8.邸
使用人が控える玄関ピロティ―から中へと入る。
彫り物が施された分厚い扉の向こうには、華美すぎない程度に飾られた空間が広がっていた。それでも、天井や床板、壁にも凝った意匠が施されている。さりげなく飾られた絵画や調度品も、皆、高価そうなものだ。
初老の執事が進み出て、カイルの側に付く。カイルはこちらに視線を流し、
「私の書斎で話そう」
「はい…」
執事が僅かにこちらに目を止め、少しだけ見つめたあと、こちらへと促した。
僅かな間を不審に思ったが、気に留めず共に先に行くカイルに続く。きっと、こんな子どもの来客が珍しいのだろう。
ぼんやりと、気力の失せた目で、先を歩くカイルの背を見つめる。なぜ、カイルはここまで親切にしてくれるのだろう。
──自らの邸に招いて、わざわざ話を聞くなんて。
確かに帰る先を失った、かわいそうな少年ではある。不憫に思うのは頷けた。けれど、見ず知らずの者に、ここまで丁寧に対応するだろうか。
──普通じゃありえない。
せいぜい、良くてユージンのしたような扱いだ。あれでもここでは、十分な世話をしたことになるのだろう。
だいたい、ユージンの場合はヒロを助けることで、報酬を得ようとしていたから面倒を見たにすぎない。けれど、カイルは違う。
奥貫が珍しいと言ったくらいだ。何かしら理由があるのだろうが、今のヒロには知る術はなかった。
──僕は、どうなるんだろう?
不安は増すばかりだ。ユージンのところにいた時とは違った不安だ。カイルからは、底知れぬ恐怖を感じる。ユージンは思っていることが、全て表に出ていたが、カイルはそれがない。得体の知れなさがあった。
──ユージンはどうしているのかな。
さすがにヒロの不在に気が付いているはずだ。捜しているだろうか。それとも、多少痛い目を見たものの、厄介払いできたと喜んでいるのか。
──きっと、喜んでいるんだろう。
元々、ヒロから得られる報酬は期待できないと落胆していた。いなくなったからといって、躍起になって捜すことはしないだろう。そう思うと、なぜか胸が痛んだ。
そうして、カイルに連れられ、二階にある書斎へと向かう途中、突然、廊下に面した扉が開いた。驚いて足を止めると、中からひとりの青年が転がるように飛び出してくる。
「あ─…」
青年は自分より少し上くらい。殴られでもしたのか、パッと見でもかなりの美貌と分かる顔の右半分が腫れ、口の端が切れ血が滲んでいた。服も随分乱れている。
──ひどい…。
手を差し伸べようとすれば、
「おら、逃げんなっ!」
すぐに中から人が出てきて、飛び出した青年の胸ぐらを掴むと、ふたたび部屋の中へと引きずっていった。声をかける間もない。別の男がカイルに一礼し、それでドアは閉まる。
カイルは何事もなかったように微笑を浮かべると、
「すまない。驚かせてしまったようだね?」
「い、いえ…。──その、今のは?」
「ああ、彼はつい先日まで私の従者だった者だが、手癖が悪くてね。多少なら見逃していたんだが、一線を越えてしまった。──一番、触れてはいけないものに手を出したんだよ。それで、今は懲罰中だ」
「…触れては、いけないもの?」
「そう。あろうことか、私がなにより大切にしている指輪を盗み、売ろうとしたんだ。──なに、物としてはそこまで高価じゃない。売ったところでたいした額にはならないだろう。──けれど、そこが問題じゃない。これは、とても尊敬していた人からもらったものでね…」
そう言って、左手を掲げて見せた。
ほっそりとした白い人差し指に翡翠の指輪が嵌っている。透き通った緑の石は小さいが光を反射して光って見えた。先ほども目にしていたものだ。
「こうして普段は身に着けているんだが、公的な場で人と会う約束があって、暫く外していたんだ。その隙に彼は盗んだ。売り飛ばす前に分かってよかったよ…」
「あの、さっきの人は──どうなるんですか?」
「盗みを働いたんだ。当然従者は解雇だが──このまま無罪放免というわけにはいかない。が、ほかで使うにしても安心できない。普通の職には就かせられないな…。臓器を売ってもいいが、容姿はそれなりにいいほうだ。贖罪が済んだのち、傘下の店で働いてもらおうと思っている。──が、どんな店かは聞かない方がいい。私も君には聞かせたくない」
押し黙ってカイルを見やる。今までと同じように微笑むカイルが怖いと思った。冷酷な笑みだ。
「……」
ふと、いつかのユージンの言葉が頭に浮かんだ。ボスに刃向かえばどうなるか。確かに今の所業を見ると、ユージンは寛大な方なのかもしれない。ユージンはここまでひどい目には遭わせなかった。
──僕は、とんでもない人物の所に来てしまったのかもしれない…。
背筋に冷たいものが走った。
◆
「さあ、ここが私の書斎だ。──入ってくれ」
言われて、開けられたドアの向こうの部屋を見渡す。磨き抜かれた床を、細やかな模様の入った濃いブルーの絨毯が覆っている。壁にはガラス扉つきの本棚が並び、そこに囲まれるように書斎机が置かれていた。邸の内装同様、華美すぎない、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
書斎机の手前にある応接用のソファへ座るように促され、戸口に近い方へおずおずと座る。
途端に身体が半分以上沈み込み、思わず目を瞠ってしまった。今まで生きてきて、こんなソファに座ったことはない。
すると、向かいに座ったカイルが微笑を浮かべつつ、
「──話の続きの前に、君に幾つか質問をしても?」
帰れないと分かって、すっかり意気消沈していたヒロは素直に頷く。
「はい…」
「年齢や名前は奥貫から聞いたが。──君は今までどこに住んでいた?」
「…壁の──すぐ向こうにある、十七番地のアパートです。僕が五才の時に、母とそこへ引っ越してきて、それからはずっとそこで暮らしてました」
住んでいた地区は、番地で区切られている。ヒロがいたのは中心街からかなり離れていて、その分、家賃も安く済んでいた。
「以前はどこに住んでいたかは?」
「わかりません…。小さかったし、母も言わなかったので…」
「ご家族は? お母さまだけかな?」
「…母は、僕が七才の頃、亡くなって。父親とはその前に別れたみたいです。母も詳しくは話してくれなくて...。顔は覚えていません」
「それから、ずっとひとりで?」
「…いいえ。──隣に住むケイに、面倒を見てもらってました…」
──ケイ。
そこにキッチンでタルトを焼くケイの姿を見た気がした。いい香りと、こちらに振り返って、向けられた優しい笑みを。
「ケイ?」
問いかけに我に返る。
「あっ…と、母と住んでいたアパートに後から引っ越してきた人なんです…。ケイ・ルグラン。とても親切で優しい男の人で…。母が亡くなった後、まだ若かったんですけど、僕の後見人になってくれて…。おかげで孤児院にいかずに済んだんです」
「──なるほど。恩人と言うわけか…。それは、彼も心配しているだろうね」
「…はい。あの…届け出がないと、どうやっても向こうには帰れないんですか?」
「ない限りは対応しない。これはあちらとの取り決めだ。例外はない。ここに住むものは、存在していない人間だからね…」
いつかユージンが言ったのと同じだ。
「──じゃあ、やっぱりケイが届けないと…」
「帰ることはできないな」
きっぱりと言い切る。
──もう、ケイとの生活には戻れないのか…?
ケイが多額の報酬を用意できるとは思えない。
あの小さなアパートの一室で、楽しく笑いあいながら過ごした日々は、二度と戻ってこないのか。
涙が込み上げそうになって、唇を引き結んで堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
「──しかし、別の手がないわけではない」
思わず身を乗り出すようにして問い返す。
「本当ですか?」
すると、カイルは笑みを浮かべ、
「君が私に仕える、という方法だ」
「…仕える?」
「そうだ。ちょうど、従者の席が空いたばかりだ。私のもとにいれば、あちらへ行く機会がないとは言えない。私は、仕事の用向きであちらへ行く機会も多いからな。そのどこかで、君を伴う機会も作れるかもしれない。──どうだろう?」
「……」
それは、ありがたい提案だった。
──もしかすれば、ケイと会えるかも知れない。
けれど、このカイルのもとに残るのは不安もあった。カイルはそんなヒロを見つめながら、
「──とりあえず、今はその傷を治すことが先だろう。私のもとで働くかは別にして、しばらくここで休養するといい。──彼を案内しろ。医者も呼んで手当をさせるように」
カイルは執事に指示を出す。控えていた部下も直ぐに進み出て、ヒロを別室へ案内しようとするが、
「でも──待って下さい…っ! …そこまでしてもらう理由が──」
すると、カイルは微笑を湛えたまま。
「私は慈善事業が好きでね。孤児院も幾つか営んでいる。こういったことも特別なことではないんだ」
「でも──」
「大怪我を負った君を放り出すことはできない。せめて、もう少し怪我が癒えるまで滞在してもらえないだろうか。でなければ、気になって寝るに寝れない。私のためと思って。──どうだろう?」
ここまで言われて、否とは言えなかった。それに、未だ休養が必要なのは確かで。
「──わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて…」
「よかった」
微笑むカイルに、甘えついでにもうひとつ、願い出る。
「あのっ、その前に連絡したい所があるんですが──」
「連絡? どこへ?」
「…その、ここへ来る前、面倒を見てくれた人がいるんです…。彼に黙って抜け出してきたので、ここにいることだけでも、伝えておきたくて…」
やはり、黙っているのは気が引けた。ユージンがどう思っているかは別にして、看病もしてくれた。命の恩人であることには変わりない。このまま何も知らせないのは、恩知らずというものだろう。
しかし、カイルはああと嘆息したあと、
「ユージンだろう? それも奥貫から聞いている。連絡する必要はない。彼のことはよく知っている…。私から君の事は心配ないと報告しておこう。──部屋へ案内しろ」
カイルの指示に部下が動くが、
「え…、って、ちょっと待ってくだ──」
「安心したまえ。悪いようにはしない」
部下の男らに半ば強制的に連れ出され、書斎を後にした。配下の者たちは、みな屈強な身体つきで、抵抗などできそうにない。仕方なく大人しく男たちに付き従う。
──ユージンを知ってるって。どうしてだろう?
単純に考えれば、カイルはユージンたちのボスだ。ユージンも知っていて当然なのだろう。でも。
──よく知っている、か。
なんとなく、含みのある言葉に聞こえた。
◆
言われて案内されたのは、さらに上階の廊下を暫く行った先の一室だった。
「──こちらへ。すぐに医者を呼びます」
分厚い扉が開くと、そこは日の差し込む明るい部屋だった。
中にはベッドと机、ローテーブルにソファーセットが置かれている。奥には浴室に続くドアがあった。淡いブルーと白で統一された室内は、居心地もよさそうで清潔だった。
「あの…、部屋から出たら──」
「ここでお待ちを。──では」
念を押すように部下の男はそう言うと、外側から扉に鍵をかけ、出て行ってしまった。
部下が去ったあと、一応、ドアノブに手をかけてみたが、それは半分まで回って止まってしまう。鍵がしっかりとかけられていた。部屋から出す気はないらしい。どうしてここまで厳重なのか。
──まるで、逃がしたくないみたいだ。
それが不安をあおる。
ケイに会いたいなら、カイルのもとで働くのが一番だろう。が、もし、彼の機嫌を損ねれば、先ほどの青年のようになりかねないのだ。思わず二の腕を抱えるようにして支えた。
──怖いな…。
奥貫もひとの良さそうな笑みを浮かべていたが、このカイルと親しい繋がりがあると言う事は、普通の市民ではないのかもしれない。
そういえば、こちらの地域には彼らの上に立つ者がいると言われていた。それはマフィアのボスと同じなのだと。
──カイルが、そうなのか。
だとしたら、ここにいていいものか悩む。
窓辺に寄って、眼下に広がる景色に目を向ける。広い敷地は高い塀に囲まれ、その向こうに土色の街が広がって見えた。
さらに先に見えるのは、自分の住んでいた街とこちらを隔てる壁だ。それは高くどこまでも続いている。
──僕は、もう戻れないのか?
あの向こうには、ずっと続くはずだった日常がある。それを高い壁が阻んでいた。
◆
暫くして、部屋のドアをノックする者がいた。続いて年配の男性の声がする。
「失礼します。カイル様の指示で診察に参りました」
「…どうぞ」
鍵が開けられドアが開き、護衛と共に頭髪の真っ白な初老の男が入ってくる。白衣を着ているところを見ると医者らしい。
医者はローテーブルにカバンを置くとソファに座り、ヒロにも座るように勧めてきた。
「こちらに上を脱いで背中を向けて座っていただけますかな? 怪我の具合を診ましょう」
「はい…」
言われた通り上に着ていたトレーナーを脱ぐと、大人しくソファへ腰かけ背中を向ける。
手慣れた様子で医者は巻かれていた包帯を外していく。そうして、傷口辺りに当てられたガーゼを外した所で、
「──これは…」
医者は言葉を失う。何事だろうと僅かに振り返り声をかけた。
「どうしたんですか?」
「…いや。──君、カイル様を」
幾分緊張した声音の医者は、カイルの部下に声をかける。部下の男もヒロの傷口を見て何かを察した様で、すぐに踵を返し部屋を出ていった。
──なんだろう? 傷口になにかあったんだろうか?
「あの、どうかしたんですか?」
「いや…。傷は──綺麗なものだよ」
それきり、なにも言おうとはしない。とりあえず、傷口を綺麗に洗浄しガーゼを貼り直すと、縫合は上手くいっていると教えてくれた。けれど、包帯までは巻かない。
そうこうしていると、廊下の方が騒がしくなり、唐突にドアが開いた。カイルだ。
「あの…、何かあったんですか?」
カイルはヒロの問いに答えず、真っ先にこちらへ歩み寄ると、ソファに座るヒロの背中に視線を落とし、そのまま、
「…この背中の印は──いつ?」
そう尋ねてきた。尋ねられた意味がわからない。
「印? なんですか? それ…」
「君の傷の横に、六芒星の印──タトゥーが施されている…。君は知らなかったのか?」
「タトゥーって、刺青ですよね? し、知らないですっ! そんなの、入れた覚えないです!」
驚いて背中を見ようとしたが、見えるはずもなく。ただ、引き攣れた痛みを感じて、背中を丸めただけだった。カイルはため息をつくと、
「これは──ユージンの印だ…」
「ユージン? 印って?」
やや考え込む様にした後、カイルは話してくれた。
「ここで地域の管理者になった者は、自分の所有するものに印をつけることがある…。それがついていれば、ものであれ、人であれ、当人から譲られない限り、手は出せない。そういう決まりだ。…これは、面倒だな」
「は…?」
──なんでそんなものが僕の背中に?
いつつけられたのか、覚えもなかった。
「ボス、いましがた来客が──」
「ユージンか?」
「はい…」
「わかった。すぐに行く。客間に通せ。君も手当が済んだら来るように…」
ヒロに向かってそれだけ言い残し、カイルは足早に退出していった。
医者が手早く包帯を巻いていく。それが終わると、ヒロも部下に連れられ客間へと向かわされた。




