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 家庭教師は、いつの間にか下男に持ち込ませた布張りの椅子にふんぞり返って座っている。

 部屋の外で待機させられている下男は、昨日のシミ抜き金髪野郎ではない。ネッサは、奴を腰巾着と言っていたが、今日はくっついていないようだ。

 そもそも家庭教師の身の回りに意識を向けることすら馬鹿らしい。

 視界と脳内から意識的に抹消して、とにかくシルクの修復だけに集中した。


 甘橙の香りのおかげか、心穏やかに集中できた気がする。


「いい香り」と、皆で頬を綻ばせながら、甘橙の果皮を潰して搾る。

 顔はにこやかだが、潰す腕力は、諸々の恨みが込められていると思われる程、力強い。果皮だけなのに、随分と汁が出た。

 そうしているうちに、五月芋の煮汁も持ち込まれた。


「試しに何か布を浸けてみようか」


 ソフィの提案に、「シルクじゃないけど」と言いながら、マーサが己のポケットからレース付きの手巾を出す。

 それを真っ二つに裂こうとするので、私は慌てて自分の使い古した手巾を差し出した。


「同じ布を使わないと比較にならないよ?」


「だったら、なおさらだよ」


 使用感は互角だが、色糸のレースに縁取られたマーサの手巾と、解れた端をかがり縫いしただけの私の手巾。裂くならどちらか、一目瞭然だ。

 ちなみに、レースはマーサの手作りらしい。

 本人曰く、昔に習ったもので、余った糸が勿体ないから手巾の縁飾りにしたという。手慰みと言うが、市場で売っていてもおかしくないくらいの見事なレースである。


 私は自分のボロ手巾の縁の糸を、犬歯で噛みちぎった。

 布を裂くことに慣れていないせいか、手巾は不揃いに裂けた。驚くほどに布目を無視した裂けっぷりである。

 試し洗いなので、不揃いでも、布目が裂けていても支障はない。


 マリア嬢の小間使いに用意してもらった二つの洗面桶に、甘橙の果皮の汁と五月芋の煮汁、それぞれを少量入れ、オリブ油を少し垂らした。

 白く濁った甘橙の果皮の汁に、洗面桶の半量ほどに水を張る。少し白濁した液ができた。

 油膜は浮いておらず、甘橙の果皮の汁と水とオリブ油が完全に混ざっているようだった。


 五月芋の煮汁は、と言うと、混ぜてみても煮汁の表面にふつふつと小さな油膜となってオリブ油が浮く。煮汁の量を増やしたり、林檎酢を入れてみたが、それは残ったままだった。


「加熱した方が混ざるかな」


「どうだろ。やってみる?」


「とりあえず、甘橙の方に手巾を浸して試してみよ」


「どれくらい浸す?」


「試しだがら、少しの時間でもいいんじゃないの」


 五人で額を合わせながら、洗面桶の中に手巾の端布を入れた。

 しばらくして取り出し軽く搾る。それを乾いたリネンの上に広げ、その上にリネンを重ね水分を吸い取る。

 ある程度水気がなくなった状態の手巾の端布を、再び乾いたリネンで挟む。


 完全に乾いたとは決して言えないが、湿っぽい程度には乾いた手巾の端布。

 その小さな端布を摘んだ瞬間、五人同時に顔を上げ、同時に口角を上げた。


「すごい!」


「これ、リネンだけど肌触りがめちゃくちゃいい」


「これは期待できるね」


 使い込み、洗い晒して、最早リネンと言うよりヘンプのようになっていた私の手巾が、生まれ変わった。とは言え、裂いてしまったので手巾としては使い物にはならないのだが。

 触る度に肌から水分を奪わんと牙を剥いていた手巾の布が、湿っている状態でも分かるほど、見事にしっとりとして穏やかな触り心地になっている。


「触ってみていただけますか?」


 はしゃぐ洗濯女中たちを気にしてソワソワしているマリア嬢に、手巾の端布を触るよう促す。

 その向こうに、僅かに首を伸ばす家庭教師も視界に入ったが、それは見なかったことにした。


 マリア嬢が、手巾の端布に触れようと指を伸ばした時。


「キャアアア!!」


 悲鳴が上がった。

 その声に、一同肩を竦めて固まった。


 マリア嬢ではない。部屋の隅からである。


 部屋の隅に設置されたストーブの、開いた扉の前で、小間使いが蹲っている。

 五月芋の煮汁を加熱すると話していたため、マリア嬢がストーブの火を熾すよう伝えていたようだ。

 その言いつけ通りに火を熾していた小間使いが、蹲って震えている。


 駆け寄ってみれば、ストーブの火室から、バチバチと薪の爆ぜる音がする。

 小間使いのローブの裾が、僅かに焦げている。

爆ぜた木片が飛んだのだろうか。


「大丈夫ですか? 黒くなっているようですが、火傷とかしてませんか?」


「イヤぁぁぁっ!」


 私が手を伸ばすと、小間使いは私の手を避けるように身を竦めた。

 何がそんなにイヤなのか。


 躊躇していると、バチッと大きく薪が爆ぜた。

「キャアア」と小間使いが悲鳴を上げて更に縮こまる。


 その時。

 その小間使いのローブの裾あたりから、小さな黒いものがコソコソと出できて、床の上を這う。


 その小さな黒いものを見た瞬間、マリア嬢が盛大に悲鳴を上げた。

 ライラたちも恐怖のあまり硬直している。家庭教師ですら中腰姿勢で固まったままだ。


 私は、咄嗟に、手に持っていた手巾の端布で、それを捕まえた。

 手巾の端布から顔を出す黒い有尾生物。


「…………イモリだよ」


 イモリの顔を覗き込む私を、皆が皆、ギョッとした目で見ている。

 皆が何を想像しているのか知らないが、あの邪悪な触角を持った褐色の害虫だったら、私だってこんな事はしない。


「………ただのイモリだって」


 もう一度言ってみたが、誰も動かない。

 いや、一人いた。家庭教師だ。


「なぜトカゲが?」


 中腰体勢から背筋を伸ばし、取り繕う様に髪を撫でつけて、ふうとため息を吐くと、そう問いかけた。


「…………薪に付いていたのでしょうね」


 それと、これはトカゲではなくイモリだ。

 心の中で、家庭教師の言葉に異を唱える。いっそ、声に出してやろうかとも思ったがやめた。自制心は一応機能している。


 イモリとトカゲ、形は似ているが違う生き物だ。イモリは両生類、トカゲは爬虫類である。

 両生類であるイモリは、体温が低く、身体の表面が湿っているため、僅かな時間だが炎に耐えることができる。もちろん、炎の中で生きていられるわけではなく、長居すれば焼け死んでしまうのだが。


 洗濯場ではあまり見ないが、森で祖父と暮らしていた時は、薪にくっついていたのか炭焼きの火入れ後に、慌ててチョロチョロと抜け出してくるイモリを度々見かけた。


 黒いつぶらな目をみていると、それを思い出して、何とも懐かしい気持ちになった。


「お前、城の薪なんかに隠れてたら、すぐに黒焼きにされてしまうよ。森へお帰り」


 イモリが首を擡げて、こちらを見たような気がした。

 ライラたち洗濯女中も、マリア嬢や小間使いも、一様に引き攣った顔のままだ。


 カエルやヘビが苦手な人は多いという。

 これはイモリだが、カエルとヘビの両方の嫌われ要素を持っているのだろう。生理的に受け付けられないのだろう。

「お前も不本意だろうに」とイモリに同情してしまう。


「それは、人に飼われているトカゲだ。森に放さないように。

 全く、とんだ闖入者だ」


 私の手の中のイモリを横目に見ながら、家庭教師が言う。

 森ならどこにでもチョロチョロといるイモリを、わざわざ城で飼うのか。

 このイモリを愛でているのだろうか。可愛い顔をしていると思わないでもないが、随分な趣味だ。高貴な方々の考えることはやはり理解できない。


 と言うか、闖入者と言うなら家庭教師だって、私にとっては闖入者である。

 その、イモリではない闖入者が、壁に手を置いて何かを探す素振りをしている。

 何をしているのだろうか。

 と、怪訝に思って見ていたら、あるところで立ち止まって壁の僅かな窪みに拳を入れた。


 途端に、ガコと鈍い音に続いてボコと壁に穴が開く。


 人一人が通れるほどの仕掛け扉。


 そんなものがあったのかと驚いていると、その奥に小柄な人影が出てきたから更に驚いた。


 ちょっと展開が追いつかないのは、私だけではないようで、洗濯女中五人と小間使いが目を点にして固まっている。

 マリア嬢は非常に渋い顔をしている。


「何をしているのです? 部屋で待機するよう言ったはずですが」


「………申し訳ありません」


 小柄な人影は、家庭教師に見下ろされながら冷たく言われ、元気のない声で謝る黒髪の少年だった。

 家庭教師を見上げたものの、咄嗟に視線をずらす黒い瞳。


「甘橙の皮が気になって、ここからなら誰にも見つからずに覗けると思ったのですが………」


 ああ、いつぞやの坊ちゃまだ。

 ほぼ稼働していない私の頭が、なんとかそれだけは認識した。


 坊ちゃまも、ずらした視線の先で、私を認識したようだった。しょぼくれていた顔が、みるみる生気を取り戻していく。


「ハイではないか!

 やはり、そなたか。甘橙の皮を使うと言ったのは」


 坊ちゃまが、大きく口を開けて、目を輝かせて言う。


「また会えて嬉しいぞ」


 思えば、坊ちゃまに会ったのが全ての元凶。「また」がこんなに唐突にやってくるとは、思いもしなかった。



 井戸の中のカエルは、海を見た時、何を思ったのだろうか。

 恐怖だろうか、不安だろうか。

 おそらく、どちらもだろう。

 海になんて出たくなかったと、嘆いただろうか。


 私は今、そのカエルに酷く同情している。

 洗濯場という井戸の中から、出なければ良かったと、今ほど後悔したことは無い。


 無邪気に笑う坊ちゃまに、私は「はい」と言うのが精一杯だった。



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