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灰を手に入れて、何事もなく居館を脱出した。
が、ライラが消えた。
正確に言えば、帰りの通用口で派手な服装の男性使用人に話しかけられて、満更でもない様子のライラが、何とも言えない視線を送ってきたので、先に洗濯場に戻ることにしたのだ。
「その人、使用人だけどいいの?」なんて無粋な事は訊かない。
とは言え、この鍋いっぱいの灰。
なんとか一人で運べる重さではあるが、ずっと抱えていると腕が疲れる。
掃除女中たちが、クスクスと笑いながら、鍋蓋が浮くほど灰を入れてくれたおかげである。
嫌がらせなんじゃないかと思う。
嫌がらせのつもりだろう。
まあ、当分、灰汁作りに困らないから、感謝ではあるのだが。
腕に抱えていた鍋を、通用口の隅に停まっていた馬車の荷台に、一言断って、一時置かせてもらう。
通用口は業者の出入りも多く、ちょっとした広場の様相である。造りの良い馬車も停まっていたり、城の使用人以外の往来も多い。
一息ついてから、頭からキャップを取り、ポケットに仕舞った。頭頂部に近いところで纏めていた髪を解き、低い位置で髪を結い直す。
それから、ポケットから手巾を出して、グルグルと捻じって縄にし、それを輪にして頭に乗せる。
そうして荷台の近くに腰を下ろし、鍋を引き摺りながら、頭の手巾の上に乗せた。
荷台を借りた馬車の馭者が、一部始終を見ていたようで「うまいもんだねぇ」としきりに感心してきた。
頭上運搬である。
コツを掴めば、誰でも楽に重い荷物が運べる。
立ち上がる時、「ヨイショー」と思いの外大きな声が出てしまった。
周りの使用人たちが、ギョッとした顔で見てくる。
その後も、行き交う使用人がチラチラと視線を投げてくる。
頭上運搬自体は珍しいものではないが、洗濯場では誰も頭に乗せていなかった。洗濯女中がやっていないのだから、たぶん城内の誰も頭に乗せて荷物を運んではいないのだろう。
はしたないとか言われるのだろうか。
上級使用人に見つかったら叱られるかもしれない。
まあ、叱られたら止めよう。
「それはなんだ」
外庭を通り抜けようとしたところで、声を掛けられた。
若い男、というか子供の声。反射的に、声の方を向いて膝を折ってお辞儀をする。
そして気付いた。
下手なお辞儀だと鍋が落ちる。
だから誰もやってないのか。
「不作法で申し訳ありません」
早口にそれだけ言って、鍋を降ろそうと、頭上に手を添えて首を傾ける。
「降ろす必要はない。
何を頭に乗せているのか尋ねただけだ」
鍋に手を添えて首を傾げたまま、視線だけで声の主を見遣る。
黒髪の少年だった。
着ている服は、かなり良い生地を使っているし、仕立ても良い。
公爵夫人の小姓か、あるいは御令息の近侍か知らないが、なぜこんな所に一人でいるのだろうか。
なんて疑問が湧き上がったが、それらは頭の片隅に追いやって、私は少年の問いに対する答えを口にした。
「灰です」
「はいだと?」
「はい。居館の暖炉から出た灰を運んでいるところです」
「ああ、その灰か」
「はい」
「なるほど。灰か」
「はい」
「ははっ! はいだな!」
だから灰だと言っている。
随分と楽しそうに少年が笑っている。
他人には分からない笑いのツボに入ってしまうのは、まあ、よくあることだが。
と言うか、この体勢で止めないでほしい。
「お許しいただけるなら、鍋を降ろしてもよろしいでしょうか」
「ああ。構わない。なるほど、その入れ物は鍋だったのだな」
どこからどう見ても鍋だろうが。
ゆっくりと私が鍋を頭上から降ろす一挙手一投足を、少年が黒い瞳を輝かせて見てくる。
「鍋の中を見せてくれ」
「はい」
「ははっ! はいだな!」
大量の灰を見て、少年がまた笑い転げている。
そういう年頃なのだろう。
「随分と量が多いのだな。どれくらいの重さだ?」
「重さは………、坊ちゃまの半分くらいでしょうか」
「坊ちゃま」と呼んだせいか、少年は暫し目を瞬かせた。
「なるほど。半分か……。持ち上げてもよいか?」
「………はい」
私の相槌を聞いて、少年が口を開けて笑顔になる。
「はい」がそんなに面白いのか。
「お辞めになった方が……」とも言おうか迷った。
この華奢な少年が、清掃女中のおかげで一段と重くなった鍋を、一人で持ち上げるなんてことはしないだろうが、バランスを崩してひっくり返すのだけは勘弁してほしい。
灰汁作りはどうとでもなるが、彼の服が灰まみれになったら、私は夜のうちに城を追い出されるか、あるいは、折檻されたボロ人形になっているだろう。
「重い」
得意げに鍋の取っ手に両手をかけた途端、少年は音を上げた。
早すぎないか。力入れてないだろう。
「こんなに重い物を頭の上に乗せて、首の骨は折れないのか?」
「折れません。
コツは要りますが、頭に乗せると力を使わず荷物を運べるんです。
城の中では見かけませんが、下町ではよく子どもや女性が頭に籠を乗せていますよ」
少年の表情が曇った。
喋り過ぎた。余計なことを言ってしまった。
「下町は、見たことが……ない」
ずっと私と合っていた、黒い瞳の視線がずれる。
この城の主ノルデン公爵閣下を含め、この国の貴族は、淡色の髪や瞳が多い。それ故か、濃い色より、淡い色の髪が尊ばれる傾向にある。
加えて、少年のような、黒い髪と黒い瞳は、私にとっては親近感の湧く色合いであるが、地域によっては、不吉と言われることもある。
少年の顔立ちからは分からないが、もしかしたら異国の血が混じっているのかもしれない。
よく見ればかなりの美少年だ。
異国の子供が、物珍しさから貴族に金銭で買われて小姓になる、なんて話はよくあるらしい。
「この髪も瞳も、街では気味が悪いと言われるようだ。だから、城から出たことがないのだ。
城の者も、みな目を見て話してはくれないのだが、そなたは厭わないのだな」
少年が笑う。
灰を見て口を大きく開けた笑みではない。口元を引いたそれは、自嘲だ。
「異国では」
前置きするが、別に少年を勇気づけようと思ったわけではない。
ただ、イラっとしたのだ。
気味が悪いと、彼と目を合わせようとしない連中にも、それを嘲笑う少年にも。
イラっとして、つい言葉が口を出てしまった。
「実在するのか知りませんけど、ある国では、黒い髪と黒い瞳の人ばかりだそうです。むしろ、黒くない人の方が気味悪がられるんです」
私の発言に、少年が目を瞬かせている。
誰も知らない、実在するかどうかも分からない、ここではないどこかの国のこと。
そんなの嘘だと思われてるだろう。下級使用人がいい加減な事を言うなと咎められるかもしれない。
与太話と笑ってくれれば、それでもいい。
「つまり、色なんて関係ないんです。
この国では、高貴な血筋か、神々の寵愛を受けているか、それが全てです。
それ以外は、誰が何と言おうと、ただの人です。
坊ちゃまは、公爵様のお城で、こんなに良い服をお召しになっていらっしゃる。誰だって出来ることではありません。
まあ、ただの僥倖だと言われるかもしれませんが。でも、運だって実力のうちです。
坊ちゃまは、幸運の持ち主ですよ」
何を言っているんだ、私は。
自分の口から言葉を発しておきながら、何の話だか、よくわからなくなってきた。
途中から、何か気の良い事を言わなければと思ったのは認める。どこかにオチを作らなければと焦っていたのも認める。
だから、スンッて顔しないでほしい。
心が痛い。
「そなた、ムキになると話が止まらないのだな」
第一声がそれか。
居た堪れなくて、酸っぱい顔をしてしまう。
「……以後、気を付けます」
「口は災いのもとと言うからな。
ところで、なぜ城の女中は、そなた以外、荷を頭に乗せていないのだ?」
私の渾身の発言は、見事に聞き流された。
その後、少年の質問にいくつか答え、少年は私が「灰」と言う度に大笑いしていた。
そのうち、飽きたのか、唐突に「ではまた」と去っていった。
まあ、少年の「また」はただの社交辞令というか、何の意味も持たない終了の合図のようなものなのだろうが。
洗濯女中が小姓と話す機会なんて、もう二度と来ないと思う。
と言うか。
来て欲しくない。




