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 ――エリアス様の御学友が、体調を崩されたそうよ。

 ブルネットの看護女中の落ち着いた声が脳裏にこびりついて離れない。

 エリアス様の御学友と聞いて、思い当たるのはノア坊ちゃまだ。

 

 両手に灰を山積みにした桶を提げ、螺旋階段をハッハッと息を吐きながら上がる。

 灰のせいで歩みが遅い。自分の動きの鈍さに、焦りだけが募る。

 苦しいのは、灰の桶のせいでも、階段のせいでもない。まだ見えない階段のその先に視線を飛ばそうと、心ばかり先行してしまう。


 向かうは、エリアス様の居室の階。



「灰!」「至急!」と檄が飛んできたので、急いで灰を集めて戻ったが、看護女中部屋に看護女中たちはいなかった。

 めちゃくちゃ急いだのに。置いていかれた。

 どこに向かうか、指示されていないのだが。


 とりあえずエリアス様の居室の階に向かえば、何らかの情報は拾えるだろうと見込んでこの塔を登った。


 いつも使う螺旋階段の先の、見上げるだけだった上階の扉を押し開ける。


 そこは、まさに城の廊下だった。



 縁取りに細かな彫刻の施されたアーチ状の柱。高い天井から吊り下げられた豪奢な照明。窓には色ガラスが嵌められていて、床はタイル張りで鏡のよう。

 こんな場所は、一生お目にかかれないと思っていた。


 そんなところに、灰の桶を提げ、汗だくになって肩で息をしている私。

 出てきた扉を振り返って見てみれば、柱の装飾の一部のような隠し扉になっていた。

 間違っても迷い込む場所ではないが、迷い込んだとしか言いようのないほど、場違い過ぎる。


 なんて、気後れしている場合ではない。


 ドンと、輝く床に桶を置く。

 ポケットから手巾を出し、鼻と口を覆うと、再び桶に手を掛け、気を引き締めて駆け出した。


 人の気配がする。

 看護女中ではない。

 廊下に整然と並んだ豪奢な扉の向こう側。指一本分ほど、僅かに開いていた扉の隙間から、仕着せやローブの裾が覗いている。

 私が近づくと、するりとそれが引っ込み、扉が音もなく閉じられた。


 息を殺すような、重い空気。

 下級女中への侮蔑や嘲りではなく、病と死への恐怖に満ちた空間。


 呼吸が浅くなるのは、重い灰の桶を提げて小走りをしているせいだけではない。


 廊下の突き当たりを曲がったとき、その光景を見つけた。


 この華やかな廊下に似つかわしくない汚れた箒を持った三人の掃除女中。

 細かな何かを撒きながら、掃き作業をしている。手巾で覆われた鼻と口、俯いた視線のくらさ。

 吐瀉物の処理である。


「――――ちょぉっと待ったぁ!!」


 掃除女中の一人が屈んで床に膝をついたので、その場に灰の桶を置いて、たまらず声を上げながら、猛ダッシュした。


「ゲロ触るの、駄目!!」


 静寂に包まれていた廊下に、私の奇声がこだまする。

 掃除女中たちは、ギョッとした顔で私を見た。


 私が何のことを言っているのか通じていなさそうだが、とりあえず、彼女たちの動きは止まった。


「触った?」


 私の問いかけに、彼女たちは大きな瞳に涙を浮かべて、小さく震えながら私を見ることしかしない。

 パニック寸前なのは、彼女たちに限ったことではない。私だって余裕はない。


「これ、触った?」


 彼女たちの目下、おがくずのようなものが振りかけられた嘔吐の跡を人さし指で指しながら、再度問う。

 膝をつくような姿勢の掃除女中が、ゆっくりと自身の横に置かれた桶を持ち上げて、私に渡す。おがくずが入った桶である。

 残り二人は箒を抱えて震えたまま。


「うん。ありがと。

 これを、こうしたあと、こっち、触った?」


 私は、受け取った桶のおがくずを嘔吐跡に撒き、そして「こっち」と嘔吐跡を指す。

 震える二人が僅かに箒を体から離した。


「うん。箒で掃いてたね。

 手では? 触った?」


 私は手を開いて、手のひらを嘔吐跡に翳す。

 三人が同時に首を細かく横に振った。


「よかったぁ」と私が息を吐くと、三人も息を吐き、一斉に涙をこぼし始めた。


「え。驚かせて、ごめん」


 私が言うと、三人が大きく首を振った。


「ちがう。あなたの、せいじゃない」


 手巾越しのくぐもった声。


「そう? でも、泣いてたら仕事にならないから。

 とりあえず、そっちにいて」


 私が箒を取り上げ、廊下の端に追い立てると、いよいよ三人は声を上げて泣き始めた。


「怖いの」


「死にたくない」


 嗚咽を漏らしながら泣く掃除女中。緊張の糸が切れたようだ。


「まあ、死にたくないって言っても、人間いつかは死ぬよ。

 あと、掃除した手で目とか鼻とか擦ったり、顔触ると、…………病気になるよ」


 そう豆知識を授けると、三人は束の間静かになり、そうして両手を前で重ねた姿勢のまま、喉を鳴らすように泣いた。



 水分を吸って変色したおがくずまみれの、嘔吐の残渣物。吐き出された直後の色はもはや分からない。

 私は、手巾を少し下げて鼻だけ出す。おがくずの匂いと、胃液特有の酸っぱい匂い。所謂、ゲロ臭だ。


「これ、誰が嘔吐したか知ってる?」


 直立不動で啜り泣く三人に尋ねる。

 返ってきたのは、予想通りの答えだった。


「……ノア様です」


「突然吐いた? 前から体調悪かったとか?」


「わからないです。

 ……私たち、これを掃除しろとしか、言われてないので」


 まあ、そうだろう。

 エリアス様に親しい人物の体調なぞ、一端の掃除女中が知り得る話ではない。


「さて。やるか」と独りごちて、私は手巾を覆い直した。


 放置したままだった灰の桶を持ってきて、おがくずと嘔吐の残渣物とでぐちゃぐちゃになったそれに、手掴みで灰を静かにかける。

 おがくずも残渣物も埋もれるくらいかける。


 既に掃除女中たちが廊下に広げていた布を引き寄せ、ゲロだまりならぬ灰だまりになったそれを、箒でザリザリと移していく。

 灰が舞い上がらないよう、それでいて全てを掻き取るよう、ゆっくり箒を動かす。廊下に傷が付くだろうが、知ったこっちゃない。


 広げた布の縁で箒を動かしていると、布が動いて上手く移せないので、足で布を踏みつけていたのだが、それでも微妙にずれていく。

 そこに四苦八苦していたら、掃除女中たちがスンスン鼻を鳴らしながら、布の端の方を押さえてくれた。


「え。ありがと」


 私がそう言うと、三人はブンブンと首を横に振った。そして、再びメソメソと泣き始める。

 まあ、ぶっちゃけ、そんな端を押さえられても、全く意味はないのだが。


 灰だまりの残渣物を全て移したところで、床に残った筋のような水分跡にまた灰をかけ、布に移す。


「ミア!」



 ザリザリと箒を動かしている最中。

廊下の、私が来た方向とは反対側から、ライラが走ってくる。

 ちょうど良いときに来てくれた。


「ライラ!

 来てくれて助かる。石灰もらえる?」


「どうして……どうして! ミアがっ!」


 ライラは、目を見開いて震えている。

「どうして」と言われても。


「え、私がやった方が早く終わるし」


「あんたは、洗濯女中なのよ! さっき言ったわよ。洗濯以外してはいけないって!」


 言ってた。言ってたけど。

 それとこれとは、話も状況も違う。


「あー、ごめん。その話の続きは、洗濯場でしよう」


 私の適当な謝罪に、ライラは石灰の桶を抱えたまま、ギリギリと音がするくらい歯噛みしながら震えていた。

 火に油を注いだのか。

 まあ、投げやりだったのは認める。


「ほんと、ごめん。

 でも、今はこっちの処理が最優先だから。

 あと、そこから先、近づいたら駄目だよ。そこに石灰の桶置いて、離れてて」


 余計なことをしている自覚はある。

 私は掃除女中ではないし、本来、箒を持つことも許されないのも、分かっている。

 だけど、彼女たちが有り得なさ過ぎて、手が出てしまったのだ。

 もしマダムやネッサから咎めを受けるなら、それはそれで、良いとは言わないけれど、仕方ないとは思っている。


 ダン、と、ライラは石灰の桶を足元に置いて、こちらに向かって鋭く指差した。


「あんたたち、絶対許さない!

 ミアが病気になったら、あんたたちの身ぐるみ剝いで、五体全部聖堂に捧げるから!

 覚悟しなさい!」


 その指先は、私ではなく、ライラからは私の背後に隠れているように見える掃除女中たちに向けられている。

 なんだ、私に怒っているんじゃないのか。


 ライラは、その美しい緑色の瞳からポロポロと涙を零すほどに怒っていた。

 誰かの激昂する様を見ていると、引き波のように冷静になることがある。

 今、まさにそれである。


 美人は怒った顔も絵になる。

 と思うと同時に、ベソかきながら怒るなんて駄々っ子かよと、ライラには大変失礼だが、どこか他人事のように微笑ましく思ってしまった。



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