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無知は罪なり、知は空虚なり、英知を持つもの英雄なり。
ここでないどこかの哲学者の言葉らしい。
「は、ふざけんな」と一蹴する。
他人の金で生活し、通行人にイチャモンつけて討論会をふっかけてくるようなオッサンの言葉か、長いものに巻かれ、財布の紐がゆるゆるの政治家の言葉か定かではないが、今の私には響かない。
すべきことは、知ることでも行動することでもない。安寧の確保である。
なぜ今その言葉を思い出したのかと言えば、エリアス様の肌着である。
また、出てきたのだ。
縛られた跡のような染みのある肌着が。
病気なのだし、せん妄症状による身体拘束と考えるのが妥当な線だろう。
私は、ヒリつく良心をその理屈で納得させ、それ以上の詮索はやめた。
それにしても、違和感が拭えない。
肌着の手首あたりは完全に無視するとしても、汚れが落ちれば落ちるほど、この肌着の異質感が増すのだ。
「ーーミア!」
ライラの緊迫した声により、私の意識は、思考の深淵から浮上した。
看護女中の部屋で肌着を濯ぎながら、無意識に唸っていたらしい。
「ミア、今、その肌着のことを考えたの?」
「え、うん。まあ……」
「駄目よ。なぜなんて思ったら駄目。
最初に見つけて話題を振ったのは私だけど、その時言ったじゃない。『見なかったことにしよう』って」
ライラの底知れない気迫に圧倒されながら、私は曖昧に頷く。
「他人の不幸に目を向けられるほど、私たちは恵まれていないの。
洗濯女中の私たちにできることは洗濯だけ。それ以外は求められていないし、してもいけない」
ライラの言う通りである。
その通りなのだが、この違和感が気になるのだ。
腑に落ちないと思っていることが顔に出ていたのか、ライラが優しく私の肩に手を置いた。
「………ねえ、ミア。
世の中に、不幸な子供なんて、それこそ死ぬほどいるのよ。ミアなら、身をもって知っているでしょう。
こんな上等の肌着を、わざわざ体に合わせて誂えてもらってる子供なんて、貴族だって珍しいくらいよ。
それだけ見ても、ここの公爵子息は、十分愛されているのよ」
それもライラの言う通りである。
でも、そこではないのだ。この違和感は。
「何て言うか………。
あ、肌着の主が縛られていたかなんて、それはもうどうでもいいんだけど。
何か、この肌着が変な気がして……」
私の言った「どうでもいい」に、顔をスンと真顔に戻したライラ。
「どこが?」と、冷たい声と共に、肩に置かれた手が突き放すように離れた。
私から受け取った肌着と、濯ぎ終わった他の肌着たちを、広げたり裏返しにしたりして、ライラが見比べる。
すぐに何か納得したのか「はい」と問題の肌着を返された。
「仕立てた人間が違うのよ」
「え。そんな違いでるの?」
「縫い目の癖とか、端の始末とか、仕立て人によって変わるわよ。
あと、着る人の身体に合わせていても、布の切り出し方とかで微妙に変わるわね」
「なるほど」と深く頷き、感慨にふける。
何が凄いかと言えば、濡れた肌着を見て、すぐに違いが分かるライラの眼が凄い。
「よく分かるね。さすがライラ」
「洗濯だけで違和感を感じるミアの方がすごいわよ」
「いやいや」「いやいやいや」と二人で褒め合っていたところに、沈黙が降りる。
「…………」
「考えない! なぜなんて思ったら駄目!」
「なぜ仕立てた人間が変わったのか」と考えが向きそうになった所を、ライラの喝が入る。
「はい!」と私は背筋を伸ばして返事をした。
その余韻も消えない内に、大きな音を立てて廊下側の扉が開いた。
この扉をこんなに勢いよく開けるのは、例の四人しかいない。
「げぇ」とライラは声に出して、露骨に嫌な顔をしている。
何か嫌がらせを仕掛けに来たのか。
横目で彼女たちの動向を見ていたが、その様子はいつもと違った。
四人は、足音を響かせながら室内になだれ込むと、一目散に棚に向かい、抱えた籠いっぱいにリネンを詰めていく。
私とライラは眼中にない様子だ。
「灰は?」
「ないわ」
薄い金髪の看護女中とブルネットの看護女中が短く交わす。
そして、金髪の看護女中の盛大な舌打ち。
「あ、かまどの灰は、全て洗濯で使いました」なんて、嫌味を言う雰囲気ですらない。
彼女たちの、普段とは違う表情に、面倒な事が起きていると察知した。
「赤毛のあんた、ありったけの灰をかき集めて持ってきて。
そっちの金髪は庭に行ってあるだけの石灰をもらってきて」
薄い金髪の看護女中が、私とライラに向かって言う。
「……私たち、この部屋で洗濯するよう言いつけられているので、勝手に部屋を出られません」
ライラが澄ました顔で言う。少し、否かなり気分を害している顔だ。
何があったか知らないが、いきなり上司ぶるなと言ってやりたい。嫌がらせだって受けているのだ。
反抗的な態度になるのは当然だろう。
そんな私とライラを、看護女中たちは歯噛みしながら睨んだ。
「急いでいるのに!」
食ってかかろうとする看護女中を、薄い金髪の看護女中が手で制する。
彼女は一つ息を吐き、苦虫を噛み潰したような顔のまま、静かに言った。
「居館に、疫病患者がいるかもしれない」
疫病。
この国に生きる人間ならば、誰もが聞きたくない言葉。
それは、いつだって、理不尽に日常を黒く塗り潰してくる。
「エリアス様の御学友が、体調を崩されたそうよ」と、ブルネットの看護女中が伏し目がちに言う。
「肌着を洗うあんたを連れてこいって、誰が指示したか分かるわよね?」
「口答えしている場合じゃないのよ。早くして」
心臓を、握り潰された気分になった。
矢継ぎ早に言う看護女中たちの表情に、嫌がらせの時のような下卑た笑いはない。
あるのは、有無を言わせない緊迫感と、ある種の哀れみと、そして、滲み出る恐怖だった。
知らないことによる幸せ。
知ることによる絶望。
だから、嫌いなのだ。英雄になんかならないし、啓蒙思想なんてクソくらえだ。




