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「こちらをローテヒューゲル夫人にお渡しください」
シルクのスカーフを折りたたんで入れた小箱を、マリア嬢に手渡す。
「承りました」とマリア嬢が受け取った。
「こちらは、私が責任を持ってローテヒューゲル夫人にお渡しいたします。
みなさまは、洗濯場にお戻りください。今なら夕食に間に合います」
マリア嬢がにっこりと微笑んだ。
「逃げるかもしれませんよ」
「今夜のうちに」
「宵闇に紛れてこっそり」
「このまま洗濯場に戻らないかも」
「夕食よりも、命が惜しいです」
洗濯女中たちが口々に軽口を叩いても、マリア嬢は朗らかに笑って返した。
「構いませんよ。
ローテヒューゲル夫人が納得されなくても、公爵夫人には十分お見せできる品です。
逃した洗濯女中の腕を惜しまれるだけですから。
それに、みなさま逃げる気ないでしょう。
随分と派手に、腹の虫が鳴いているようですし」
そう。
私たち五人は空腹である。
夕食に間に合うならば、疾風と見紛う速さで、洗濯場に戻りたい。
「みなさま本当にお疲れ様でございました」
マリア嬢が片足を下げてお辞儀をする。
洗濯女中も慌ててそれに倣った。
「では、また、どこかで」
「…………申し訳ありません。
その『また』というのが、ちょっともう懲り懲りなので。別の言葉に変更していただいてもいいですか?」
差し出がましいが、声に出して言わせてもらう。
坊ちゃまの前例があるのだ。
「また」と別れれば、厄介事が来る気がする。
「確かにそうですね。……では、皆様お元気で」
マリア嬢はそう笑って、箱を抱えて部屋を出た。
「洗濯場に戻ってもいいんだよね」
「走って戻れば、夕食間に合うかな」
なんて話している時、小間使いがバスケットを持ってやってきた。
「侍女様から、こちらをミアさんにお渡しするようにと」
渡されたバスケットの中には、干し肉と焼き締めたパン、そして中身の入った皮水筒。
携行食である。
「なにボンヤリ眺めてるのよ。あんたは城から逃げるの」
「家庭教師に喧嘩売って、家政婦長を名前呼びする得体の知れない坊ちゃまに懐かれて。
これから先が大変なんだから、逃げるが勝ちよ」
「ローテヒューゲル夫人だって、今回のことでミアのことに目を付けてるし。スカーフに納得できても、別の問題のときに人身御供にされるに決まってる」
「これ持って逃げなさい。あとは何とかするから」
四人に、口々に言われた。
何とかって何だろうか。
私が逃げたら、私でない誰かが、スカーフをボロボロにした女中として、明日首を刎ねられるかもしれない。
私でない誰かは誰だろうか。四人のうちの誰かか、マリア嬢か、そこの小間使いか。あるいは、全く知らない運悪くその場に居合わせた女中かもしれない。
それで、よいのだろうか。
人生二度目ながら、一度目よりもハードモードで、尊厳を踏みにじられて生きてきたけれど、だからといって、生にしがみつくだけの人生は、私の性に合わない。
「あー。夕食よりも命が惜しいって、言ったけど。やっぱり夕食が惜しいかな」
バスケットに視線を落としながら、そんな言葉が口を衝いた。
この理不尽な世界に、私の事を考え、思いやってくれる人がいる。それは十分幸せなんじゃないか。
「ほら。洗濯場の食堂で、わちゃわちゃ皆で食べる夕食とかさ。スープはいつも脂しか入ってないけど、腸詰の欠片があれば、めっちゃいい日で。配膳は醜い争奪戦だけど、席に着けば皆静かにお祈りしてその後、笑ってお喋りする。
そんな洗濯場が、私の居場所なんだよね。
とっとと戻ろ。腸詰入ってたら、もう争奪戦始まってるかも。早く行かないと手に入らないよ。
でさ、屋根裏部屋で夜食にこれ食べよ」
努めて明るく私は笑った。
明日、ローテヒューゲル夫人に呼び出されて、首を刎ねられるかもしれない。
それはそれで良いなんて、決して思わないが、やるだけやったのだから、逃げも隠れもしたくない。
「………ミアがそう言うなら、帰ろっか」
ソフィが頭の後ろに手を回して歩き出す。
各々「お腹すいて死にそう。……あ、いや、うん。死なないと思う」「てかさ。なんで腸詰の話するのよ。余計にお腹空くじゃない」「腸詰じゃなかったら、ミアを恨むから」などと言いながら、小間使いの案内でテレテレと歩き出す。
「疲れた」
という私の声と、小間使がドアを閉める音が重なった。
夜明け前。
真っ暗な空が、緩やかに青みを帯びる。
誰もいない洗濯場の、かまどの火を熾す。
私が毎日一人で火熾しをしているわけではない。
部屋ごとに順番で回しているのだ。ちなみに今朝は、ソフィとマーサが当番であるのだが。
何故私が一人なのかと言えば、昨夜の夕食のせいである。
無事、夕食にはありつけた。
腸詰も入っていた。らしい。
それも、大ぶりなものがたくさん。
我々五人が洗濯場にたどり着いた時には、既に腸詰争奪戦は終結していて、食堂は死屍累々の戦場跡と化していた。
貪欲な洗濯女中の襲撃を這々の体で生き抜いた、つまりは無残な姿となった野菜だけの夕食であったが、空腹は最高の調味料とはよく言ったもので、それでも美味しく頂けた。
「わー。ほのかに腸詰の香りがするー」
「やっぱり腸詰が入っていた汁は美味しいわー」
などと、明るく振る舞ってみたものの、やはり肉の憧憬には敵わなかった。
食べ物の恨みは恐ろしい。
肉を求めた四人の視線は、私に向くしかなかったのだ。
居館では私に逃げろって言った四人。
「それとこれとは話が別」とマリア嬢がくれた食料も奪われ、朝当番を押し付けられるという仕打ちである。
刺すように冷たい朝の空気。
靄のかかった干し場と、その先の屋敷林。
幻想的と言えば確かにそうだが、これが私の日常でもある。
変わらぬ朝を迎えられる事に、感謝しかない。
侍女か使用人か、誰かが物々しく私を迎えに来たとしても。
逃げも隠れもしない。
かまどの前で一度立ち上がり、「うーん」と大きく伸びをする。
「さてと。みんなの朝ごはんの支度するか」
誰もいない洗濯場で独りごちて、食堂の大鍋を取りに行く。
変わらずそこにある洗濯場。
やがて日が昇り、静まり返ったこの洗濯場に、朝日が差し込む。
直に、洗濯女中でごった返し、喧騒があふれる。
変わらぬ一日となる。
そこに、私の姿はないだろう。
大鍋を取りに行った食堂で、表情のないネッサと、目を赤くし今にも泣き出しそうなエマとマーサに会った。
朝食の支度はエマとマーサがするそうだ。
私は、ネッサとともに、居館へ向かった。




