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空は青く、日の位置もまだ十分に高い。
それでも、この西に傾き出した日が暮れるまでに、初期乾燥の工程を終えることを考えると、時間の余裕は全くない。
今日は寝椅子関連の洗濯だけにすることにした。
ノア坊ちゃまの肌着や汚れたお召し物も含め、それらは明日にする。掃除女中たちのお仕着せと同じく、さっと水洗いした後、桶の中で水に晒しておく。
寝椅子の座面の洗濯は、張り地のベルベット布と毛布、麻袋、そして中身の動物の毛とそれぞれ工程が違う。
ライラと手分けして洗う。
ちなみに、動物の毛は、馬の毛らしい。エリカ女史が教えてくれた。
そのエリカ女史には、引き続き水汲みをお願いした。洗いや濯ぎに水が必要であるし、日に当てて常温に近い温度にしたいのだ。
完全なる雑用だが、刺々しい表情を浮かべつつも、文句も言わずやってくれる。
エリカ女史が汲み置いてくれた水に、洗濯石鹸を溶かし、石鹸水を作る。本来、ベルベット布のようなデリケートな素材は石鹸草の煮汁を使うが、今は洗浄力を重視する。
濯ぎの水には穀物酢を混ぜ、石鹸水のダメージを中和しつつ、消臭処理をする予定だ。
毛布も、ベルベット布と同じ工程である。
ベルベット布と毛布はライラにお願いした。
馬毛とどちらを洗濯するか尋ねたら、馬毛は拒否された。かなり悩んでいたが。
麻袋は、エリアス様の肌着の洗濯用に作っていた灰汁を使う。
排泄物汚れなので、本来であれば熱湯消毒をしたいところだが、生地が縮む恐れがある。クッションの中袋であることを考えると、今回はやらない。
その代わり、濃いめの灰汁に浸した。
とりあえず、しばらく放置で良いだろう。
さて馬毛。
ライラに洗濯を拒否された得体の知れない毛。
このゴワゴワ縮れ毛が、馬の毛なのか。
なんて感想はさておき、馬毛の扱いは、正直知らない。
ウール素材と理屈は同じと豪語したが、今更ながら同じ扱いで良いのか判断に迷う。
馬の世話や馬の毛の手入れなど、あらゆる記憶を辿ってみても皆無なのだ。
クッション材なので水洗いだけで良いのではないか。
と考えていたら、無表情のエリカ女史と目が合った。
じっと私を見ている。
「まさかと思うけど、水洗いだけじゃないわよね」
鳩尾に一撃を食らった気分になった。
「…………お知恵を、お貸しいただけると」
「何? あんな啖呵切っておいて。
怖気づいたの?」
意地悪そうにエリカ女史が嘲笑う。
連打からのコンビネーションを食らった。
返す言葉がない。
裏庭に落ちる影が長くなっていく。
時間がない。
考えろ。
私は、焦燥感に駆られながら、記憶の深海に潜る。
馬の毛だというが、これは鬣なのだろうか。
だったら、人の髪で考えたらどうか。
クッション材の命である弾力。それを生み出す毛のうねり。
私の知っている馬の毛は、鬣も尾も直毛だ。こんなに縮れてはいない。縮れ毛の馬の種類がいないとも限らないが、クッション用にわざと縮ませたと考えるのが妥当だろう。
であるなら、カールさせた髪を維持する時の洗髪方法。
カールした髪は、石鹸を用いた洗髪は行ってはいけない。オリブ石鹸などの高級石鹸であっても駄目だ。なぜなら、石鹸の作用でカールがへたるから。
仮に、洗髪後に酢で髪を引き締めたとして、きしみやゴワつきは改善されても、へたったカールは戻らない。
そう考えると、このクッション材の馬の毛に石鹸水を用いるのは、やはり避けなければならない。
そして、蒸気消毒はしてはならない。カールした髪に蒸気を当てると、直毛に戻るのだ。
八方塞がり。
万策尽きたと言わざるを得ない。
「…………石鹸草の煮汁で、2回洗います。
しかし、弾力の維持のため、蒸気消毒はできません。
私の見通しが甘かったことは認めます。
身勝手なお願いではありますが、代替案をお持ちであれば、伺いたいのです」
手洗いが2回なのだ。石鹸草で洗濯水に汚れを移すとして、2回やればある程度は防疫にはなるだろう。
だが、それでは不安が拭えない。
私は正直に白旗を上げた。
「……酒精を使いなさい。
酒精を含ませた布を、馬毛に押し当てて消毒する。
消毒用の酒精は、部屋の棚に入っているわよ」
エリカ女史が険しい顔で言う。
酒精の消毒で、全ての病気が防げるわけではないのは、エリカ女史だって知っているのだろう。
例えば、嘔吐病。あれは酒精では防げない。
それでも、妥協点として酒精の使用なのだ。
ノア坊ちゃまの突然の嘔吐が、それでないことを祈るしかない。
奥歯をグッと噛み締めて、私は「はい」と返事をした。
石鹸草の煮汁は、エリアス様の肌着の洗濯のために用意して、一度も使用していないものを使う。この量の馬毛を2回洗うとしても十分足りるだろう。
洗濯女中にとって非常に貴重な石鹸草の煮汁を、私はタライの水にドボドボと流し込んだ。
馬毛を入れ押し洗いをする。
水がすぐに茶色く濁ったが、これはノア坊ちゃまの汚れではない。もともとの馬毛の汚れだろう。
構わず私はゆっくりと押し洗いを繰り返す。
一旦、馬毛を引き上げ、広げた麻布の上に取り置く。馬毛の下の麻布に黒ずんだ染みが広がった。
タライの水を替える。
もちろん、洗った後の汚水は捨てない。桶に取っておく。
汚れた水の桶がどんどん増え、ずらりと壁際に並んでいた。
再びタライに石鹸草の煮汁を混ぜ、馬毛を戻す。そして押し洗い。
水の色は、やや茶色いが、先ほどよりだいぶマシだ。
「ミア、手伝って」
もう少し馬毛の押し洗いを続けようか考えていたら、ライラに呼ばれた。
ベルベット布の洗濯が終わったようだ。
ウール素材は、水から引き上げた時が一番弱い。ウールの洗濯の中で最も気を使うのは、濯ぎ後の脱水から乾燥に向けた作業である。
ベルベット布は摩擦に弱いので、決して絞ってはいけない。
タライから引き上げたベルベット布を、ボタボタと水が垂れる状態でライラが裏庭に運んでいる。
微かに穀物酢の匂いが残っているが、これは蒸気消毒のときに取れるので問題ない。
そして干し場所。
日の当たる場所に干してはいけない。縮んでしまうから。また、形が歪んでしまうため、洗濯紐に吊るして干してもいけない。
風通しの良い日陰に麻布を敷き、その上に広げるのだ。
エリカ女史も手伝って、3人がかりで、ゆっくりと広げていく。
ベルベット布を広げ終わると、ライラは即座に毛布の洗濯に取り掛かる。
私も、馬毛のタライに戻って、濯ぎに取り掛かった。
濯ぎ終わり、リネンで包んで軽く絞った馬毛を、ウールと同じく日陰に麻布を敷いて広げる。
隣でライラとエリカ女史が、洗い終わった毛布を広げていた。張り地ではないためか、ベルベット布の時よりやや雑な広げ方だった。
洗濯物が広がる日陰が、目に見えて広くなっていく。
強い西日に裏庭が褐色に輝き、通り抜ける風に夕方の匂いが混ざる。
日暮れまで、ほんの少しだけ時間がある。
西の空を眺めて息を吐いた。
気を抜くのがまだ早いことはわかっている。
それでも、ここで深呼吸しなければ、窒息してしまう気がした。
あと、単に気疲れだ。
エリアス様の居室の階の、豪華な廊下に戻ってきたことへの。
いや、それ以上に、これから起こるであろう展開への。
もちろん、ベルベット布の張り地も含め、寝椅子の座面たちは、現在進行形で裏庭に干されている。
私が、一旦ここに戻ってきた理由。
家庭教師の服の回収のためである。




