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 闖入者その三である坊ちゃま。

 名をノアと言うらしい。


 家庭教師の方が身分が高いのか、彼は坊ちゃまを「ノア」と呼び捨てにしている。

 公爵夫人とも交流があるのか、マリア嬢も坊ちゃまを既知のようで、「ノア様」と敬称をつけている。


 二人に名を呼ばれつつ、自室に戻るよう促されても、頑なに甘橙の皮の顛末が見たいと言い張る坊ちゃま。

 会話から推測するに、やはり御令息エリアス様と共に、この家庭教師から教えを受けていて、公爵夫人の実家に関係する子供のようだった。

 そして、未だに私の手の中にいる、この黒いイモリの飼い主である。


「とにかく。ノア様は、あの生き物を連れて部屋にお戻りください」


 マリア嬢は、度重なる闖入者にほとほと困り果てたようで、私の手の中を指しながら、最後通告のように言った。

 坊ちゃまは、「あの生き物」と言われて私を見たが、何を指しているのか分からず、初めは首を傾げていた。が、すぐに黒い有尾生物に思い至ったようで、私の手を凝視している。


「…………そこにサラマンデルがいるのか?

 そなた、サラマンデルを素手で捕まえたのか?」


 坊ちゃまが目を丸くしながら、私の顔と手を何度も視線を往復させている。


 サラマンデル。

 火蜥蜴とも称されるそれは、熔岩の中に棲息している。消火能力があり、火を司るといわれる精霊。

 説話でしか知らないが、名前くらいは知っている。

 しかし、実際に目にしたことはないし、実在するかも不明である。

 坊ちゃまは、これがサラマンデルだと本気で言っているのだろうか。


 熔岩の中に棲息しているのならば薪に隠れることはないし、消火能力があるのならストーブに焚べられた時に逃げ出す必要はない。

 黒く粘膜で湿った表皮と円な瞳の生き物。まるで火と無関係な湿地を好む両生類の有尾生物。

 誰がどう見ても、イモリである。


「何度も言いますが、これはトカゲです。

 サラマンデルではありませんよ、ノア」


 トカゲではない。イモリだ。

 もちろん、口には出さないが。


 坊ちゃまが、飼育箱を大事そうに抱えながら、私の前まで、小走りでやって来た。

 四面を硝子で囲われた金物の蓋を開けて、私の手元に近付けたので、私はそっとイモリを入れた。


 この飼育箱、どう見てもランタンそのものだが、これに灯火を入れれば、間違いなくイモリは焼け死ぬ。

 それを察知して逃亡を図ったのか。それにしても、逃亡先がストーブの薪とは、まさに一難去ってまた一難である。


「僭越ながら、坊ちゃま。これはイモリです」


「そなたもそれを言うか」


「炎の中で生きる火蜥蜴と思われているなら、認識を改めて頂けますでしょうか。

 でなければ、この生き物は丸焦げになりますし、そうなると坊ちゃまも悲しい思いをされます」


 坊ちゃまは目を瞬かせている。


「そなたは、これが焼け死ぬと言うのか?」


「はい。サラマンデルではありませんから。

 ご覧いただければ分かりますが、鱗がありません。ですので、トカゲでもないのです」


 イモリの入ったランタンを、坊ちゃまはじっと見つめる。

 その横から、いつの間にかいた家庭教師も、顔をランタンに近付けて、眉間にシワを寄せながらイモリを睨みつけている。


「なるほど。確かに鱗がない。

 しかし、ストーブの中では生きていたではないか」


「それはですね」


 イモリが火を耐える理由を簡単に説明すると、坊ちゃまは益々目を丸くした。


「なるほど。これはイモリなのか。

 そなたは物知りなのだな!」


 大きく口を開けて笑いながら、坊ちゃまが言う。

 家庭教師には、何とも言えない形相で睨まれた後、ふんと鼻を鳴らして顔を背けられた。

 トカゲではないと言ったことが気に食わないのか。心の狭いことだ。


 坊ちゃまが、好奇心に目を輝かせて、「イモリの体温は、どれ程低いのか」とランタンの中に手を入れようとする。私は、慌てて坊ちゃまの手首を掴んで止めた。


「素手で触ってはいけません!」


「………猛毒で手が溶けるとでも言うのか?  イモリなのだろう?」


 坊ちゃまが不思議そうに私を見る。


「イモリも毒を持っています。

 手が溶けるほどではありませんが、火傷のような痛みを覚えることもありますし、その手で目や口を触ると中毒を起こす可能性もあります。

 ですので、素手では触れられないよう」


「……………なるほど」


 毒と聞いて、坊ちゃまの顔がみるみる青くなっていく。

 相槌も心ここにあらずといった声だった。


「と言うことで。どうぞお部屋にお戻りください」


「そなたもそれを言うか」


 マリア嬢の無言の圧力に遂に耐えきれなくなり、私も坊ちゃまに退出を促したが、何の役にも立たなかった。

 スンと顔色を戻した坊ちゃまに、冷たく言われただけだった。



 結局、坊ちゃまは居座った。

 テーブルの脇に立っているので、座ってはいないのだが。


 坊ちゃまは、家庭教師とマリア嬢に再三戻るよう言われても拒み続け、突っ立っているだけとなった洗濯女中は、その傍らで己らの作業を再開した。


 そしてなし崩し的に、坊ちゃまがテーブルの脇から洗濯女中の作業を見ている形となっている。

 いや見ているだけではない。


「なるほど。甘橙の皮の汁だと、油が浮かないのだな。

 甘橙を使うなら、公爵夫人も好物だから、あえて香りを残したらどうだろう」


 洗濯女中にめちゃくちゃ話しかけてくるし、思いがけない助言をくれたりもする。

 坊ちゃまの言葉に「それ良いですね!」とソフィが感心している。


 ただ、あまり調子に乗せてしまうと、「このスカーフは出産祝いの品で、オストマーレの刺繍が施されていて」などと要らぬ事を言い出すので、常にマリア嬢の監視が必要である。


「ノア様、それは女中に伝える必要ありません」


 坊ちゃまの言葉を遮るマリア嬢の顔色が益々悪くなる。

 今の坊ちゃまの発言は聞かなかったことにする。


「なぜオリブ油を使うのか? 菜種油ではだめなのか?」


「侍女の皆様が、肌や髪の手入れに使う高価な油を選んでいるのです」


 気になった事をすぐ質問する坊ちゃまに、洗濯女中の誰が、片手間に答える。大方、マーサがニコニコと優しく答えている。


 何かと自分も触ってみたいと言い出す坊ちゃまに、「お召し物が汚れます」と袖を捲し上げてあげたりと、マーサは甲斐甲斐しい。

 マーサには弟妹がいると聞いたことがある。世話焼きには慣れているのだろう。

 今だって、オリブ油を触った坊ちゃまの指を手巾で拭ってあげている。


「なるほど。高価な油か。

 それで、瀉下薬しゃげやくが必要だったのか。油であるし、確かにオリブ油より高価だ」


 指を拭いていたマーサも含め、洗濯女中たちがぴたりと動きを止め、坊ちゃまを見る。

 マリア嬢の顔色は最早蒼白だった。


「そなたらが話していたであろう? リチネを使いたいと」


「なぜ知っている?」と、みな同時に思った。声に出さずとも表情から滲み出ている。

 固まる洗濯女中に構わず、坊ちゃまは、自身の胸元の内ポケットから小瓶を出して言った。


「これでよければ、使ってはどうだろうか」


 見慣れた青い小瓶。


 誰もがその小瓶に注目して、微動だにしない。


 パサっと、マーサの手巾が床に落ちる音が響く。

 束の間、いや暫くは静寂が部屋を覆っていた。


 何がきっかけか分からないが、ほぼ同時に洗濯女中五人が互いに顔を見合わせた。

「集合」とライラの合図により、額を突き合わせる。


「リチネって、居館に持ち込めないんじゃなかった?」


「何で、あるの?」


「て言うか。なぜリチネの話を知ってるのよ?」


 最早声も潜めることも忘れて言い募る。

 五人では埒が明かない。

 マリア嬢を見遣ると、両手で顔を覆っている。いや頭を抱えている。

 声にならない声を漏らしながら内に籠もり出した彼女に説明を求めることは諦めた。


 五人の視線は、自然と、壁際で腕組みをしながらこちらを睨み続けている家庭教師に向けられた。


「……………あいつの罠か?」


 こそっと呟いたのはソフィだ。


「罠ではない」


 聞こえていたようで、家庭教師が言い返す。その声に若干の疲労が滲んでいる。


「彼は特別だ。特別に瀉下薬を携行しているだけだ。

 その子供の発言に関しては、私は関知しない」


 そして家庭教師は横を向いた。

 知らぬ存ぜぬを決め込むようだ。


「ルドヴィカ……じゃなかった。マダムも、瀉下薬を携行していることは知っている。だからこのリチネを使用しても咎められることはない。

 それで、リチネを使うとどうなるのか?」


 坊ちゃまが好奇心の塊のような表情で言う。


 坊ちゃまが、マダム・ハウライトを名で呼んでいる事にも驚きだが、色々と感覚が麻痺していて、いちいち表情に出す間もない。

 ちなみに、マダムの名がルドヴィカである事を初めて知った。


 そもそもなぜ、リチネの話を坊ちゃまが知っているのだろうか。

 その話をしていた時は坊ちゃまはおろか家庭教師だっていなかった。


「坊ちゃま。

 いつからあの隠し通路にいらっしゃったのですか?」


 意を決して坊ちゃまに訊く。

 坊ちゃまは少し口角を上げ、悪戯めいた笑いをした。


「私ではない。話していたと聞いたのだ」


 誰から? と問おうとして思い当たる先は一つしかない。

 壁際で横を向いている家庭教師に、再び視線が集まる。


「緑甲虫の粉末を持ち込んでいたら、容赦はしない。

 と先生は仰っていたが、何故必要なのだ?」


 相変わらず、坊ちゃまは目をキラキラと輝かせていた。


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