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 薄い金髪の看護女中が、叩き、ドアノブを激しく回し、体当たりしても開かない両開き扉。


「あー、はいはい。下がってください」と私は彼女を扉から引き剥がす。


 扉から二歩離れたところで姿勢を横向きにし、扉側の膝を深く曲げて胸に引き寄せる。

 狙うのは、鍵穴ではない。かんぬきを受ける側、つまり受け座の方だ。


「は!」という気合いとともに、踵を打ちつけた。


 こういう時、扉がバーンと勢いよく開くのを想像しがちだが、そうではない。

 衝撃でかんぬきが外れた扉は、キイと間の抜けた音を立てて、ゆっくり開く。


「失礼します! 洗濯物を受け取りに伺いました!」


 私はそれを両手で勢いよく押し開けて、その部屋に突入した。




 嘔吐跡の処理を終えた後に来たのは、廊下の突き当たりに位置する談話室である。


 残渣物の布は丸めておがくずの桶に突っ込み、嘔吐跡にはライラが持ってきた石灰を分厚く撒いた。

 ついでに足で踏んづけて靴裏の消毒もした。


 残渣物の桶は掃除女中たちに、看護女中の部屋に持っていってもらった。

 その際に、服を着替えるように、そして着ていた服は看護女中の部屋で洗うので置いてくるように、更には看護女中の部屋の洗濯石鹸で手を洗って、その排水は桶に残しておくように伝えてある。


 常時、ライラが目と歯を剥いて掃除女中たちを威嚇していたので、実際、どの程度やってくれるか分からないが。

 伝えるだけ伝えたので、後は自分で判断してほしい。

 それ以上は、私には知ったこっちゃない。



 さて、談話室。

 エリアス様の居室からは大分離れた位置にある部屋。


 なぜ、このような強行に至ったかと言えば、家庭教師が立て籠もっているせいである。

 しかも、ノア坊ちゃまと一緒に。


「入室は許可していない。それ以上近付くな!」


 薄灰色の髪を逆立てんばかりに殺気立った家庭教師。

 その背後の寝椅子には、倒れ込むような姿勢で桶に顔を突っ込むノア坊ちゃまがいた。


 殺気立つなんて言葉では言い表せない、剥き出しの防衛本能。

 おのれは手負いの狼か。

 看護女中が入室を躊躇する中、はんっと鼻で笑いながら、私は構わず進んだ。


「出ていけ」と家庭教師に掴みかかられたが、その手を受け流す。

 受け流した勢いを使って、後ろで腕をねじり上げようとしたが、すぐに体を横にされ外された。

 捕縛が目的ではないので、それはそれで構わない。私は、家庭教師が避けたことで開いた隙間から、ノア坊ちゃまの真横に滑り込んだ。


「嘔吐はいつからです?」


 片膝を床につき、目線をノア坊ちゃまに合わせて尋ねる。

 桶の中に向いていた黒い瞳が、ゆっくり震えるように私を見る。


「ひる、の…………うっ――――」


 ノア坊ちゃまが、桶にほとんど水のようなものを吐き出す。

 今彼に喋らせるのは無理があった。

 嘔吐えずきながらも、なんとか私の問いかけに答えようとするノア坊ちゃま。

 私は喋らなくて良い旨を、努めてゆっくり穏やかな声で伝えた。


「――――で?」


 打って変わって鋭く無機質な声を、半眼の睨みと共に家庭教師に突き付けた。


 ノア坊ちゃまが苦しみながらも必死に伝えようとしているのだ。

 テメェの口が代わりに動け、ボケ。


 口に出したつもりはない私の心の声が聞こえたのか知らないが、家庭教師が喉をぐうと鳴らした。


「…………昼過ぎ、昼食の後だ」


 そう答えながら、尚も私とノア坊ちゃまの間に捻り込もうとする家庭教師に呆れつつ、私は少し寝椅子から離れた。

 これ以上、家庭教師を刺激しては、何も聞き出せないと判断したからだ。


 昼食か。

 何を食べたのか尋ねようとして、やめた。

 尋ねたところで、家庭教師は答えないだろう。


 この城の主たちの、晩餐会などのない日常の食事は、一日のうち昼食が最も豪華であることは、私だって知っている。

 最も手の込んだ料理というのは、最も人の手が加えられている料理ということで、つまり。


「…………毒見、ですか」


 家庭教師は頷かない。もちろん、首を横に振ることもない。


 ノア坊ちゃまは、居館でのリチネの携行を許可されている。家庭教師が言っていたではないか。特別だと。

 つまり、そういうことか。


 疫病か、毒か。

 この状況だけでは、私にはどちらとも判断はつかない。


「それで、リチネ、飲ませたんですね」


瀉下薬しゃげやくを服用したから、嘔吐したわけではない」


 低く唸るような家庭教師の声。

 回りくどい言い方はしないでほしいところだが。

 つまり、昼食の毒味、苦しんだ後嘔吐、そして胃洗浄目的でリチネを服用、という順序を踏んだと言いたいのだろう。


「リチネの後、何か飲ませました?」


「水だ」


「……水だけって、ことですね」


 返事がない。つまりは、水だけ飲ませたということ。

 いい加減、言葉足らずな家庭教師が面倒くさくなってくる。


「水だけでなく、何か甘い物も溶かして――――」


 私が、何か適当なものないか部屋を見回そうと腰を浮かせた、その声に被せるように、ノア坊ちゃまが「ううっ」と泣き出した。


 便臭が鼻につく。


 家庭教師は息を呑んで、ノア坊ちゃまを振り返った。


「ご、ごめん、な、さい。ま、間に、合わなくて…………」


 消えそうなノア坊ちゃまの声。

 両手で顔を押さえ、震えながら泣いている。


 私は、夢中でその小さな肩を胸の中に抱いた。


「大丈夫! 大丈夫。全部キレイに洗うから」


 胃に効いたら、次は腸に効くのは当然の摂理である。

 ノア坊ちゃまは何も悪くない。

 強いて言うなら、瀉下薬を服用させておいて、シモの準備をしていない家庭教師が悪い。

 真っ青な顔になっている本人には言わないけれど。


「ノア坊ちゃま。無理に動かず、ここで出るだけ出しちゃいましょう。

 少し楽になってから、着替えましょう。

 気持ち悪いかもしれないですが、そこはご辛抱ください」


 努めて明るく私は言った。

 こくんと、頷く動作で同意してくれたノア坊ちゃまの表情は、未だに絶望に包まれている。

 意図せぬ脱糞なんて、恥ずかしいに決まっている。


「大便を漏らすのって、大人でもありますから」



 私は、ノア坊ちゃまの耳元で、少し声を小さく、それでいて真面目な声色で言う。


「使用人の肌着を洗濯していると、たまにあるんです。自分で処理されたような跡とか、あるいは、ガッツリそのままとか」


 そこまで言うと、ノア坊ちゃまが「そうなの?」と少し明るい目をしてくれた。


「ええ。

 たとえば、そこの澄ました顔の家庭教師の方。この前、あの方の肌着を洗濯したときにですね…………」


 そこまで言うと、家庭教師がギョッとした顔を私に向けた。


「違う! あれは…………!」


「え? あれって、何です?」


 完全なるホラを吹いたつもりだったが、そうでもないらしい。

 墓穴を掘ったことに気付いた家庭教師の顔色が、青から白になり、そして赤くなった。


「――――私も、経験がある」


 光の戻ったノア坊ちゃまの視線も混じり、身動きの取れなくなった家庭教師はとうとう天を仰いでつぶやいた。

 家庭教師が、防衛本能とは全く別物の殺気を向けてくる。私はニヤニヤした笑顔でそれを受け止めてやった。



 ノア坊ちゃまの着替えを用意して欲しくて、私は蹴り開けた扉に向かう。


 扉の前に待機していた看護女中たちが、談話室内からの強烈な臭いに、顔を背け後ずさった。

 ただ、薄い金髪の看護女中だけが、臭いに構わず進み出てくる。


「便失禁ね。色は?」


「下痢と言うか、大便の……ウンコ色です」


 別に笑いを取るつもりで言ったわけではないが、どう喩えたら彼女に伝わるか分からず、くだけた言い回しになってしまう。


「……ロートの線は薄いか。でも時間としては…………」


 後半、彼女は自問自答する様に小さく呟いた。


 腸の炎症により血とただれた腸壁を垂れ流す疫病。

 初期状態として、便が赤くならないこともあるが、ノア坊ちゃまの状況を考えると、その可能性は低い。

 そう判断したのだろう。


「家庭教師様は、ノア坊ちゃまの突然の嘔吐を……食べ物由来と考えられていて、リチネを飲ませたそうです」


「それで便失禁ね……」


 薄い金髪の看護女中は、少し俯き加減に何か考えているようだった。


「水分は摂ってる?」


「はい、水を飲ませたと」


「それだけじゃ足りないわね。林檎の煮汁を用意させるわ」


「それなら、甘橙の果汁が良いのでは? さっぱりしているし、ノア様の好物でしょう? きっと口にするはずよ」


 離れたところにいた看護女中の一人が声を上げた。少しでも進んで口にしてくれるものを与えたいと思うのは当然の考えだ。


 でも、甘橙は駄目だ。


「甘橙の果汁は嘔吐作用があるから、更に脱水症状が深刻になるわ」


 薄い金髪の看護女中が、ピシャリと言った。


「やはり、林檎の煮汁を――」


「駄目だ!!」


 私の背後から、家庭教師の絶叫が聞こえる。


 ノア坊ちゃまに何かあったのかと振り返れば、ノア坊ちゃまの背中を擦りながら、こちらを見て家庭教師が牙を剥いていた。


「そんなものは、ノアの口に入れられない!

 君ら看護女中や、他の女中が用意することは、絶対に許さない。

 林檎の煮汁を用意するなら、その洗濯女中、炭焼きの孫がしてくれ。それならいい――」


 その叫びは最早、悲鳴であり、懇願であり、そして、祈りだった。


 しかし。

 断腸の思いであるが、その依頼は断らせていただく。

 ゲロとウンコにまみれた私が、食べ物なんて触れる訳ないだろうが。



 私は、喚く家庭教師に微笑みを纏って歩み寄り、その頭頂部に手刀を振り下ろした。



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