第四曲 よなが
ひゅうっと冷たい風が吹き、思わず身を縮める。昼間はまだ暑い日もあるが、夕方をすぎるとだいぶ肌寒くなってきた。会社帰りの足を速め、目的のマンションへと急ぐ。通い慣れた道を、弾んだ足取りで進んでいった。
ドアの前でスーツのジャケットを直し、風で乱れた前髪を整える。逸る気持ちでインターホンを押すと、ドアから顔を出した恋人は優しく微笑んだ。月明かりのような色素の薄い髪が、動きに合わせてさらりと揺れている。美麗な顔には仕事の疲れがまったく見えない。今日もスマートに業務を終わらせたのだろう。
「お疲れさま、朔豊。あがって」
「静夜さんもお疲れさま。おじゃまします」
黒髪をくしゃくしゃと撫でられ、くすぐったい気持ちで朔豊も笑みを返した。たった今整えた前髪は、すでにもとどおりだ。それでもかまわない。
静夜は昔から、この手つきで朔豊の髪を撫でてくれた。近所に住んでいた大好きな幼馴染が、大人になったら恋人として髪を撫でてくれている。あまりにも贅沢だ。
でも、まさか静夜から告白される日が来るなんて、昔はまったく思わなかった。小学生の頃の朔豊に未来を想像させても、二十年後に静夜とこんな関係になっているなんて、思いつきさえしない。静夜のことを『素敵なお兄さん』としか思っていなかったから、告白されたときはとにかく驚いた。今では朔豊のほうが静夜に惚れきっているけれど、はじまりは逆だったりするのだ。
室内にあがると、空腹を煽るいいにおいがした。仕事のあとで疲れているのは静夜も同じなのに、いつもこうして朔豊のために食事を用意してくれる。優しいところも素敵だとは思う。ただ、たまには静夜にも、ゆったりとした気分になってもらいたい。
「次は俺が作るからね」
「朔豊がうちのキッチンに立ってくれるんだ? 大歓迎。明日はどう? そのまま泊まっていけばいいよ」
「泊まっていけばって、静夜さん明後日から出張でしょ」
キッチンへ戻る静夜の背を、早足で追いかける。朔豊の提案だけで幸せそうな顔をしていて、胸の奥まで甘くなる。こういうとき、心底愛されていることを実感して少し照れくさい。
「出張だから、朔豊がうちにいてくれると嬉しいんだよ。朔豊の『いってらっしゃい』で出かけて、帰ったときに『おかえりなさい』と言ってもらえると考えたら、すごく頑張れる。そうだ、今度旅行に行こう」
「ちょっと。話が逸れてるから。まあ、静夜さんがいいなら……俺も見送りとかしたい」
「本当に? じゃあ朔豊のためにいろいろ用意しておくよ。帰ってきて、すぐ食べられるもの」
ぱっと表情を明るくするのはいいけれど、発言はだいぶ間違っている。
「そうやってすぐ甘やかさないで。自分の食事くらい自分で作れるよ」
「わかった。じゃあ疲れて帰ってきた朔豊が、手軽に食べられるものを用意しておく」
朔豊のジャケットを脱がせながら、楽しそうに声を弾ませている。どこまでも甘やかそうとするこの人を、止める権利があるのは朔豊だけだ。
「静夜さん、俺はもう三十歳になる大人で、小さい頃とは違うの。甘やかす必要はないんだよ」
「俺は今年三十五になるし、年下の大切な恋人を甘やかすのは俺の特権だろ? むしろ幼馴染のときより、しっかり甘やかしていいはずだ」
「けっこう頑固だよね」
「それはそうだろ。俺の楽しみを奪われたら困るからな」
訂正。朔豊には止める権利はあるけれど、静夜が止まるとはかぎらない。というより、止められたことが一度もない。最終的には必ず静夜が勝つのだ。静夜に甘やかされるのは不満でも、朔豊を甘やかすことで静夜が幸せそうにしているのは嬉しいから。結局、静夜も朔豊も恋人にはどこまでも弱いのだと思う。
「今日はシチューにしたんだ。外、寒かっただろ」
「あ、シチューのにおいだったんだ。すごくいいにおいだから、なんだろうって思った」
「座って待ってて。もう食べられるから」
言いながら静夜は朔豊の肩を押し、なかば強引に着席させた。手伝おうと思ったのに、先を越された。
「本当に、そんなに甘やかしてどうするの」
「決まってるだろ、朔豊が俺から離れられないようにする。俺が小学生のときからの野望だ」
「野望って、そんなことしなくても離れないよ。もう静夜さんしか見えないんだから」
苦笑すると、静夜は目をまたたいた。驚かれたことで朔豊も驚く。
「え、俺が離れていくと思ってたの?」
「思ってはいなくても不安になるだろ。小さいときも、小学校、中学、高校、大学だって、いつも朔豊といられるわけじゃなかったし、大人になった今は朔豊の会社に魅力的で素敵な人がたくさんいるだろうから」
「それ、静夜さんが言うことじゃないよ」
ついあきれ口調になってしまったが、なるに決まっている。その心配をするべきなのは朔豊のほうだ。そもそも静夜ほどの男性が、地味な朔豊を可愛がることや独占したがることが不思議なのだ。
静夜の相手になりたいと望む人は、昔から男女問わず数えきれない。そのすべてを無視して朔豊に手を伸ばしたのだから、本当に不思議な人だ。普段は温厚なのに、恋愛感情を向けられると無関心になる――朔豊以外には。そんなにすごい魅力が自分にあるのかと、鏡の自分とにらめっこをしたことさえある。
「静夜さんより素敵な人なんて、いないから」
「欲目だな」
「違うよ、事実。たしかな事実」
この美しい見た目と穏やかな性格、誰もが知っている大企業で課長をやっているというだけでも、もっと胸を張っていいと思う。でも静夜はいつも控えめで、自身への評価を低めにする。謙遜といえばそうだが、控えめすぎる気がするのは朔豊だけだろうか。
もやもやとしながら座って待っていると、テーブルにシチュー皿がふたつ置かれた。黄味がかったクリーム色のシチューが、お皿にたっぷりよそってある。くゆる湯気までおいしそうで、見ているだけでお腹が鳴る。
早く『いただきます』をしたくて、うずうずする。そんな朔豊に苦笑して、静夜がテーブルの向かい側に座った。
「食べようか」
「はい! いただきますっ」
「いただきます」
ふたりで手を合わせてから、木製のスプーンを取る。シチューをスプーンにたっぷり掬って口に運ぶと、ふわあっと表情が緩んでいった。
優しい甘みが口いっぱいに広がり、気持ちまでほっこりしてくる。大きめにカットされた野菜がたくさん入っていて、感動するくらいにおいしい。外が寒かった分、ほこほこシチューがよりおいしく感じる。かぼちゃなんて、口のなかでほろほろ溶けていく。
「おいしいぃ」
思わず心情そのままの声が出た。おいしいと言わずにいられない。様子を見ていた静夜が、心から幸せそうに微笑んだ。
「本当に、この瞬間がたまらなく幸せだよ」
甘い微笑にうっとりとしながら、優しい味のシチューにほっこりする。幸せなのは、どう考えても朔豊のほうだ。おいしいシチューをふたりで味わえること自体、幸せすぎる。
「静夜さんが作ってくれるもの全部、世界一おいしいよね。世界一恰好よくて世界一料理の腕がいいなんて、俺の恋人は素敵すぎるよ」
「ありがとう。そう言ってくれる朔豊は、世界一可愛いよ」
静夜と朔豊のやりとりを見たり聞いたりしたら、誰であってもあきれると思う。当然自覚はある。でも、馬鹿みたいに相手のことばかり考えて、相手が一番素敵だと言えるのは、とても幸せだと思う。
ふたりでにこにこしながら食事を終え、片づけは手伝わせてもらった。たいしたことはしていないのに、静夜は朔豊が片づけるところを見ては微笑んで、最後にはエプロン姿の写真を撮っていた。撮るのはいいけれど、なにに使うのだろう。本当に不思議な人だ。
順番にシャワーを浴び、リビングダイニングのソファに横並びで座った。静夜に肩を抱かれて、のんびりとテレビを見る。おいしい食事に幸せな時間。贅沢すぎて目がまわりそうだ。
「あ、ハロウィン特集だよ」
「もうハロウィンか。今年も終盤に来てるってことだな」
「一年ってあっという間だよね。つい最近一月だった気がするのに」
人気のハロウィングッズや、期間限定イベントを開催しているテーマパーク、ハロウィン限定メニューなど、さまざまなものや場所が紹介されていく。
オレンジ色のかぼちゃを切り抜いた顔が少しずつ違っていて、つい違いを見たくなる。画面に並ぶかぼちゃの違いを眺めていると、ふっと静夜が噴き出した。
「真剣だな。ハロウィンには特別な食事にしようか」
「かぼちゃ尽くしとか?」
「いや、いたずら尽くし」
意味深な目を向けられ、どきりと胸が鳴る。いたずら尽くしの食事を想像しただけで、頬に熱があがっていった。意図せず見つめあい、なんとなく色気を帯びた雰囲気になった。距離が近くなってきて、そっと瞼をおろす。
「あ」
突然、静夜がなにかに気がついたような声を出す。
「え? わっ!」
伏せた瞼をまたあげると、眼前のすぐそばに整った顔があった。驚いて頭を引こうとしたのに、うなじに手を添えて逆に引き寄せられる。キスにしては、いつもより強引だ。朔豊の唇をじいっと間近で見ている。
「どうかした?」
あまりに近い距離にどきどきしながら問うと、静夜の指が唇を撫でた。長い指がするりと横滑りして、唇の上を動く。静夜は真剣な瞳で、じっと唇を見ている。
「あ、あの……?」
「唇が荒れてる。ちゃんと寝られてないのか?」
「あっ、これは違うんだ。そうじゃなくて」
「体調が悪いとか?」
それも違う、と首を左右に強く振る。とりあえずはほっとした顔をしているが、それでも静夜は眉をさげた。あきらかに心配をかけている。
「最近空気が乾燥してきたからか、なんか唇を舐めちゃうんだよね。それで荒れたんだと思う」
「そうか。それならいいけど」
ようやく心底安堵した表情になり、朔豊もほっとする。
「ちょっと待っててくれ」
ソファから立った静夜は、自身の通勤バッグを持ってきた。メイン収納部分に手を入れて、なにかを探しているようだ。
「あった」
しばし様子を見ていたら、目的のものを探し当てたようで、静夜がバッグから手を出した。手のひらを開いて見せてくれて、のっているアイテムに朔豊は首をかしげる。
「リップクリーム?」
「そう。今はこれで我慢してくれ、今度ちゃんとした――」
「買わなくていいよっ!」
思わず声をあげる。静夜は残念そうにまた眉をさげたが、負けずに朔豊が厳しい表情を向け続けたら、「わかった」と肩を落とした。あぶないところだった。
「静夜さんってリップクリーム使うんだね」
「使うよ。空気が乾燥してくると、唇が割れやすくなるから」
微笑みながら、なぜか静夜は朔豊の顎を持つ。少し上に持ちあげてから、リップクリームのキャップをはずした。
「え、えっと……?」
「塗ってあげる」
「!」
逃がさないためか、言葉と同時にリップクリームが唇に当てられた。優しい動きでリップクリームを塗ってくれる。潤いで唇に覆いがかかっていく感覚に、ひどく恥ずかしくなってくる。必然的に無言になり、妙な緊張感が襲ってきた。
「できたよ」
「あ、ありがとう……」
「すごくおいしそうになった」
リップクリームを塗ったばかりの唇を、静夜がまじまじと見る。あまりに見られすぎて、やはり恥ずかしい。俯きたくても、顎にはまだ静夜の指がかかっている。
キス待ちのようなこの体勢も恥ずかしい。今はリップクリームを塗ってもらっただけ、と理解しながら、薄い唇が近づいてくることを期待してしまう。
「あの」
「夜が長くなってきたな」
「あ……」
朔豊が甘めの声を出したら、ぱっと静夜は手を離した。ソファに座りなおして、また肩を抱かれる。
(……期待したのは俺だけか)
少し寂しい気持ちになりながら、またテレビを見る。朔豊は静夜が気になって、隣をちらちらと見てばかりだ。視線の先が定まらないまま、情報番組の音声が耳にだけ届いた。ハロウィン特集はとっくに終わっていて、今は秋の味覚の紹介になっている。
ふっと急に室内が静まりかえり、テレビが消えたのだとわかった。同時に心音が激しく鳴りはじめた。
「朔豊」
「は、はいっ」
あらためて名を呼ばれ、緊張のせいで声がうわずる。でも静夜は笑わず、真剣な瞳で朔豊を見つめてきた。
月明かりのような髪がつやを弾き、瞳がわずかに揺れている。あまりに美しすぎて、魂を吸い取られそうだ。ついぼうっと顔を見あげていると、口もとを緩めた静夜に髪を撫でられた。
「いつもより色っぽくなって、目のやり場に困るな」
「色っぽい……?」
誰が、と聞こうとした唇を、親指の腹で軽く押さえられる。一度ふにと押されて、頬がじわじわ火照っていった。
「つやつやな唇で朔豊が誘ってくれたら、秋の夜長も堪能できそうだ」
「!」
「いや、実際に堪能するのは朔豊を、だけど」
さらに顔に熱があがっていき、なにをどう答えたらいいかわからない。触られた唇が震えはじめ、ついきゅっと引き結んでしまった。朔豊の緊張を読み取ったのか、静夜はまたソファから立った。
「梨も買っておいたんだった。切ってくるから食べよう」
無理強いをしたくないということだろう。朔豊の強張りを、緊張ではなく拒絶と取ったのかもしれない。慌ててソファから立ち、キッチンへ向かう静夜の背に手を伸ばした。
しっかりとした厚みのある身体に、背中から抱きつく。嗅ぎ慣れたにおいでも、いつもよりどきどきする。
「……静夜さんは、俺に誘ってほしいの?」
思いかえしてみると、これまでに朔豊から誘ったことは一度もない。変に積極的になって引かれたらと思うと、どうしても受け身でいるばかりだった。でも、もし静夜が望んでくれるのなら、頑張ってみたい。
「誘ってくれたら嬉しいというだけで、朔豊が嫌なことをさせる気はない。大丈夫だよ」
安心させようとする声に、胸でわずかなもやもやが起こる。してほしいとおねだりされたら、朔豊だって望んでやりたい。静夜のおねだりを嫌と思うわけがない。
「静夜さん、こっち向いて」
「うん?」
朔豊の腕のなかで身体の向きを変え、いつもどおりに静夜が微笑んだ。余裕のある大人の微笑みだ。頬がどんどん熱くなるのを感じながら、じいっと静夜を見つめる。
「今夜は寝たくないな。ちょっとだけ、意地悪もされたい気分なんだけど」
「!」
「……それと、いつもしてもらってばかりだから、俺も静夜さんの……したりとか」
「まじで⁉」
飛び出た驚きの声に、朔豊も驚く。
(静夜さんが『まじ』って言った)
いつもの静夜なら「本当にいいの?」と、穏やかに聞いてくるだろう。でも今は目をきらきらと輝かせて、嬉々とした表情を見せている。見たことのない幼さに触れられて、思わず朔豊は笑ってしまった。
「まじだよ。まじで静夜さんにいろいろしちゃう」
「悪い。少し言葉遣いがよくなかったな」
恥ずかしそうに頬を赤く染めているので、可愛くてまた笑いが零れる。大人でいつも余裕があって、なんでもスマートにこなす静夜が、こんな一面を持っていたなんて知らなかった。幼い頃から静夜は冷静で落ちついていた。朔豊の言葉でその冷静さをなくすなんて、くすぐったい特別感がある。
「そんなことない。素敵だよ」
「気を遣わなくていい、引いたならそう言ってくれ。今後気をつける」
「お馬鹿だね、静夜さん」
静夜の鼻先を指で押すと、朔豊の顔を見たまま静夜が動きを止めた。
「そういうところを見せてもらえると、俺は幸せなんだよ。これからもずっと隣で、俺だけにいろんな顔を見せて?」
動きを止めている静夜の腰に抱きつき、そっと背伸びをする。潤った唇が触れるすれすれで朔豊は止まった。あと少し動けば、唇が触れる距離だ。
「夜が長くなってきたから、時間はたくさんあるよ」
「キスしてくれないのか?」
「今はおあずけ。ベッドに行こう?」
手を引いて寝室へ向かうと、静夜は落ちつかなそうに、それでも嬉しげに微笑んでいる。
静夜が朔豊を甘やかしたい気持ちが、なんとなくわかった。可愛いところを見せてくれると、もっと見せてほしくなる。
ベッドに静夜を押し倒し、その腰に跨った。さすがの静夜も目をまたたいているが、ごくりと喉を鳴らしてもいる。はじめての見おろす目線に、朔豊の心音も高揚も増していく。ゆっくりと身をかがめて、ベッドを背にする静夜の耳もとへ顔を寄せた。
「いっぱい味わってね。俺のつやつやな唇も、他も」
囁きを受けた静夜は、片手で自身の顔を覆った。
「……鼻血出そう」
終




