28
「あんた一人で行きなさいよ」
エリカ女史がうんざりした顔で言う。
「アイロンの支度は私がしておくから」
ライラがニッコリ笑って言う。
「私は……、ほら! 穴の具合を見に行かなきゃ。ちゃんと砕いた炭を底に敷いてるか確認しないと」
一番白々しいのは、指示出しから戻ってきたウナ女史だ。
今戻ってきたばかりで、何を言っているんだか。ちゃんと園丁に指示出してきたのか。
と言ってやりたいが、言わない。
「――――あの人、めちゃくちゃ面倒臭いし。扱えるの、あんたしかいないのよ」
3人が口を揃えて言う。
家庭教師のことである。
寝椅子関連の洗濯が一段落付いて、私も着替えなければと思っていた時、ふと思い至ったのだ。
家庭教師の服も、ノア坊ちゃまのゲロと下痢まみれなのではないか、と。
談話室では片時もノア坊ちゃまから離れようとせず、ずっとそのままだった。
流石にもう着替えてはいるだろうが、着ていた服が洗濯場に持ち込まれるのは非常に不味い。
汚れた服を、ここで洗うなり、穴で燃やすなりしないと、我々がやってきたことが水の泡ではないか。
誰かが取ってこなければ。
そして、3人の発言である。
家庭教師の談話室での態度から、看護女中たちが信用されていないのは分かる。
だからと言って、一人で向かうのは抵抗がある。
心細いとか淋しいとか、群れて行動したいとか、そういう少女心理は全くないのだが。
正直に言おう。
私は、あの家庭教師が、嫌いだ。
廊下は相変わらず静まり返っている。
居心地が悪いなんて言葉では足りないほど。その豪華な内装と空気に当てられて、鼻血が出そうな気分だ。
一刻も早くこの階から去りたい。
さっさとやるべきことを終わらせることにした。
意を決して、家庭教師の部屋の扉を叩く。
中から扉を開けたのは、家庭教師だった。
さっきの服と一緒じゃないか。こいつ、着替えていないのか。
私は、家庭教師の頭から足先まで一往復睨め付け、そう判断した。
そして、私の視線に対抗するかのように、私の頭の上から足のつま先まで、家庭教師が睨み付けてくる。
「――――君、その格好は何だ」
そして目を細めて尋ねられた。
「着替えました。
この服は、看護女中様にお借りしたものです」
その格好は何だと問いたくなるのは分かる。
洗濯女中が絶対に着ることのない、クリーム色に袖口だけが赤いジャケット、そして同じクリーム色のスカート。
こんな上等な服を私が持っているわけがない。
流石に、ゲロとウンコの処理をした服で居館に戻れない。
洗濯場の屋根裏部屋に着替えを取りに行く口実で、家庭教師の服の回収の役目を免れようとしたが、駄目だった。
「私の古い服を貸すわよ」とエリカ女史が棚から出してきた服である。
家庭教師が黙り込む。
「と言うことで、おたく様も着替えてください。汚れたお召し物は私が洗います」
「結構だ。
服は自分で処理できる。こちらのことは構わないでくれ」
構うなと言われても。
私だって、家庭教師なんか構いたくない。
でも、そう言う訳にはいかないのだ。
閉められそうになる扉を手で掴み、つま先を捩じ込んだ。
「自分で処理されては困ります」
口角を上げて言う。
「処理は自己責任だと仰るつもりですか?
仮に、ノア坊ちゃまが何かの病気だったとして、別の方にも同じ症状が出た場合、非難の矛先は誰に向けられるでしょう。
おたく様ではありませんよね」
私も目を細めて家庭教師に尋ねた。
疫病でも嘔吐病でも、最初の発症者は非難される。
二人目、三人目と発症者が出た場合、その責任はなぜか一人目に向けられる。
テメェのせいで、ノア坊ちゃまが要らぬ責を受けるんだよ。
私は、家庭教師の胸ぐらを掴みたくなる衝動を抑えながら、目で訴えた。
「――――ミア?」
部屋の奥から小さな声がした。
ノア坊ちゃまだ。
「戻ってきてくれたのか」
前屈みの姿勢で壁に片手を付け、ゆっくり歩きながら現れるノア坊ちゃま。
ぱかっと口を開き、笑顔を見せてくれる。
動くにはまだ辛そうだが、顔色は随分と良い。
「ノア、寝ていなさい」
その笑顔に、家庭教師がピシャリと言う。
幼気な子供にその言い方は無いだろう。
「回収し忘れた洗濯物を取りに戻りました。
坊ちゃま、ご気分はいかがでしょうか。
随分と顔色が良くなられましたね。何よりです。
でも坊ちゃま、まだ無理に動いてはいけませんよ。今は横になって、体力をしっかり溜めてください」
私はさっと中腰になり、ノア坊ちゃまを見上げる格好で口角を上げて言う。
「まだ気持ち悪いが、だいぶ楽になった。
ミアには、いち早く礼が言いたかったのだ」
少しショボくれるノア坊ちゃま。
コロコロ変わる表情は、いつも通りだ。
「御心遣い痛み入ります」
私が視線を伏せて礼をすると、ノア坊ちゃまは穏やかに笑った。
「対応が早くて、本当に助かった。ミアには感謝しかない。
――もちろん先生も。私のことを思って行動してくれて、とても感謝しています」
ノア坊ちゃまは、その穏やかな笑顔を、家庭教師にも向けた。
ノア坊ちゃまに礼を言われる私を、嫉妬心丸出しの目で見ていたから。体調不良の生徒に気を遣われるなんて教師失格だと思う。
と思いながら家庭教師を見上げたら、同じ人物とは思えない穏やかな顔をして、ノア坊ちゃまを見ていた。
私は、少しだけ、家庭教師を見直した。
そして、その穏やかな顔の二人に向けて、努めて優しく言った。
「坊ちゃまからも家庭教師様に言ってもらえますか。
――――今すぐ服を脱いで私に渡せ、と」
西の空は赤く、日は梢の隙間から細切れにその姿を覗かせている。
すったもんだの末、回収した家庭教師の服を持って、看護女中の部屋に戻った。
私が下げた桶の中身を見て、「おおお!」と3人が感嘆の声を上げながら手を叩く。
「…………て、髪がめちゃくちゃ乱れているけど、どうしたの?」
ライラが私の顔を見て尋ねた。
私は無言で片方の口角を上げる。
まあ、察してくれ。
「やっぱり服装って大事よね!
あんた、ボッサボサ頭にその制服全然似合っていないけど、それ着ているから、あの人に舐められなかったのよ? ちゃんと覚えておきなさいよ」
意味のわからないことを言うのはウナ女史だ。
だったら、エリカ女史から服を借りて、自分が行けば良いのに。
声に出して言わなかったが、視線が届いたらしい。
「あー、そうだ。消毒液の用意をしなきゃ」
と白々しく離れていく。
日没の時刻。
私は、家庭教師の服の桶を、他の服と同じく部屋の端に放置し、裏庭に出た。
すっかり冷たくなった空気に身体が引き締まる。
東の空には、宵闇の青が、こちらに向かってほくそ笑んでいた。
夕食には、間に合わないな。
と空を見て思った。
そして、我に返り、呑気な事を考えている自分を笑った。
4人がかりで、まだ湿っているベルベット布から、あらかた乾いた馬毛、日に当てて乾いた麻袋まで、すべて手早く取り込んでいく。
初めこそギャアギャア喚いていたウナ女史だが、エリカ女史の「うるさい」の一言で、静かに手伝い出した。
あかりの灯った看護女中部屋で、これから消毒作業が始まる。
先に馬毛の消毒を済ませた。
蒸気消毒が始まると、部屋の中が高温多湿になるので、馬毛をそのまま放置するわけにはいかないからだ。
広げた馬毛に、消毒用の酒精を含ませたリネンを押し当てる。
むせ返るような酒精の匂い。だからと言って、それに怯んではいられない。
全ての馬毛に酒精を当て終わり、私は深く息を吐いた。
呼吸を止めていたのは、酒精の匂いのせいばかりではなかったようだ。
その馬毛を乾いた麻袋に戻す。
麻袋は、灰汁に浸け置いた後に洗濯石鹸で洗っただけであるが、灰汁の作用で消毒は終えているという判断だ。
寝椅子のクッションが、また元の姿に戻った。
そして、いよいよ、蒸気消毒である。
テーブルの上に、三重にリネンを敷き、その上にベルベット布を裏返して広げる。
厚手の麻布を汲みたての水に漬け、それから固く絞る。それを、ベルベット布の上に重ねる。
ベルベット布に裏からアイロンを当てるのだ。
ライラが用意してくれたアイロンのコテに手のひらを翳し、熱を確認する。
一歩間違えれば、取り返しのつかないことになるのは分かっている。
でも大丈夫。できる。
私は、一人、瞑目して息を吐いた。
そして、目を開け、濡れた麻布の上に、アイロンのコテをそっと近づけた。




