、小さく呟いた。

 私も、ぼんやりと反対側の壁を見つめて、言葉を返した。


「……ライラは、いつ知ったの?」


「お召し物を洗えって居館に呼び出された日。なんか、普通じゃないって思ったのよ。

 ミア、あんたも薄々気付いていたでしょ。

 あのスカーフが、なぜ汚れたのか」


 出産祝いの、とても大切な品。

 葡萄酒の汚れにしても、大事なスカーフを身につけているのなら、仮に汚したとしても軽微な汚れで済むはずなのに。なぜ、灰で煮込もうと思う程、汚れたのか。


 そこは、敢えて考えなかった。

 考えたって、碌なことにはならないから。


 本当に、碌なことにならない。


 口は災いの元、と坊ちゃまは言った。

 ちょっとした好奇心が悲劇を生むこともある。

 私はただ、安寧を確保したいだけ。

 だから、他人の不幸を見なかったことにする。


 でも。

 私のせいで、仲間が知らなくてもよいことを知り、危うい立場にいるとしたら。

 私のせいで、誰かの立場が危うくなって、関係のない誰かが傷付くとしたら。


 一挙手一投足に、誰かの命がかかっているとしたら。


 私は、どう動いて、どう止まればよいのだろうか。

 息の仕方すら、わからなくなる。



「――――だから、居館は嫌いなんだよ。

 洗濯場に戻りたい」


 私は、盛大なため息とともに、愚痴をこぼした。



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