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「それで、なぜ私が呼ばれたのでしょうか」
サリサリと小気味の良い音とともに、彼女が尋ねる。
談話室の端。
清潔な肌着に着替えたノア坊ちゃまが白い顔でしゃがみ込んでいる。
肌着の長い裾の中で、室内用便器に腰掛けている。濡れた布を被せた嘔吐用の桶を抱え、彼の背中を擦るのはライラだ。
ノア坊ちゃまは、寝椅子から起き上がることすら辛そうだったが、こちらに移動してもらった。
寝椅子の染みを確認するためである。
「私と看護女中の間を取ると、そうなりまして……」
私は、赤いベルベット布の寝椅子の前に屈みながら、ノア坊ちゃまに向けていた視線を、その声の主に移した。
声の主、ノア坊ちゃまとは反対側の談話室の、開け放たれた窓の横で、調理場から持ち込まれた皮付きの生の林檎を小刀で厚く皮を剥いているのは、マリア嬢である。
彼女の名誉のために言っておくが、厚く皮を剥くのは私が指示したことで、彼女の技量不足のせいではない。
何だったら、慣れた手つきでとても滑らかに皮を剥いている。
そう。
間を取ったのだ。
私でも看護女中でも、何だったら女中でもない人間が、家庭教師の目の前で林檎を煮る。
私、看護女中、家庭教師、三方がそれぞれ折れに折れて、そこに落ち着いた。
そして林檎と共に登場したのが、毎度お馴染みの表情をしたマリア嬢である。
ちなみに、家庭教師は何をしているかと言うと。
ノア坊ちゃまとマリア嬢の間を、直線距離で行ったり来たりと、脇腹に手を当てて、歩みを止めることなく一定の速度を保ってずっと往復している。
真面目すかした顔で、威厳たっぷりに歩いているその様は、喩えるなら、振り子実験の振り子である。
家庭教師を貶めるつもりは全くないが、彼が、格好をつけるために脇腹に手を置いているわけではないことを、声を大にして言いたい。
脇腹に手を当てているのは、つい先ほど、私の踵がそこに食い込んだからである。
マリア嬢の登場と共に、ノア坊ちゃまの水分補給を急ぐよう、薄い金髪の看護女中から指示を受けた。
なので、林檎を煮込むより先に、林檎の果汁を用意することにしたのだ。
マリア嬢には、まず、生の林檎の皮剥きと、おろし金を用いたすりおろしをお願いした。
事態が逼迫していることを察したマリア嬢は、ただ頷いただけで即座に行動に移す。それを家庭教師は、睨みつけるように見張る。
作業は、無駄のない始まりだった。
問題は、すりおろし。
おろし金で林檎をおろすのは、かなりの重労働である。
ここで、作業速度が大幅に低下した。
マリア嬢と言えど、時折、林檎から手を離し手首を振って、手を休ませながらすりおろす。
それに痺れを切らしたのが家庭教師である。
颯爽と袖をまくりあげ、「私が代わろう」と言い出した。
そして、事もあろうことか、マリア嬢の持つ林檎に手を伸ばしたのだ。
バカ野郎。
何のために、態々マリア嬢を呼んで、この部屋でやってもらっていると思っているんだ。
テメェは触っちゃ駄目だろうが。
そして、私の後ろ回し蹴りである。
くの字になった家庭教師が、ガフっと変な声を出していたが、知ったこっちゃない。
とりあえず、すりおろし林檎は守られた。
後ろ回し蹴りで横に倒れ込む家庭教師を、寝椅子から見ていたノア坊ちゃまが、「おお」と一瞬だけ目を輝かせていたことを、家庭教師は知らない。
何はともあれ、無事、汚染を免れた林檎果汁はノア坊ちゃまの口に運ばれた。
「どうして私なのでしょう」
そして、煮汁を作るために、林檎の皮を剥いているマリア嬢である。
今も、もちろん緊迫した空気はあるものの、一刻を争う空気は薄まりつつある。
そのせいか、マリア嬢は多弁だ。
「女中は嫌だと駄々をこねる方がいらっしゃったもので。
御令嬢の侍女様も嫌だそうです」
挙句、家庭教師はマダムを推挙した。
有り得ないだろう。
あの鉄面皮が、どんな皮肉を吐くのか、それはそれで一見の価値はあるが。
「ノア坊ちゃまと面識がある上級使用人で、雑用もこなせて、私のお願いも聞いてくれる方と言うことで……」
出た結論が、マリア嬢である。
「それは、…………私しかいませんね」
思い返してみても、マリア嬢一択である。
どこか疲労感の滲む声で、マリア嬢が言った。
ノア坊ちゃまの粗相の跡は、寝椅子にしっかり残っていた。
座面の張り地は、ウールのベルベット布。染みと言うにはあまりに大きい。
とは言え、背面には汚れがないのは不幸中の幸いと言ったところだろう。
これを洗うにして、どう洗うか。
私は、その座面を上から下から一周回って見ながら唸った。
マリア嬢が持ってきた柄杓のうち、作業に使わないものを借りる。
座面とその下の木枠の間に、柄杓の柄の先端を突っ込む。そこを、ぐりっと、てこの原理で隙間を作る。
あ。いけるかも。
そこから少し離れた箇所でも、座面と木枠の間に柄杓の柄を突っ込んで隙間を作る。
それを何度か繰り返していく。
バコ、と音がして、寝椅子の座面が木枠から外れた。
その座面を持ち上げる。
皮剥きの手を止めて私を凝視するマリア嬢と目が合った。
ふと見回せば、脇腹を押さえながら動きを止めている家庭教師と、白い顔ながら光を灯した目で首を伸ばすノア坊ちゃま、そして半眼のライラが、こちらを見つめている。
「………………壊したの?」
と尋ねたのはライラだ。
「いや。洗濯しようと思って。……ライラ、手伝って」
私は、座面の裏、つまりは木枠の中にあった張り地の縫い目を探しながらライラを呼んだ。
ベルベット布の張り地は、しっかりとした赤い糸で綴じられている。
「ここ。この糸を切って解いたとして、後で復元できると思う?」
「全く同じ糸は用意できないと思うけど。……太めの糸を代用して縫い合わせれば、似たような形に戻ると思う」
そして、ジトっと私をみるライラ。
「それを、私にやれと」
私は、ニコッとライラに笑いかけ、縫い糸を小刀でブツッと切った。
寝椅子の座面を、張り地のベルベット布、中の毛布と、その中の麻袋のクッションに分けていく。ちなみに麻袋の中は、動物の毛のようだ。
張り地はもちろんのこと、中の毛布やクッションの麻袋にまで、染みが広がっている。
これは、解体して正解だ。
ベルベット布と毛布を、汚れを内側にしてくるくると小さく丸める。
それを、適当な桶に突っ込んだ。
麻袋のクッションは、そのまま持っていくしかない。
汚れ物の入った桶をライラに託し、私は巨大なクッションを抱えた。
「ミアさん、貴女…………何者?」
とマリア嬢がポカンとした顔で尋ねる。
「洗濯女中です」
私は、クッションの横から顔を出してマリア嬢に言った。
「これらは看護女中様の部屋で洗濯しますので、私たちは一旦退室します」
「えっ!」と、マリア嬢、家庭教師、ノア坊ちゃま、ついでにライラの声も揃った。
驚くことは何もないだろう。
洗濯物を取りに来たのだ。洗濯物を持って戻るのは当然だ。
「あんた、そのクッション抱えて、あの部屋に戻るの?」
ライラに言われる。
クッションに足が生えているように見えるのは分かっている。
でも、仕方ないだろう。さすがにライラにお願いするのは忍びない。
「ライラ、代わる?」と私が言うと、ライラはニッコリ笑って汚れ物の桶を胸に抱えた。
「――いいえ! そこじゃないでしょう」
ブンブンと顔の前で手を振りながら、マリア嬢が真顔で反応した。
「貴女方が不在の中、私は一人で作業することになります」
不安が色濃く滲むマリア嬢の声。
「はい。ブロムベーレン嬢には、そちらの家庭教師様の監視の下、皮を剥いた林檎を煮ていただきます。その煮汁を、ノア坊ちゃまに飲ませていただきたいです。
それと、家庭教師様が邪魔するようであれば、その小刀をご使用ください」
手短に説明した私と、沈黙するマリア嬢。
暫し、無言で見つめ合う。
雑用もこなせて、私のお願いも聞いてくれる。
マリア嬢の存在意義を、交わる視線だけで再確認する。
「それは…………、私しかいませんね」
真顔のままマリア嬢が言った。
「……行ってしまうのか」
ノア坊ちゃまが、弱々しい声を、懸命に張り上げるように言う。その隣に歩み寄る家庭教師。
「はい。
洗濯が終わりましたら、また戻ります」
私は、努めて優しく言った。
足の生えたクッションが何言っているんだ、と思われただろうが。
「本当に?」
そのノア坊ちゃまの声色には、いつになく甘えが濃い。
「お召し物も寝椅子も、全てキレイにして戻ってきます。
なので、坊ちゃまは、しっかり出して、飲んで、休んでください。それで良くなりますから」
私の言葉に、ノア坊ちゃまは「うん」と頷いた。
まっすぐ私を見る黒い瞳には、強い灯火が滲む。
でもどこか、いや、だからこそ。その瞳の奥に、孤独の色が窺えた。




