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 床の上に、何枚も重ねてリネンを広げ、その上にシルクのスカーフを広げて置いている。


 その四辺に、ライラとマーサとエマ、そしてマリア嬢がしゃがみ込み、縫い針と絹糸とリネンを持って、ちまちまと作業している。

 シルク生地と刺繍の撚れたところを、縫い針で補正していく。


 私とソフィと坊ちゃま、そして家庭教師は、しゃがみながらスカーフの四隅をそれぞれ押さえ、息を潜めてその作業を見守った。


「…………なぜ私がこんな事をしなければならないのだ」


 家庭教師が仏頂面で呟く。

 すかさず「静かに」と私とソフィが小声で言う。

「グライフ様、少し黙っていてくれませんか」と家庭教師を睨むマリア嬢。

 そんな状況の中、興味深そうに高揚した様子で作業を見つめる坊ちゃま。


 この状況に至る発端は、坊ちゃまである。



「肌触りは、甘橙の果皮とリチネで良いとして、光沢が戻るかはやってみないことには分からないな」


「問題は形ね」


「リネンの上に広げながら乾かすしかないんじゃないかな」


「広げながらだと、生地も刺繍も撚れそうだね」


 歪なひし形となっているスカーフを、どう正方形に戻すか。

 意見を出し合っていた時、坊ちゃまが突然言い放った。


「オストマーレ刺繍なら、マーサが直せるだろう?」


「えっ?」とマーサ本人のみならず、一同が首を傾げて坊ちゃまを見る。

「マーサと呼ばれていたから、そなたの名はマーサなのだと思ったのだが」とか何とか言っているが、そんな事はどうでも良い。


「なぜマーサなのですか?」


「マーサの手巾には、オストマーレの縫い針レースがついているだろう。なら、オストマーレ刺繍もできるだろう」


「そうなの?」とマーサに視線が集まる。

 マーサが少し慌てたように首を振った。


「オストマーレ刺繍なんてできませんよ。

 確かに、あれは縫い針を使う縁飾りですけど……私、あの模様しか作れないんです。習ったのもずっと昔のことだから、オストマーレなのかよく分からないし。

 それに、刺繍なんてやったことないです」


 縫い針レースも、オストマーレ刺繍も、初めて聞く単語だが、今さら聞くに聞けない。

 レースや刺繍の種類だというのは分かった。


 しかし、レースが作れるから刺繍も作れるとは、やや横暴な考えである。

 尤も、刺繍ができるからと、撚れた生地や刺繍を直せるものなのだろうか。

 私は針仕事はさっぱりなので、そのあたりは無知である。


 坊ちゃまも、マーサの手巾を一見しただけで、オストマーレの縫い針レースだとよく分かったものだ。


「それなら、生地のつれているところを縫い針で直すっていうのは、ありかもしれない」


 ライラが考え込むように言う。


「かけつぎと同じ要領ね。刺繍の隙間は、似た色の絹糸で埋めたらどうかしら。幸い、金糸はしっかりしているし」


 エマも、スカーフの刺繍に指を沿わせながら言う。

 ライラもエマも、針仕事の心得があるのだろう。であるならと、ソフィを見遣ると、気まずそうな視線とぶつかった。


「私、針は持たない方がいいって言われてるんだよね。

 生地に穴開けるか、血で汚すかしかしないから」


 同類がいた。

「人間、得手不得手はあるよね」と二人で頷きあった。


「なら、私がやってみてもいいか?」


「だめです」


 坊ちゃまは目を輝かせたが、マリア嬢に瞬殺される。

 マリア嬢が小間使いに絹糸と縫い針を頼んでいる間、坊ちゃまは少し拗ねた顔をしていた。


 しばらくして小間使いが戻ってきた。

 複数用意してもらった絹糸を、ライラとエマが厳しい顔で、スカーフに当てたり明かりに翳したりしながら、色味と手触りを確かめている。

 何がどう違って何が良いのか分からない私は、それを黙って見守るしかない。


「………これなら、いけるかな。エマどう思う?」


「そうね。この糸なら、なんとか……」


 頷き合う二人に、洗濯女中の三人と、そして絹糸を持ってきた小間使いの合計四人が胸をなで下ろす。その様を、マリア嬢にちらりと横目で見られて、小間使いはすぐに表情を元の無表情に戻した。


 洗濯女中五人で顔を見合わせ、「さてと」「やりますか」と腕捲くりをする。

 五人が五人、口角を上げて落ち着いた笑みを浮かべていた。

 大丈夫。何とかなる。そんな自信に満ちた顔だった。


 甘橙の果皮の搾り汁にオリブ油とリチネを溶かす。水の張った洗い桶に、それらと、少量の林檎酢と万年香の化粧水を加える。

 ついでに香り付けに搾った後の甘橙の果皮も洗い桶に入れる。


 そうして、シルクのスカーフを、そこに浸す。


 一連の工程で、無意識に息を潜めていたようで、スカーフから手を離した瞬間、深く息を吐いた。

 洗濯女中五人にマリア嬢、そして小間使いも同じく、一同、ふうと声に出していた。

 互いに顔を見合わせ、ふふと笑い合った。


 深く息を吐いたが、ここから気の抜けない作業である。

 もう一度、気を引き締める。


 テーブルの上にリネンを何枚も重ね、その上に洗い桶から出したスカーフを広げる。

 決して絞ってはいけない。

 四方から、慎重に少しずつ広げていく。


 正方形になるよう、私とマーサの二人が両手で角を押さえ、直したところから、リネンの端布で押さえ、水気を吸い取る。

 湿ったリネンを何度も替え、シルクの水分を取っていく。


 ある程度乾いたところで、ライラとエマが向かい合うように縫い針でスカーフの織り目と刺繍を直していく。

 はっきり言って、気の遠くなる作業である。


 遅々として進まない補修作業に、「一旦体勢立て直し」と縫い針を持った二人が顔を上げた。


「マーサ知ってる?

 縫い針レースは刺繍かレースか、定義が曖昧らしいよ」


 凝った体を伸ばしながら、ライラがマーサを見て言う。


「つまり?」


「マーサも縫い針、持てるよね」


 ライラの圧力により、マーサが加勢。

 三方から作業を進めるにはテーブルでは不向きと、リネンごと床の上に移動した。


 ちなみにマーサが両手で押さえていた角は、ソフィと坊ちゃまが押さえる。


 角を押さえるためにしゃがみ込んだ坊ちゃまが、楽しそうにマリア嬢を見上げた。


「そなたは手伝わないのか?

 公爵夫人の侍女に雇われるくらいなのだから、刺繍は心得ているのだろう」


 洗濯女中五人が一斉にマリア嬢に視線を向ける。

 切羽詰まった懇願と、血走った恐喝の視線。


「このままだと、このスカーフ、私とミアの血塗れになりますが、それでもよろしいでしょうか」


 ソフィが、縫い針を持って言う。

 ゴクリとマリア嬢の喉が鳴った。


「しかし、場所がありません」


「私が移動します」


「ならば、こちらの角を押さえる人がいません」


「物でも置きましょうか」


「だめに決まっているでしょう!」


 ふうと息を吐いて、マリア嬢が周囲を見回す。

 いつの間にか壁際に移動していた小間使いは、ぴたと微動だにせず、壁と一体となって存在感を消している。

 とは言え、元からマリア嬢には、小間使いにスカーフを触らせる気は毛頭ないようで、マリア嬢の視線は小間使いを通過していく。


「……………グライフ様」


 マリア嬢の地を這うような声に、家庭教師はギョッとした顔で振り向く。


「なぜ私なのだ」


「暇だと、仰っていたではありませんか」


「だから、なぜ私なのだ」


 ソフィから受け取った縫い針を持って、マリア嬢が家庭教師の前に立つ。

 その針を、そっと家庭教師の顔の前に突き出した。


「針仕事と、布を押さえるだけ、どちらを選ばれますか?」


 ニッコリと笑うマリア嬢。

 家庭教師に選択肢を与えている訳では無い。要するに「やらなければ刺す」である。


「だからって………」


 食い下がる家庭教師に、マリア嬢から笑みが消える。

 その顔を見て、家庭教師もさすがに沈黙した。



 日が傾き始め、小間使いが明かりの準備を始める。

 屈んだままの八人。針を持った四人は無心にスカーフに向かっている。

 私の対角線上で、家庭教師が口をへの字にして妙な顔をしているが、恐らく欠伸を噛み殺しているのだろう。角を押さえているだけで身動き取れないのも、それはそれで結構しんどい。

 誰かの腹の虫が鳴った。

 照れたように笑ったのは坊ちゃまだ。

 おやつの時間はとうに過ぎているが、坊ちゃまも家庭教師も、大人しくスカーフの角を押さえている。

 それでも針作業の四人は、スカーフから目を離さない。


 日が暮れて、小間使いが用意してくれたランタンを、私とソフィが、片手でスカーフを押さえながら、反対の手で掲げ、スカーフを照らしている。

 全体像を見るために立ち上がっていたライラの横で、「うーん」とマーサが体を伸ばした。


「薔薇のあたり、どうかな」


 ライラを見上げ、マーサが言う。


「いいと思う。さすがだわ。オストマーレ刺繍の薔薇は、マーサに任せて正解だったわ」


 ライラに賞賛されて、マーサは安堵のような照れたような表情をしている。


「この隙間を整えて、他におかしなところはあるかしら」


「このあたりの金糸の縁取りが、少し」


「………少し丸みを持たせましょうか」


 ライラの指摘に、エマが指の腹で刺繍の絹糸を均しながら、気になる部分に縫い針を入れていく。


 四人が四人、立ち上がってスカーフを見下ろしてはしゃがんで縫い針で補正する動作を何度か繰り返し、そして、とうとう、四人とも立ったままスカーフから顔を上げた。



「ほぼ元通りですね。

 これならローテヒューゲル夫人も納得されるでしょう。少なくとも、私は完璧だと思います。

 ………………ああー、目が、目が」


 マリア嬢は、その場で再びしゃがみ込み、地響きのような声を上げ、項垂れた。


「やっと終わった」


「長かった」


「………あんたたち、後半何もしてないよね」


「いやだって、針持ったら邪魔しかできないから」


「右に同じ」


 各々、ぐぐっと体を伸ばしながら、軽口を叩く。

 私とソフィからランタンを受け取った小間使いも、ぐっと背中を反らせて伸びをしている。


 私は、じっとスカーフを見つめる坊ちゃまの顔を覗き込んだ。


「いかがでしたでしょうか、坊ちゃま。甘橙の皮の顛末は」


「素晴らしい。まるで時間を遡ったようだ。

 これなら公爵夫人も喜ばれるだろう」


 坊ちゃまは、満面の笑顔を見せてくれた。

 ただ少し、ほんの少しだけ、寂しそうな笑みだった。


「ノア。戻りますよ」


 何事もなかったように家庭教師が言う。

 だが、私は知っている。

 「ほぼ元通り」とマリア嬢が言った瞬間に右手で小さく拳を作ったこと。

 そして、ずっと床に敷いたリネンに突いていた右膝に激痛が走っていること。

 涼しい表情をしているつもりだろうが、早く帰りたいと顔に書いてある。

 それらには、触れないでやろう。


「はい、先生」と坊ちゃまが殊勝に返事をし、イモリの飼育箱を抱えて隠し通路に戻っていった。

 ボコと音がして、穴が跡形もなく壁に戻る。


 去り際に、坊ちゃまが振り返って私に小さく手を振ってくれた。

 可愛い子供だと思う。

 でも、あの二人には、もう二度と関わりたくない。

 そう願わずにはいられなかった。


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