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「今までは、婦長が洗っていたのですか?」
「誰も洗っていないわよ」
ネッサと、マダムの事務室を出て、別の部屋に向かう。道すがら、廊下で尋ねると、渋い顔で素っ気なく返された。
「寝具類は、私が洗ったこともあるわ。
公爵夫人はご存知かどうか知らないけれど、ローテヒューゲル夫人に呼ばれて、仕方ないから侍女の支度部屋で洗ったわ」
ネッサは、そこまで言うと、突然振り返って私の肩を掴んだ
「ミア、体を鍛えなさい。
筋力をつければ、病気には罹らない。筋力をつければ、理不尽にも打ち勝てる。筋力をつければ、呪いも跳ね返すわ!」
「理不尽? 呪い………?」
何を言い出すかと思ったが、ネッサは至って真面目な顔である。
至って真面目な拝筋主義者の顔である。
「詳しくは中で聞きなさい」とネッサが言い、扉を軽く叩いた。
中から若い女性の声がする。聞き覚えのある声だ。
扉の中は、簡素な机と椅子数脚、かまどのある部屋だった。
かなり広い。
そこに、マリア嬢が一人で立っていた。
「お待たせ致しました、ブロムベーレン嬢」
ネッサが言う。
「スカーフの件でご存知かと思いますが、こちらが洗濯女中のミアでございます」
「ええ、存じております」
「ミア、こちら、公爵夫人の侍女であられるマリア・ブロムべーレン嬢。挨拶しなさい」
「………よろしくお願いします」
私はぎこちなくお辞儀をした。
こうやって紹介される時は大概「お初にお目にかかります」とお辞儀するのだろうが、初ではないし、昨日、何なら数時間前まで一緒にいたのだ。
「では、私はこれで失礼いたします」とネッサはお辞儀をして、そのまま退出した。
中で聞けとは、つまり、マリア嬢から話を聞けということか。
閉められた扉を背に、ぽつんと残される私。梯子を外された気分だ。
少々居心地の悪い思いをしていると、「どうぞ、お掛けになって」とマリア嬢に椅子を勧められた。
マリア嬢も向い側の椅子に座った。
「家政婦長の部屋にいらしたのなら、朝食はまだですよね」
「よかったら、こちらをどうぞ」とマリア嬢が、黒パンとチーズの乗った皿、ミルクを出してくれた。
マリア嬢、なんて気が利く方なのだろうか。
二日連続、朝食を食べ損ねるところだったが、思わぬ物にありつけた。
マリア嬢は、食べながら話しを聞けなどと無粋なことは言わず、私が食べている最中は静かに何か思案している様子だった。
特に会話もないので、私は、もぐもぐと咀嚼しながら、部屋を観察する。
部屋の奥には、裏庭に続く勝手口がある。
閉じた扉の向こうを行き交う女中たちは疎らで、人が入ってくる気配はない。
この広い部屋に、私とマリア嬢以外誰もいない。かまどには火も入っていない。
「………あの、ここは、侍女の方の部屋なんでしょうか」
「ここは、エリアス様の看護女中の部屋です」
ミルクを飲み終わり、気になっていた事を尋ねたところ、マリア嬢恒例の、苦虫を噛み潰したような表情で返された。
それ以上は今は訊かない。
朝食まで用意してもらったのだ。マリア嬢には穏やかな顔でいて欲しい。
「まず、ミアさんにはこちらをお預けします」
渋い顔のままマリア嬢は、テーブルの上に手巾で包まれた銀の鍵を置く。
手巾ごと、私の手元まで移動させた。
「この鍵は、公爵夫人自ら管理されているものです。これから、私が毎朝こちらの部屋でお渡しします。
夕刻には私へ返却をお願いします。
エリアス様のお召し物についてですが、ここで話すより、直接ご覧になった方が良いかと思います。
………食べた直後ですが、場所を移動しても?」
おそらく私に否と言う権利はない。
静かに椅子を立ち上がった。
「朝食。ありがとうございました。とてもおいしかったです」
礼を言い損ねていたので、今しかないと思い、唐突であるが礼をする。
マリア嬢は「お粗末様でした」とにっこりと笑ってくれた。
その部屋から出て、二人で廊下を歩いた。かなり歩いた。
廊下の突き当りをさらに行き、塔の螺旋階段を登る。
登りながら、手持ち無沙汰なのでマリア嬢に
「そう言えば」今思いついたことを装って尋ねてみる。
「看護女中の皆様どちらに? 朝食ですか?」
自ら発言したが、朝食であるわけがない。
廊下で何人もの女中たちとすれ違っているが、みな既に仕事の最中である。
「いえ。ですが、おそらくは使用人食堂にいるのでしょうね」
随分と棘のある言い方である。
使用人食堂に何か用があるのだろうか。
「ただ、務めを怠っているのです」
低い声で、マリア嬢が言った。
食堂でサボっているということか。
螺旋階段を上に行くにしたがって空気が淀んでいく。
たどり着いた上階の部屋の前は何とも言えない物々しい雰囲気だった。
「こちらです。先ほどの鍵で開けてください」
先ほどマリア嬢から手巾ごと渡された鍵。直接手で触れるのは憚られるので、手巾で摘み鍵穴に入れる。
ギッと鍵穴が回った。
「ミアさんも、念の為、口と鼻を手巾で覆っておいたほうが」
いつの間にか片手で手巾を持って口元に当てていたマリア嬢。彼女がその言葉を言い終わる前に、私は扉を思いっきり扉を開けていた。
臭い。
ひたすらに臭い。
鼻に付く異臭。知っている臭いではある。
とても濃い人間の臭いだ。汗と垢、排泄物、それらが混じり合って饐えた臭い。言うならば、貧民街のそれである。
薄暗い部屋。明かり取りの小さな窓が天井近くに並んでいるだけだ。
室内の一角に、布が高く積まれている。
臭いはそこからのようだった。
「エリアス様の肌着です。これを、あの部屋で洗って欲しいのです」
「一旦扉を閉めましょう」とマリア嬢が言い、私は部屋に踏み入ることなく扉を閉めた。
「公爵夫人は、エリアス様のお召し物を、女中たちに触らせません。
サナトリアの魔術師は、貴人が身に付けていたものがあれば、呪い殺せるそうです。それを恐れて、洗濯をさせないのです。
あまりに臭いが酷いから、この塔の部屋に纏められています」
「は? 呪い? と言うか、肌着はいつから?」
「私が侍女になった三年前には、既にこの部屋に置かれていました」
異臭を放つ堆く積まれた肌着。
三年前、いや、三年以上前の病人の服が、ここに放置され続けている。
元の色が分からないくらい、黒い山と化していた。呪いなどと、妄想か否かは定かではないが、それにしてもこれは狂気の沙汰だ。背筋が寒くなる。
あの山を、洗えと言うのか。
「この階段は、上へ行けばエリアス様のお部屋のある階になります。
先ほどの部屋より下へ、そのまま塔の階段を降りると、城壁の下部に出られますから、洗濯場への近道になるかと思います。
それで、今からでも逃げますか?」
マリア嬢がさらっと言った。まるで、どちらの道で帰るかと尋ねるかのような気安さだ。
「今のうちに、逃げた方が良いと思いますよ」
私を見て、マリア嬢がはっきりと言った。
「自分たちがやりたくない事は、下位の人間に押し付ける。汗水流した他人の成果を、涼しい顔して当然として享受する。
居館には、そういう部類の人間ばかりです。
公爵夫人の言葉を隠れ蓑にして、自分の仕事じゃない、病気が怖い、臭いが嫌だと放置した挙げ句、今更あなたにやらせようとしているのです」
そういう部類の人間とは誰のことか。看護女中たちか、それともマダムか、ローテヒューゲル夫人か。
「公爵夫人が、スカーフを仕上げてた洗濯女中を特別視しているのは本当のことです。純粋に、その技術を褒められていましたから。
ただ、先ほども話した通り、公爵夫人は、あの肌着が呪いに使われることを恐れていらっしゃいます。処分することすら、拒み続けていらっしゃる。
そして、誰も、あの部屋に肌着が何着あるかなど分からないのです。
全て綺麗に洗濯したとして、公爵夫人が数が足りないと言えば、あなたが紛失したことになります。
公爵家の方々のお召し物を含め装飾品を紛失した使用人は懲罰の対象ですが、公爵夫人のエリアス様への愛情から考えると、死を望まれるのではないでしょうか」
悔しそうなマリア嬢。目には薄っすらと涙すら浮かべている。
「ミアさん。………今からでも、逃げませんか?」
マリア嬢の言う事は真っ当な意見である。
三年以上、放置されて顧みられてこなかったエリアス様のお召し物。ここに全てが揃っているとは限らない。
そして不足が出た場合の責任は、私が取る。
まったく、理不尽である。
理不尽であるのだが。
「………とりあえず、あの山は洗います。
それで、洗い終わったら、逃げます」
汚い服があれば、洗濯せずにはいられない。
ドロドロの洗濯物の山を目の前にして、逃げ出すなどもっての外。敵前逃亡は、洗濯女中の恥である。
汚れた服が白い輝きを持って蘇ったときの快感。もはや中毒だ。
理不尽に打ち勝つ筋力は持ち合わせていないが、理不尽すら麻痺させる洗濯依存症は罹患している。




