表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/46

28


「あんた一人で行きなさいよ」


 エリカ女史がうんざりした顔で言う。


「アイロンの支度は私がしておくから」


 ライラがニッコリ笑って言う。


「私は……、ほら! 穴の具合を見に行かなきゃ。ちゃんと砕いた炭を底に敷いてるか確認しないと」


 一番白々しいのは、指示出しから戻ってきたウナ女史だ。

 今戻ってきたばかりで、何を言っているんだか。ちゃんと園丁に指示出してきたのか。

 と言ってやりたいが、言わない。


「――――あの人、めちゃくちゃ面倒臭いし。扱えるの、あんたしかいないのよ」


 3人が口を揃えて言う。


 家庭教師のことである。



 寝椅子関連の洗濯が一段落付いて、私も着替えなければと思っていた時、ふと思い至ったのだ。

 家庭教師の服も、ノア坊ちゃまのゲロと下痢まみれなのではないか、と。


 談話室では片時もノア坊ちゃまから離れようとせず、ずっとそのままだった。

 流石にもう着替えてはいるだろうが、着ていた服が洗濯場に持ち込まれるのは非常に不味い。

 汚れた服を、ここで洗うなり、穴で燃やすなりしないと、我々がやってきたことが水の泡ではないか。


 誰かが取ってこなければ。


 そして、3人の発言である。


 家庭教師の談話室での態度から、看護女中たちが信用されていないのは分かる。

 だからと言って、一人で向かうのは抵抗がある。

 心細いとか淋しいとか、群れて行動したいとか、そういう少女心理は全くないのだが。


 正直に言おう。

 私は、あの家庭教師が、嫌いだ。



 廊下は相変わらず静まり返っている。

 居心地が悪いなんて言葉では足りないほど。その豪華な内装と空気に当てられて、鼻血が出そうな気分だ。


 一刻も早くこの階から去りたい。

 さっさとやるべきことを終わらせることにした。


 意を決して、家庭教師の部屋の扉を叩く。

 中から扉を開けたのは、家庭教師だった。



 さっきの服と一緒じゃないか。こいつ、着替えていないのか。

 私は、家庭教師の頭から足先まで一往復睨め付け、そう判断した。


 そして、私の視線に対抗するかのように、私の頭の上から足のつま先まで、家庭教師が睨み付けてくる。


「――――君、その格好は何だ」


 そして目を細めて尋ねられた。


「着替えました。

 この服は、看護女中様にお借りしたものです」


 その格好は何だと問いたくなるのは分かる。

 洗濯女中が絶対に着ることのない、クリーム色に袖口だけが赤いジャケット、そして同じクリーム色のスカート。

 こんな上等な服を私が持っているわけがない。


 流石に、ゲロとウンコの処理をした服で居館に戻れない。

 洗濯場の屋根裏部屋に着替えを取りに行く口実で、家庭教師の服の回収の役目を免れようとしたが、駄目だった。

 「私の古い服を貸すわよ」とエリカ女史が棚から出してきた服である。


 家庭教師が黙り込む。


「と言うことで、おたく様も着替えてください。汚れたお召し物は私が洗います」


「結構だ。

 服は自分で処理できる。こちらのことは構わないでくれ」


 構うなと言われても。

 私だって、家庭教師なんか構いたくない。

 でも、そう言う訳にはいかないのだ。


 閉められそうになる扉を手で掴み、つま先を捩じ込んだ。


「自分で処理されては困ります」


 口角を上げて言う。


「処理は自己責任だと仰るつもりですか?

 仮に、ノア坊ちゃまが何かの病気だったとして、別の方にも同じ症状が出た場合、非難の矛先は誰に向けられるでしょう。

 おたく様ではありませんよね」


 私も目を細めて家庭教師に尋ねた。


 疫病でも嘔吐病でも、最初の発症者は非難される。

 二人目、三人目と発症者が出た場合、その責任はなぜか一人目に向けられる。


 テメェのせいで、ノア坊ちゃまが要らぬ責を受けるんだよ。


 私は、家庭教師の胸ぐらを掴みたくなる衝動を抑えながら、目で訴えた。


 

「――――ミア?」


 部屋の奥から小さな声がした。

 ノア坊ちゃまだ。


「戻ってきてくれたのか」


 前屈みの姿勢で壁に片手を付け、ゆっくり歩きながら現れるノア坊ちゃま。

 ぱかっと口を開き、笑顔を見せてくれる。

 動くにはまだ辛そうだが、顔色は随分と良い。


「ノア、寝ていなさい」


 その笑顔に、家庭教師がピシャリと言う。

 幼気な子供にその言い方は無いだろう。


「回収し忘れた洗濯物を取りに戻りました。

 坊ちゃま、ご気分はいかがでしょうか。

 随分と顔色が良くなられましたね。何よりです。

 でも坊ちゃま、まだ無理に動いてはいけませんよ。今は横になって、体力をしっかり溜めてください」


 私はさっと中腰になり、ノア坊ちゃまを見上げる格好で口角を上げて言う。


「まだ気持ち悪いが、だいぶ楽になった。

 ミアには、いち早く礼が言いたかったのだ」


 少しショボくれるノア坊ちゃま。

 コロコロ変わる表情は、いつも通りだ。


「御心遣い痛み入ります」


 私が視線を伏せて礼をすると、ノア坊ちゃまは穏やかに笑った。


「対応が早くて、本当に助かった。ミアには感謝しかない。

 ――もちろん先生も。私のことを思って行動してくれて、とても感謝しています」


 ノア坊ちゃまは、その穏やかな笑顔を、家庭教師にも向けた。

 ノア坊ちゃまに礼を言われる私を、嫉妬心丸出しの目で見ていたから。体調不良の生徒に気を遣われるなんて教師失格だと思う。


 と思いながら家庭教師を見上げたら、同じ人物とは思えない穏やかな顔をして、ノア坊ちゃまを見ていた。


 私は、少しだけ、家庭教師を見直した。


 そして、その穏やかな顔の二人に向けて、努めて優しく言った。


「坊ちゃまからも家庭教師様に言ってもらえますか。

 ――――今すぐ服を脱いで私に渡せ、と」




 西の空は赤く、日は梢の隙間から細切れにその姿を覗かせている。


 すったもんだの末、回収した家庭教師の服を持って、看護女中の部屋に戻った。


 私が下げた桶の中身を見て、「おおお!」と3人が感嘆の声を上げながら手を叩く。


「…………て、髪がめちゃくちゃ乱れているけど、どうしたの?」


 ライラが私の顔を見て尋ねた。

 私は無言で片方の口角を上げる。

 まあ、察してくれ。


「やっぱり服装って大事よね!

 あんた、ボッサボサ頭にその制服全然似合っていないけど、それ着ているから、あの人に舐められなかったのよ? ちゃんと覚えておきなさいよ」


 意味のわからないことを言うのはウナ女史だ。

 だったら、エリカ女史から服を借りて、自分が行けば良いのに。

 声に出して言わなかったが、視線が届いたらしい。


「あー、そうだ。消毒液の用意をしなきゃ」


 と白々しく離れていく。



 日没の時刻。


 私は、家庭教師の服の桶を、他の服と同じく部屋の端に放置し、裏庭に出た。


 すっかり冷たくなった空気に身体が引き締まる。


 東の空には、宵闇の青が、こちらに向かってほくそ笑んでいた。

 夕食には、間に合わないな。

 と空を見て思った。

 そして、我に返り、呑気な事を考えている自分を笑った。


 4人がかりで、まだ湿っているベルベット布から、あらかた乾いた馬毛、日に当てて乾いた麻袋まで、すべて手早く取り込んでいく。


 初めこそギャアギャア喚いていたウナ女史だが、エリカ女史の「うるさい」の一言で、静かに手伝い出した。



 あかりの灯った看護女中部屋で、これから消毒作業が始まる。


 先に馬毛の消毒を済ませた。


 蒸気消毒が始まると、部屋の中が高温多湿になるので、馬毛をそのまま放置するわけにはいかないからだ。

 広げた馬毛に、消毒用の酒精を含ませたリネンを押し当てる。

 むせ返るような酒精の匂い。だからと言って、それに怯んではいられない。

 全ての馬毛に酒精を当て終わり、私は深く息を吐いた。

 呼吸を止めていたのは、酒精の匂いのせいばかりではなかったようだ。

 

 その馬毛を乾いた麻袋に戻す。

 麻袋は、灰汁に浸け置いた後に洗濯石鹸で洗っただけであるが、灰汁の作用で消毒は終えているという判断だ。


 寝椅子のクッションが、また元の姿に戻った。



 そして、いよいよ、蒸気消毒である。  


 テーブルの上に、三重にリネンを敷き、その上にベルベット布を裏返して広げる。

 厚手の麻布を汲みたての水に漬け、それから固く絞る。それを、ベルベット布の上に重ねる。


 ベルベット布に裏からアイロンを当てるのだ。

 ライラが用意してくれたアイロンのコテに手のひらを翳し、熱を確認する。


 一歩間違えれば、取り返しのつかないことになるのは分かっている。

 でも大丈夫。できる。


 私は、一人、瞑目して息を吐いた。

 そして、目を開け、濡れた麻布の上に、アイロンのコテをそっと近づけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ