第三曲 きのこ
毎年秋に開催される学祭が近くなっている。学内全体がそわそわしたり活気づいたり、忙しい季節だ。
みんなが口々に学祭の話題で盛りあがるなか、禾は静かにランチを食べる。食べはじめるときは基本ひとりでいるから、静かに食べる以外はできない。声をかけてくれたら応じるが、それもまずないだろう。地味で影が薄い禾は、たいていみんなの意識の片すみにすら入れない。
一名のみ除いて。
「またひとりで食べてるんだ?」
濃茶色の髪を揺らす姿が視界に入り、顔をあげる。見慣れた美形が立っていて、つい眉をひそめてしまった。禾の表情など気にせず、相手は当然のように正面の椅子に座る。
「なんでそこに座ってんの。俺の向かい側は柾歩の席じゃないから」
「いいでしょ。これ見よがしに禾がひとりでいたら、声かけないわけにはいかないよ」
「そんなにいつも面倒見てくれなくてもいいのに。それに、これ見よがしとかじゃないし」
禾を認識しない『みんな』から、ただひとりはずれているのが幼馴染の柾歩だ。面倒見のいい柾歩は、ひとりでいることが多い禾を気にかけてくれている。姿を見つければそばに来て、あれこれと声をかけたり、今のように一緒にランチを食べたりする。
柾歩の気遣いは嬉しいが、困ることもあるのだ。ぐるりと学食内を見まわすと、ほとんどの女子学生が恨めしそうな目でこちらを見ていた。思わず顔を俯けた動きで、長めの前髪が少し目にかかった。正面に座る柾歩の姿に、黒髪の簾がかかる。
「……まわりからめっちゃ睨まれてるんだけど。俺は別に柾歩を奪ったわけじゃない」
「なんで僕を奪ったからって、まわりが禾を睨む必要があるの。被害妄想」
「だったらいいけどな」
禾の文句に、簾の向こうで柾歩が小さく笑った。笑うと幼く見えるところも素敵だと、よく女子が騒いでいる。たしかに童顔ではあるけれど、イコール素敵になるかは禾にはわからない。
柾歩は見た目がいい。性格も穏やかで人当たりがよく、面倒見もいい。背も高ければスタイルもいい、頭もいい、と『いい』ばかりがこれだけ重なれば、当然女子学生からは熱い視線を向けられる。
その本人は視線をさらっと受け流して、彼女のひとりも作ったことがない。そもそも、女子といる時間がないくらい禾のそばにくっついている。それでいいのか。
「いつまでも幼馴染の面倒見てたら、大学生活もったいないんじゃない?」
「禾は僕といると大学生活もったいないと思うんだね。へえ、ふうん、そうなんだ」
「なにその嫌味な言い方。ていうか曲解しすぎてる」
「嫌味なんて言ってないよ。禾の言ったことを、そのまま受け取っただけ」
涼しい顔をしてカレーうどんを食べている。イケメンがカレーうどんをすする姿は、なかなかの違和感だ。イメージ的には柾歩こそ小洒落たスパゲティだろう。禾が食べている和風きのこスパゲティを差し出したいくらいだ。絶対にできないけれど。
禾も和風きのこスパゲティをフォークに巻き取る。口に運ぶと、たっぷり入ったきのこのうま味と濃いバターの香りで、あっという間に幸せになった。秋だからか、きのこの種類もいろいろと入っている。おいしい時期においしいものを食べられることも、また幸せだ。こんなにおいしいのに、きのこが嫌いなんて柾歩は損をしている。
学食のランチメニューには、はずれがない。だからいつも禾はここに来る。禾が椅子に座ると、すぐに柾歩が向かい側に来るのだ。毎回のことすぎて驚かなくなっても、すごい偶然だとは思う。
向かい側の柾歩は、どこか意地悪に口角をあげる。
「どう、今日こそ誰か気になる感じある?」
「……」
「なさそうだね。まあ、そんな簡単に禾の恋愛音痴が直るなら、大学二年になって『「好き」ってどんな感情なのかな』なんて言わないよね」
「うるさいな」
柾歩の言うとおりで、まったく間違っていないが文句は返す。これでも禾自身、気にしているし克服したいことなのだ。恋をしたことがある柾歩には、禾の悔しさも苦労もわからない。初恋もまだどころか、恋愛感情自体が疑問符な禾を、こうして柾歩はからかう。毎回悔しいのに、どうしてもよくわからない。
好きというのなら、親も好きだし幼馴染の柾歩も好きだ。和風きのこスパゲティだって好きだ。それならば禾だって『好き』がわかる。でも、その気持ちと恋愛感情は別だ。それもなんとかわかる。次の段階が未知なのだ。
「俺だって頑張ってるんだよ。でもわかんないんだから、しょうがないだろ」
「別に責めてないよ。卑屈になるのやめたら」
「悪かったな、卑屈で」
「そうやって、すぐツンツンするんだから。禾って昔から変わらない」
苦笑され、むっとなる。それでもやはり柾歩の言うことはそのとおりなので、ちくちくと胸に刺さった。言われたら言いかえし、さらに言われたら卑屈になって拗ねる。昔から禾の言動は変わっていない。成長がないのだ。だから恋愛面も不器用なのかもしれない。
(親や柾歩や和風きのこスパゲティ以上の好きって、どんなのだよ)
わかるわけがない。好きなものは好きだ。好きという気持ちに差ができたことがない。いや、親や柾歩と、和風きのこスパゲティのあいだには違いがある。でもそれは、人間、食べもの、というくくりによるものだ。
「俺だって、そのうち好きな人見つけるから」
気合いを入れてテーブルの上でこぶしを作ると、はっきりと柾歩はあきれ顔を見せた。
「そういうところが恋愛音痴なんだよ。好きな人は見つけるものじゃないの」
「どういうこと?」
首を傾ける禾に、また柾歩は苦笑いをする。
「勝手に好きになっちゃうの。理由とか相手が誰とか関係なく、その人以外見えなくなる。好きになるつもりがなくても、ね」
「だから、そういう相手を見つけるんだろ」
「そうじゃないって。本当にもう」
さらに柾歩の苦笑に苦味が増した。再度「もう」と呟いて、静かにカレーうどんをすすっている。
もう、と言いたいのは禾のほうだ。言葉が不可解すぎる。頭のなかで柾歩が言ったことを繰りかえしても、なにを言っていたのかまったくわからない。初心者向けに話してくれないと解釈すらできないのだ、禾は。いや、初心者への説明を、さらに砕いてもらわないと無理かもしれない。
むう、と不満を顔に出し、眉を寄せながら和風きのこスパゲティを口に運ぶ。どんなに咀嚼しても、柾歩の言葉は解釈できなかった。噛むと思考力が高まるらしいのに。
「そもそも、今まで好きな人がいなくても困ったことないんでしょ。だったら、そのままでいいんじゃない?」
またも正しい柾歩の言葉は、ぐっと禾の胸を重くした。たしかに困ったことはないが、気になるのだ。そうして気にしてみると、禾も好きな人を見つけたくなる。
「やだよ。俺だって好きな人がほしい」
「どうして?」
「それは……」
少し俯き、ちらりと柾歩を上目に見る。不思議そうな顔でこちらを見ていて、禾は唇を引き結んだ。
好きな人がほしくなったきっかけは柾歩だと、言っていいのだろうか。真似をするようだし、羨ましがっているようにも思えて、なんとなく口が重くなる。実際に真似をしたいし羨ましいのだが、正直に言っていいのかは悩んでしまう。
「禾?」
「……だって、柾歩がいつも幸せそうだから」
「え?」
唇を尖らせる禾に、柾歩が目をまたたいた。
隠すことで柾歩との関係にひびが入るくらいなら、話したほうがいい気がする。それに、柾歩なら協力してくれるかもしれない。恋愛感情のヒントや、好きになる方法を教えてくれる可能性もある。
「好きな人の話をするとき、柾歩がすごく幸せそうに見えるんだ。きらきらしてて、ふわふわした笑顔で好きな人のこと話してる。だから……いいなって」
「きらきら……ふわふわ」
「そう。俺は柾歩の好きな人が誰か知らないし、聞いても全然教えてくれないけど。でも、すごく……ずるい」
つい漏らした本音と文句に、正面で柾歩はさらに目をまばたく。そこまで驚かせることを言ったつもりはないのに。
次第に驚きの表情を崩した柾歩は、ふっと声に出してはっきり噴き出した。
「なにそれ。ずるいって、意味わからない」
「そうやって馬鹿にされると思ったから、ずっと黙ってたのに」
むっとなる禾を無視して、柾歩はくつくつと喉を鳴らしている。そんなにおかしいかと、ますますむっとなる。
「じゃあ悩める禾くんに、すっごいことを教えてあげようかな」
「え、なになに。どんなこと?」
身をかがめて禾へと顔を寄せてくるので、緊張しつつ禾も背をかがめて柾歩へ顔を近づける。なにかすごいことを伝授してもらえるのかもしれない。
禾のすぐそばで柾歩が口角をあげた。
「僕の好きな人は禾だよ。幼稚園のときに好きになって、今もずうっと禾だけ見てる」
「……は?」
今度は禾が目をまたたく。誰が、誰を好き?
ぽかんとして柾歩の顔を見ていたら、すっと柾歩は距離を取ってもとの姿勢に戻った。禾だけが硬直して前かがみのままだ。
(柾歩の好きな人が……俺? 幼稚園のときから?)
そんな馬鹿な、と即座に思ったが、向かい側から禾を見つめる瞳があまりに優しくて、信じざるをえない。好きな人のことを話すとき、いつも柾歩はこの瞳だ。優しくて穏やかで、輝きに満ちている。見るからに幸せだとわかる瞳だ。
でも、おかしい。幼稚園のときということは、柾歩と出会った頃だ。どう考えてもおかしい。
「俺たちの出会いって、最低最悪だったはず」
「最低最悪だったね。いきなり掴みあいの取っ組みあい。親同士は謝ってるのに、禾と僕はそっぽ向いてた」
「それがなんで好きになるんだよ」
眉をひそめる禾に、柾歩は苦笑した。
「だから言ったでしょ、理由とか相手が誰とか関係なく好きになっちゃうんだって。僕も信じられなかったし、今でも不思議に思う。でも」
「でも?」
「禾が好きなんだよ。可愛い禾しか僕には見えない」
口のなかで「可愛い」と繰りかえす。誰が、と聞きたくなったが呑み込んだ。
「……柾歩が、俺を好き……」
つまり柾歩がいつも幸せそうにしていたのは、禾のことを考えて、禾のことを話していたからということか。しかも、禾に好きな人について語り続けていたこともある。あれは禾に向かって禾のことを語っていたのだ。でも答えを知ると、これまでのすべてが納得できる。
禾が受ける高校を決めたとき、柾歩は「禾をひとりにするのは心配だから」と同じ高校を受けた。大学もそうだ。学食で禾がひとりでランチを食べていると、必ず柾歩が現れる。今日なんて『これ見よがしに』とまで言われた。もっと記憶を遡ると、最低最悪の出会いから、睨みあいながらもそばにいたのは柾歩だ。禾の隣には、いつでも柾歩がいた。
落ち込むと励ましてくれて、失敗すると一緒に再チャレンジしてくれて、禾が笑うと柾歩も笑っていた。いつも柾歩がそばにいて、今もいる。
「ねえ、禾」
「な、なに?」
「今、どきどきしてるんじゃない?」
「そっ……そんなことないし!」
禾の反応に、柾歩は柔らかく微笑んだ。
「もしかして、恋がわかっちゃった?」
「……っ」
「恋愛音痴卒業かな? ついでに僕も昇格できそう」
「昇格って、なに?」
聞きかえした禾に、ゆったりとした動きで柾歩が手を伸ばしてきた。禾がテーブルに置いている手を、柾歩の手のひらが包む。ぬくもりと手のひらの大きさに、ぱっと顔をあげた。
どくんどくんと心音が全身に響く。頬に熱がじわじわ広がっていき、ついには耳まで熱くなってきた。その様を、目を細めて見つめてくる。
「幼馴染から禾の恋人に、昇格。いつもひねくれてるのに、顔に全部出るんだね」
口を開いた柾歩は、とても満足げだ。
「俺の……恋人?」
目をまたたきながら柾歩を見つめる。
柾歩と恋人になる。想像しただけで鼓動がいっそう速くなる。顔に全部出ているらしいのに、さらに頬がぼうっと熱くなった。こんなに予想外でハイペースな展開はありなのか。ありか、なしか、答えはまったくわからないけれど、柾歩の手から逃げられないことはたしかだ。
「……ずるい」
「ずるいのは禾のほう。僕がどれだけ待ってたと思ってるの。ほら、さっさと言って」
「なにを?」
促されていることがわからず、首をひねる。にこりと笑んだ柾歩は禾を指さし、次に自身へその指先を向ける。
「『俺は柾歩が好き』って。さっさと言わないと、僕から言っちゃうよ」
「な、なにを……?」
これ以上なにを言うのか、まだなにかすごい真実があるのか。緊張する禾に目を向けていた柾歩は、焦れた様子でため息をついた。
「ここまで来たらもう待つ気はないから、言っちゃおうかな」
だからなにを、と唾を飲む。緊張しすぎて背筋がぴんと伸びる。対して柾歩はテーブルに頬杖をつき、少し上目に禾へ視線を向けた。
「僕の恋人になれ」
命令形だ。というか、それは命令することなのか。
反論すればいい。首を横に振ればいい。でも禾は頷いていた。知らなかった感情が、胸の奥で噴火したのだ。知らなかったものなのに、これこそそうだとはっきりわかる。
「よし。じゃあ、今すぐ『あーん』ね。そのきのこ、僕に食べさせて」
「えっ、でも柾歩は」
きのこが嫌いなはず。まさか、実はきのこも好きだったのだろうか。
「早く。僕が目閉じて口開けてるあいだに」
「な、なんで急に……?」
「うるさい、恋愛音痴。恋人が好きなものを一緒に好きになりたいのは、当たり前なんだよ」
「……っ」
ふっくらとした唇が開き、同時にきつく目をつぶっている。柾歩の言葉がずっと耳に響いて、禾の鼓動を異常なまでに高めていった。
胸をどきどき鳴らしながら、きのこをフォークで刺す。柾歩の口もとへ差し出すときには、顔の熱さでのぼせそうだった。周囲からの視線なんてどうでもいいくらい、柾歩しか見えない。
(俺、柾歩のことめちゃくちゃ好きになりそう)
明日は禾もカレーうどんにしよう。カレーは苦手だけれど、柾歩が好きなものを一緒に好きになりたい。
終




