第六曲 おすきなふくは
庭のすみにしゃがみ、ぼんやりと恋人の背中を眺める。恋人は花の手入れに夢中で、藤乃の視線に気がつかない。今の萩真には花しか見えていない。なんの作業をしているかわからないけれど、萩真が動くたびに茶色の髪が陽射しで光る。アパートでの同棲を経て、念願叶って庭つきの一戸建てに引っ越したのだから、夢中になる気持ちはわからないでもないが。
(俺のことも見てよ)
つい拗ねたくなる。だって、せっかくの休日なのだ。花だけではなく、藤乃のこともかまってほしい。しっかりとした背中を少し睨みつけてみても、やはり花に夢中で気がつかない。むむむ、とはなったけれど、藤乃ももう三十歳が近い年齢だ。やきもちで恋人を困らせるようなことはしたくない。
自分の黒髪をひと筋引っ張って、やきもちを留める。こういう直接的な刺激は、心で言い聞かせているだけよりも効果があるのだ。もともとやきもち妬きな自分をわかっているから、抑え方も学んでいる。ついでに、歩み寄りという言葉も覚えた。腰をあげて萩真へ近づき、手もとを覗き込む。
「その黄色い花はなに?」
問いかけに萩真は目を丸くした。
「藤乃が花に興味持つの、珍しいな」
「たまにはね」
実際のところ、花にはあまり興味がない。萩真と話したいから話題を振ったのだ。さらに言えば、普段口数の多くない萩真は、花のことだと饒舌になると藤乃は知っている。つまり、花の話題を振れば萩真とたくさん話せて、ついでに藤乃へわずかでも意識を向けてもらえる。
藤乃の萩真への想いは、だいぶ重い。
ふたりの実家が徒歩二分の距離で、毎日のように一緒にいた。同い年で同じ学校だったから、どこに行くのも萩真と一緒だった。
優しくて穏やかで、少しいたずら好きな萩真に惹かれてから、この気持ちの重さは続いている。現状を維持できず、日が経つごとにどんどん重くなっていく。そんな藤乃の気持ちの重ささえ丸ごと包み込んでくれるので、いっそう好きになっていくばかりだ。藤乃が重い気持ちをいだいていると知っていて、それでも花に夢中になるのだから、ひどい男なのだ。そこも好きだけれど。
萩真が黄色の花を目でしめす。そんな視線の動きも恰好よくて、どきりとする。
「この黄色い花はオミナエシ」
「おみ……?」
首をかしげると、萩真は微笑んで「オミナエシ」と繰りかえしてくれた。今度は藤乃もきちんと復唱できた。
「不思議な名前だね」
「女性を圧倒するほど美しい花なんだ」
「え、なんでいきなり自己紹介?」
「オミナエシの名前の意味だよ」
苦笑しているので、自己紹介ではないらしい。でも、女性を圧倒するほど美しいと言われたら、まず萩真のことだと思うのは藤乃だけではないはずだ。萩真が勤務する会社には萩真のファンクラブがあるらしいし、きっと他の人にもこの思考は通用する。平凡な藤乃と並ぶとさらに美しさが際立つから、いろいろな意味で藤乃はとてもいい立ち位置だ。萩真をより美しくできて、その美しさを間近で見られる。
オミナエシと説明された黄色い花は、小さい花が集まって咲いている。藤乃の目には控えめな印象に映り、女性を圧倒するほど美しいのは萩真だな、とあらためて思った。
「オミナエシは、秋の七草なんだ」
「七草がゆなら食べる」
「秋の七草は食べないんだよ」
また苦笑いをされた。さらに「腹減ったのか?」とつけ加えられ、なんでも食べることにつなげてしまう自分に反省した。お腹はまだ空いていない。
「秋の七草はオミナエシ、ススキ、キキョウ、ナデシコ、フジバカマ、クズ、ハギ」
「よく覚えられるね」
「頭文字で『おすきなふくは』って覚えるんだ」
「へえ」
花のことになるとやはり饒舌で、いろいろと話してくれる。これくらい藤乃のことも話してほしいものだ。
なんとなくもやっとしながら、「おすきなふくは」と繰りかえしてみた。こういう語呂あわせなら、藤乃も覚えられるかもしれない。覚えられたら萩真との会話がもっと弾むかも――覚えよう。
意気込む藤乃の視線の先で、萩真は静かにオミナエシの手入れをしている。花の手入れをはじめる前に、肥料がどうこうと言っていたから、たぶんその作業をしているのだと思う。ただ、見ても藤乃にはなにがなんの作業なのか、まったくわからない。
(……本当に俺でいいのかな)
こういうとき、寂しさとともに萩真につりあわない自分を感じる。外見からして萩真につりあうものを持っていない藤乃は、花の話も満足にできない。こんな自分でいいのかと、ふと不安がよぎるときがある。
「どうした?」
「え?」
「なんか寂しそう。ごめんな、もうすぐ終わるから」
「う、ううん。寂しいとかじゃないよ、大丈夫」
突然萩真がこちらを向いたことも、ひと目見ただけで藤乃の寂しさを感じ取ってくれたことも驚いてしまった。慌てて首と手を左右に振って、なんでもない、と笑顔を作る。でも萩真は真剣な顔を崩さなかった。
「俺は寂しいよ。藤乃が本当のこと隠してるの」
「……!」
「俺じゃ藤乃の力になれないか?」
気遣いながら聞かれて、胸が熱くなった。感動するより、心配をかけて申しわけないと反省しないといけない。わかっていても、萩真の気持ちがまっすぐに藤乃へ向くと、それだけで感動する。
「……俺でいいのかなと思っただけ。花が好きな萩真と、もっと話が合う人のほうがいいんじゃないかなって。萩真も、俺といるよりいろいろ話せて楽しいだろうし」
弱気な心が表れて、徐々に声が小さくなっていく。そんな自分も情けない。こんなことを言っていたら、萩真があきれるかもしれない。
「……はあ」
「っ……」
想像のとおりの大きなため息が聞こえて、ぎくりとする。本当に藤乃にあきれたのかもしれない。こわごわと視線を向けると、萩真は険しい顔でこちらを見ていた。
「それで? 俺と別れたいのか?」
「そっ……そうじゃなくて、俺はただ、もっと萩真がいろいろ……花の話とかできる相手と一緒にい」
言葉の途中で視界が暗くなった。唇にぬくもりを感じて目をまばたく。よく知っている感触にぽかんとしていると、ぬくもりが離れて萩真の顔が見えた。
「うるさい口は塞ぐぞ」
「塞いでから言うな! こ、こんなとこで……外なのに!」
ぐわっと顔が熱くなり、慌てて唇を手で押さえる。ぬくもりも感触も、まだしっかりと残っている。萩真からの強引なキスで、素直に胸がときめいてしまう自分にあきれた。でも、いつも優しい萩真の強引さを見せられて、ときめかないわけがない。
萩真は涼しい顔をして、またオミナエシの手入れをはじめた。こんなにどきどきさせておいて、なんでもない様子で作業を再開するのはずるい。悔しさで睨みつけて、はっとする。
「萩真……?」
横顔が寂しそうだ。
「藤乃がそういうこと言うから、まだ片想いしてる気分になる」
「え……?」
片想い――藤乃は萩真に片想いをしていたけれど、逆は聞いたことがない。聞き間違えただろうか、と頭のなかに疑問符が浮かぶ。そんな藤乃に、また萩真はため息をついた。
「というか、藤乃はなんで俺が花を育ててるか、わかってないだろ」
「花が好きだからでしょ? 昔から、一緒にいるときに花を見つけると、あそこに花が咲いてる、あっちにも咲いてるって教えて……くれて……」
過去を思いかえしてみて、あれ、と思う。あちらこちらに花が咲いていると藤乃に教えてくれたけれど、花が好きだと萩真の口から聞いたことがない。花を買ってきてプレゼントしてくれたり、引っ越してからは花を育てたりはしていても、大人になってからのことだ。
「あれ……萩真って花好きだよね?」
記憶を掘り起こしてみても、花が好きだと萩真は言ったことがない。萩真の言葉は全部覚えているから間違いない。首をひねる藤乃を、じいっと萩真は見ている。
「降参、答え教えて。実は花好きじゃないの?」
「……はあぁあ」
藤乃の降参に、萩真はわざとらしい盛大なため息をついた。それから強い視線で睨んでくる。思わず背を伸ばす藤乃に、あきれの瞳が向けられた。
「藤乃は、俺が口下手なこと知ってるだろ」
「うん。でも、花のことだとよくしゃべるよね」
「そのためだよ」
「え?」
また意味がわからなくて首をかしげていると、ふっと萩真は笑い出した。
「本当に、そういうとこ……可愛いよな」
土で汚れた軍手をしている手で、お腹をかかえて笑っている。笑われている藤乃には、笑いの理由も突然の『可愛い』の理由もまったくわからない。
「藤乃に話しかけるとき、花が咲いてるって声かければ自然だろ? それに、言葉に悩まなくていい。そういうこと」
「……」
「鈍いよな、俺の片想いにも全然気がつかなかったし。藤乃から告白してくれたときも、俺が嬉しすぎて舞いあがってたら、告白した本人は振られる前提だったとか、信じられない。俺のほうが先に好きになってたっての」
「え……、……えっ⁉」
たしかに振られる前提で告白した。想像とは違う答えに、目を丸くしたまま動けなくなったのをよく覚えている。でも、萩真が先に好きでいてくれたなんて、聞いたことがない。
萩真も藤乃も三十歳手前、恋人としてつきあって約十四年が経つ。はじめて聞いた真実に、思考も身体も停止する。そんな藤乃の驚きさえ包むように、萩真は柔らかく微笑んだ。極上の笑みは、まさしく女性を圧倒する美しさだ。
「萩真の花好きって、演技だったの……?」
聞きたいことがたくさんありすぎるので、ひとつずつ聞いていくことにする。
「今は本当に好きだよ、目的があるから。藤乃に話しかけるときのきっかけにしようと思ったのが、はじまりだけど」
「目的?」
また謎が増えて、さらに藤乃は首をかしげる。今度は萩真の笑みが少し意地悪になって、どきっとしながら見つめた。じわりと頬に熱が集まっていく。
どきどきと胸を鳴らしていると、立ちあがった萩真がゆっくり近寄ってきた。笑顔に妙な威圧感があり、あとずさろうとしたが足が動かない。固まったままでいる藤乃の目の前に立ち、萩真は笑みを柔らかくした。ふっと威圧感が消え、穏やかさに心が包み込まれる。
「今の目的は、俺が育てた花で藤乃に笑顔になってもらうこと」
「……俺?」
「そう。俺が一番見たいのは、花より可愛い藤乃の笑顔だよ。だから、寂しくなることはもう言わないでほしい」
言葉とともに微笑む萩真が、あまりに美しくて茫然とする。しばしぼうっとしていたが、我に返って飛びついた。勢いのまま萩真に抱きついて、胸もとにぐりぐりと額をこすりつける。
「もう……っ、萩真ってずるい!」
泣きそうになるほどの感動で、胸がいっぱいになる。どんなに勢いよく抱きついても、きちんと藤乃を受けとめてくれるところが萩真らしい。すべてが素敵すぎて、好きにさせるばかりでずるい。
「感動してくれた?」
「めちゃくちゃした! そんなこと言われたら、花を見るたびに萩真のこと考えちゃうよ」
「あ、それいいな。もっと言う」
「言わなくていいよっ、充分言ってもらったから!」
熱い頬を感じながら萩真を見あげる。目が合って、互いに微笑んだ。
「口下手な俺の言葉で、藤乃への気持ちが充分まで伝わるとは思えないけど?」
「あーもう、本当に俺の恋人最高っ!」
また飛びついて、今度は藤乃からキスをする。じゃれるようなキスを受け取り、ぎゅうっと抱きしめてくれた。力強い腕のなかで幸せを噛みしめていたら、藤乃のお腹が盛大に鳴った。
「……ごめん」
場の空気を読まないのにも、ほどがある。自分にあきれていると、ふっと萩真が噴き出した。
「肥料あげるの、藤乃も手伝って。急いで終わらせて一緒にごはん作ろう」
土のついた軍手をしたまま、萩真が藤乃へ手を伸ばす。
「うん。萩真の片想いの話も、もっと聞かせて」
ごわっとした手のひらに手を重ね、きゅっと握りあってオミナエシの前に戻った。
終




