第五曲 つきみ
「よし。綺麗に焼けた」
グリルを取り出し、焼きあがったサンマをそれぞれのお皿にのせる。秋といったらサンマだ。肉じゃがも深鉢にたっぷりとよそい、ひっくりかえさないように気をつけてテーブルに運んだ。おかずをすべてテーブルに並べて、はっとして炊飯器に向かう。ごはんもよそって、完成だ。
リビングダイニングで作業をしている背中を見て、制服が汚れたらよくない、と念のためにペーパーナプキンも棚から出した。学校帰りにそのまま寄ってもらったけれど、いったん帰ったあとに呼んだほうがよかったかもしれない。
そろそろ作業が終わるのか、茶色の髪を揺らして底面を覗いている。その背に向かって声をかける。
「できたよ、稔季」
「ありがとう。すぐ手洗ってくる」
「ごめん、なんか面倒なこと頼んじゃったよね。どうしても僕じゃうまくできなくて」
「大丈夫、俺はこういうの好きだから。夕音も遠慮しないで、どんどん言ってよ」
稔季は高校生らしくない頼もしさで、調整したばかりのスチールフレームの棚を視線でしめす。確認するように手で揺らしていて、夕音の位置からもがたつきがないことがわかった。
こういうものを夕音が組み立てると、必ずバランスが悪くなる。組み立て作業はスムーズにできても、完成したときにどこかがおかしくなるのだ。今回は小さい棚だから大丈夫だろう、と余裕のある気持ちでいたのに、しっかりとがたついた。がたついたままでは使えないので、本当に申しわけないと思いながら、幼馴染の稔季に調整を頼んだのだ。
夕音と正反対に、稔季はこういった作業全般が得意だ。というか、基本的に稔季はなんでもうまくやる。過程が合っていなくても、結果は大正解になることもあるくらいだ。すごいを通り越して謎すぎる。
稔季が手を洗いに行っているあいだ、調整してもらった棚をさまざまな角度から眺める。幼馴染の器用さに感謝だ。まじまじと眺めている夕音の薄茶色の髪が、スチールフレームに映った。なんとなく首を無意味に傾けて髪を映していると、洗面室から稔季が戻ってきた。夕音のいたずらに気がついて苦笑している。でもテーブルに並んだ料理を見た瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「すごいな、肉じゃが山盛り。俺、肉じゃが大好きなんだ」
「よかった。じゃあ、食べよう」
もとから綺麗な顔なのに、そんなにきらきらとさせたら眩しすぎる。自分の平凡な顔面との違いに差がありすぎて、思わず感心した。美形はどんな表情でも美形だ。
ダイニングテーブルを挟んで、向かいあって座った。稔季はさっそく小皿に取り分けた肉じゃがに箸を伸ばした。その様子を見守りながら緊張する。おいしくできたと思うが、稔季に食べてもらうとなると、どうしても心配になる。
「おいしい! 味つけも、すごく俺の好きな味」
「そうなんだ。口に合ったならよかった」
素知らぬ顔をしながら答えて、夕音も小皿の肉じゃがに箸を伸ばした。おいしくできていると自分でも思うけれど、稔季に喜んでもらえたから、もっとおいしく感じる。
本当のところは、稔季が肉じゃがが好きなこと、こういう味つけが好きなことを、夕音はしっかりと知っている。無駄に幼馴染をやってきていない。そのくらいのことはとっくに知っていて、脳内の稔季情報リストにきっちり刻み込んである。
近所に住む稔季とは、幼稚園のときから家族ぐるみで仲良くしている。両親とともに引っ越しの挨拶に来た稔季をはじめて見た途端、夕音は泣き出した。その話は、いまだに両家族のあいだで話題にのぼる。
(だって、すごく優しく笑いかけてくれたから、感動しちゃったんだよ)
出会いの涙の真実は、胸にしまってある。当時は幼すぎてよくわからなかったが、あれこそひと目惚れの瞬間だ。それから夕音の頭のなかは稔季だけになった。なんとなく感じた『そばにいたい』が、ゆっくりと恋愛感情として育っていき、高校生の今に至る。
でもそんなことは本人に言えないから、夕音は今日も幼馴染の顔をして笑う。幼馴染でしかいられないことに、少し寂しい気持ちもある。
寂しくはあっても、稔季と一緒にいられるのなら幼馴染でもかまわない。それに、会ったばかりの人は稔季の恋人になれても、幼馴染にはなれない。だからここは夕音だけの特等席だ。
もちろん、いつかは稔季に好きな人ができて、恋人ができることもきちんと理解している。そのうえで稔季しか見えないのだから、不毛な恋だ。
「夕音の肉じゃが、俺が全部食べちゃいそう。おじさんとおばさんの分も取ってある?」
「食べちゃっていいよ。父さんと母さんは、帰ってきたら好きなもの食べるだろうし。それにそれは――」
言いかけた言葉を呑み込み、わざとらしくならないように笑顔を作る。でも言いかけて止まったら、当然疑問に思う。稔季が首をかしげた。
「それは?」
「それはそれ、これはこれってこと」
「……?」
適当にごまかすと、稔季は不思議そうな顔をした。本当はこんないい加減なごまかし方をしたくはないが、事実をそのまま言うわけにもいかない。
(『それは稔季のために作ったから』って言えたらなあ)
さすがに、幼馴染から向けられる気持ちとしては重すぎる。だから夕音は絶対に言えない。一生稔季にだけは言えない。
「じゃあ、遠慮しないで食べる。すっごくおいしいよ。おじさんとおばさんは遅くなるの?」
「そんなに遅くならないとは思うけど、どうだろう。お祭りのことになると、地区の人たちみんな熱くなるから」
稔季の『すっごくおいしいよ』に、口もとがゆるゆるになった。これは脳内にある、稔季からもらった食事感想リストに刻み込む。今日は幸せな夢が見られそうだ。
「お祭りって来月だよな。絶対話が盛りあがってると思う」
「うん、僕も絶対そうだと思う」
ふたりで笑みを交わし、夕音はサンマに箸を入れた。思ったとおり、おいしく焼けている。ほくほくで脂がのった身を食べながら、ちらりと稔季を上目に見る。夕音の視線に気がついていないようで、次々と肉じゃがを口に運んでいる。嬉しそうに口もとが緩んでいるから、よほど気に入ってくれたのだろう。頑張って作ってよかった。
「お風呂も入っていく? おじさんとおばさん、今日も仕事で遅くなるんでしょ」
「たぶん。でもやめとく。本当は入っていきたいけど」
「入っていきたいなら入っていけばいいじゃん。お風呂用意しておくよ? 僕は稔季のあとでいいから」
「夕音ってさ、そういうとこ」
ぴたりと言葉を途中で止めた。なんだろう、と続きを待っていると、稔季は「なんでもない」とサンマを食べはじめた。やはりおいしいと喜んでくれて、夕音も嬉しい。でも言葉の続きは気になる。じいっと視線を向け続けてみると、きまり悪そうに稔季が眉をさげた。
「なに?」
「ううん、なにもない」
「夕音が『なにもない』って言うときは、絶対なにかあるときだよな」
「そんなことないよ。それ言ったら、稔季だってさっき『なんでもない』って言ったじゃない」
ぎくりとしつつ切りかえしたら、向かい側で稔季はさらに眉をさげた。
どうしようかなとは思ったが、それ以上そこに触れるのはやめた。夕音が稔季にだけは隠したい想いがあるのだから、稔季だって隠しごとくらいあるだろう。
わずかな寂しさを感じながら、ごはんを食べる。新米だから瑞々しくてもちもちだ。稔季もごはんを口に運び、また頬を緩めた。おいしいらしい。
なにか話しかけようと思っても、うまく言葉を探せなくて何度も黙った。妙な気まずさになってしまい、ふたりで言葉少なに食事をすませた。せっかくの楽しい時間も嬉しい感想も、しぼんでなくなりそうだ。
稔季と一緒に片づけをして、ふたりで二階へあがった。夕音のあとに続き、調整した棚を持って稔季が階段をあがる。あれもこれもやってもらって悪いなと思いつつ、素直に甘えることにした。稔季としては食事のお礼のつもりだろうから、変に遠慮すると、さらに気まずくなるかもしれない。
夕音の部屋に到着し、ローテーブルをあいだに挟んで座る。若干の気まずさを引きずったまま、宿題を片づけていった。
わからないところを教えてくれる稔季へ目を向け、苦い気持ちが胸に広がった。じわりじわりと苦みは全身にまで広がり、勝手に眉が寄る。
「お祭り、もう一緒に行けないね」
つい口にしていた。こんなことを言うつもりはなかったし、言いたくなかった。夕音の言葉を受け、稔季は顔をあげる。
「なんで?」
「……だって、女子に誘われてたじゃん。一緒に行こうって」
今日の放課後、一緒に帰るために稔季を待っていたときだ。稔季は女子から声をかけられていた。その子はかなり張りきっていて、自宅最寄り駅は遠いらしいけれど、お祭りのためにここまで来るようなことを言っていた。
聞いていられなくて夕音は逃げ出し、話が終わりそうな頃に教室前に戻ったのだ。すでに女子の姿はなくて、稔季はいつもどおりの顔で「どこに行ってたんだよ」と文句を言っていた。
幼馴染の夕音からこんなことを言われても、困るに決まっている。それがわかっているのに口から出ていた。
「ごめん。別に変な意味じゃなくて!」
ぱっと笑顔に変えて、もやもやとした沈黙を破る。夕音の笑顔を目に映し、正面に座る稔季はあきらかに顔を歪めた。
(怒らせちゃったかな……)
しゅんとした気持ちにつられて、瞼も少しおりる。表情が翳った夕音を見ていた稔季は、やはり怒ったのか腰をあげた。帰ってしまうのかも、とさらに肩を落とすと、想像に反して稔季は夕音の背後へ向かった。
「こっち。夕音、月が綺麗だから」
「え? あ、本当だ」
振り向いてみると、窓の向こうの夜空に真円の月が浮かんでいた。紺色の空には雲がひとつもないから、月がよく見える。月光が明るくて、夜空の色が普段よりも薄く感じた。滲むような月明かりにあてられたのか、さまざまな感情が湧き立ってくる。
ふたりで並んで窓の外を見あげていると、徐々に泣きそうな気分になってきた。こうやって稔季と綺麗な月を見る相手は、きっともう夕音ではなくなる。
なにかを言わないとと思うのに、声を出したら言ってはいけない言葉まで出そうで、口を噤む。隣から、すうっと静かな稔季の呼吸が聞こえた。
「夕音って、俺のことよく知ってるよな」
「う、うん、それは……まあ。幼馴染だから」
「そっか、……幼馴染か」
どこか寂しそうな声が聞こえ、隣へ顔を向ける。なぜか稔季は月ではなく夕音を見ていて、視線がぶつかった。
「問題。夕音は絶対答えること。月が綺麗なのは、どうしてでしょう?」
「えっ、なにそれ」
唐突な問いかけに、思わず頓狂な声が出る。その反応に稔季は苦笑した。
「なに……え、月が綺麗なのに理由があるの? いつも綺麗だと思うけど……なぞなぞ?」
首をひねり続けていると、間近に気配を感じた。え、と思ったときには至近距離に稔季の顔があった。近すぎるので仰け反って距離を取ると、その分だけ近づいてくる。夕音はさらにあとずさり、距離を取る。
じりじりとあとずさる夕音と、じわじわ近づく稔季の攻防が続き、ついに窓際へ追い詰められた。夕音の背に窓が当たり、正面には稔季が間近に立っている。このあとどうしよう、と逃げ場を探していると、稔季が夕音へまた顔を寄せた。
「夕音が作ってくれたごはん、全部おいしかった」
耳たぶに触れそうな距離で囁かれる。頭を引きたくても背後は窓で、引きようがない。とりあえず動きを止めて、息もひそめる。少しでも動いたら、稔季の唇が耳たぶに当たりそうだ。
「う、うん。それならよかった……けど、近いよ?」
「近づいてるんだよ」
「なんで?」
「お月見にはお団子だろ?」
またなぞなぞなのか、不可思議なことを言う。いや、お月見にお団子はまったく不思議ではない。でもこの体勢は変だ。幼馴染の距離ではない。綺麗な月を見るにしても、先ほどのように横並びになるべきだ。それに、この体勢だと夕音には月が見えない。
「今日、十五夜なんだよな。俺、お団子食べたい」
「あ、そっか。ごめん、お団子は用意してなか」
長い指で夕音の頬をつついてきて、なにが起こっているのかと言葉が止まった。お団子の催促をしていたと思ったのに、稔季は夕音の頬をふにふにと押す。まるで遊んでいるみたいな手つきで、じわじわと顔が熱を持っていった。
「な、稔季……?」
「夕音のほっぺたって、昔からもちもちだよな」
絶対に真っ赤になっている。恥ずかしくて顔を背けたいのに、まっすぐな視線につかまって逃げられない。
「あの、本当に――」
それでも逃げようとしたら、眉をさげた稔季は泣きそうな顔をした。
「稔季……?」
「俺、どうやったら夕音の幼馴染から卒業できる?」
「え?」
「こんなに夕音が好きなんだよ……。夕音以外とお祭りなんて、行くわけないだろ。早く気がつけよ」
眼前のなだらかな頬に、ひと筋しずくが流れていった。つられたように、夕音の頬にも似たものが伝い落ちる。
「僕と、お祭り行ってくれるの?」
「行くよ。夕音としか行かない。一生夕音とだけ行きたい。夕音と見るから、月がこんなに綺麗に見えるんだ」
先ほど稔季が出してきた『問題』が耳によみがえった。同時に、たった今の言葉が答えとして問いにはまる。
自分は意味をきちんと理解できているのか、わからない。でも、稔季が伝えたいことはひとつだ。ひと筋濡れた頬に、熱が集まっていく。見あげた先では、稔季の頬に伝ったしずくの痕跡が、月明かりで輝いているようだった。
勇気を出して強い視線で稔季を見つめ、口を開いた。
「問題。月が綺麗なのはなんでだと思う?」
「え?」
突然同じ問いを返され、稔季は驚いた顔のまま夕音を見つめている。その頬へ手を伸ばし、輝く痕跡を指で拭ってあげた。
「稔季と一緒に見てるから、僕が見る月もすごく綺麗なんだ。僕も一生稔季とお祭り行って、ずっとふたりで月を見たい」
「夕音……?」
「肉じゃが、いっぱい食べてくれてありがとう。また稔季のために作るね」
目をまばたいた稔季は、おずおずとためらいがちに両腕を伸ばした。自ら胸に飛び込むように、夕音も稔季の背に腕をまわす。
こんなにしっかりと稔季のぬくもりやにおいを感じるのは、はじめてだ。落ちつかない気持ちで間近の稔季を見あげ、少し微笑んでみた。向けた笑み以上に優しい微笑を返してくれて、胸がくすぐったくなる。
「そういえば、『月が綺麗』ってなにか意味があるようなこと、どこかで見た気がする。なんだっけ……稔季知ってる?」
「さあ、知らない」
「そっか。なんだったかな」
記憶を漁る夕音に、優しい眼差しが向けられている。
どんな月でも、稔季と一緒に見ればなによりも綺麗だ。それを答えにして、今は静かにぬくもりに包まれたい。そっと稔季の胸に頬を寄せると、速い心音がわかる。夕音と同じ速度だ。
しばし互いのぬくもりを感じてから、身体を離した。近い距離で視線を合わせ、またふたりで微笑む。もちもちのお団子に、ゆっくりと稔季が唇を寄せてきた。
終




