7.上のひと
それを見送った後、促された丸椅子へと座った。
両側を本棚に挟まれたイスは、座った途端、きしんだ音を立てる。かなり年季が入っているようだった。顔を上げた正面の本棚には、やはり本がぎっしりと詰め込まれていて、圧倒される景色だ。
周囲の景色を眺めながら、店主の言葉を振り返る。
──上って、どういう人なんだろう。
ユージンも口にしていた。壁の向こうの警察や役人らにも顔が利く、相当な実力者なのだろうか。
目の前の本棚から視線を外し、ガラス扉の向こうに見える通りに目を向けた。
通りは行き来する人が途切れない。皆、目的があって歩いているのか、よそ見をするものはいなかった。見慣れてくると、確かに活気はあるが、殺伐としているようにも感じる。
──そういえば、ユージンの根城の辺りは、もっとのんびり人が歩いていたな。
散歩をしている人、近所の人と立ち話をしている人。子どもだけで走り回っている姿も見かけた。
──今頃、僕の帰りが遅いことに気づいただろうか。
そうしていると、店主が奥から戻ってきた。
「──さて、お待たせして申し訳ありませんね。準備が整いましたよ。さあ、行きましょう。迎えが来ますから」
「迎え?」
「ええ。上に話したら、すぐに迎えをよこすと。詳しい話は場所を変えて話すとのことで。上が興味を示すとは、珍しいことです。──さあ、こちらにどうぞ。車は裏口に回すそうですから」
店主は店の奥へと促した。
「はい…」
後に続いて店の奥へと続く土間の廊下を進む。細く薄暗い通路で、一番奥に勝手口があった。店主の部屋は横の壁の向こう側らしい。
『上のひと』とは、いったい、どんな人物なのか。店主に尋ねようとして、まだその名前を聞いていなかったことに気がついた。
「ええと、すみません…、あの、あなたのお名前は…?」
「ああ、そう言えば紹介がまだでしたね。私は奥貫です」
「奥貫さん…。上の人って、いったいどういう人なんですか?」
「とてもいい方です。相談を持ちかければ、親身になって聞いて下さいますから。あなたのことも、きっと悪いようにはなされないでしょう」
「そうなんですか…」
「──ああ、迎えが到着したようですね」
勝手口の向こう、路地に黒塗りの車が一台、横付けされていた。
◆
ドアガラスに貼られたスモークのせいで、中の様子をうかがい知ることはできない。威圧感を漂わせる車に、乗るのを躊躇した。さすがに怪しいと感じる。後についてきた奥貫を振り返って尋ねる。
「あの…いったい、どこへ向かうんですか?」
しかし奥貫は微笑むと、
「大丈夫です。心配いりません。すべておまかせすればいいんですよ。──さあ、乗って下さい。帰りたいんでしょう?」
「…はい」
そうしている間に、スーツを着た男たちが車から下りてきて、周囲を取り囲んだ。まるで逃げないように道を塞いでいるようだ。他に道はない。再び振り返ると、奥貫がさあ、と手で促した。
仕方なく開いたドアから後部座席へと乗りこもうとすれば、中に人の気配があった。
──え?
見れば成人男性が座っていた。足を組みゆったりと構えて座る男は、シルバーグレーのスーツに身を包みこちらを見つめている。
「──」
見事なブロンドの髪に碧の瞳。ケイと似たような色だが、もう少し碧さが強かった。その人物の雰囲気に気圧される。優雅であるのに、人を竦ませるような威圧感があった。
「あ、あの──」
──聞いていない。
三たび背後にいた奥貫を振り返るが、奥貫は逆にその背をせっつくように押してきた。
「大丈夫です。中の方があなたに力を貸してくれますよ。悪いようにはなりません」
この人物が『上の人』なのか。
「…わかりました。──失礼します…」
仕方なしに乗り込んだ背後で、ドアが音を立てて閉まる。
「あ…?」
驚いて振り返ったが、奥貫はスモークガラスの向こうで、笑って手を振っているだけだった。
──一緒に行ってくれるのだとばかり思っていたのに。
そうしている間にも、車はゆっくりと滑るように動き出した。
クッションの効いた広いシートの隣には、先ほどの男が座っている。年齢は二十代後半か三十歳ぐらいか。
室内灯に照らし出された顔には柔和な笑みが浮かんでいた。かなりの美貌ではあるけれど、その表情に温かみを感じられない。
きっと、視線の冴えた鋭さがそうさせているのだろう。組んだ左手に指輪が光る。とても綺麗な翠の石が嵌まっていた。
ヒロはまんじりともせず、ただそこに縮こまる様に座っていた。すると、男の笑った気配がする。
「怖がらなくていい。──ああ、さっき見た通り、綺麗な顔をしているね? 目の色もいい…」
男の手が伸びて、顎にかかる。顔を背けようにも、身体が緊張して固まってしまい、動けなかった。
「あ、あの…。さっきって?」
「先ほど君が訪れた店のカメラ映像を見たんだよ。ここではどこの店にもある設備だ。様々な人間がいるからね。監視する必要がある…」
男はヒロの顎から手を放すと、今度はその腹へと滑らす。突然のことにびくりと身体を揺らしてしまった。
「──ここに何か隠してるね。何かな? 危険なものではないと思うが…」
「あ、あのっ、それパンですっ!」
「パン?」
予想外の返答に、男の目が僅かに見開かれた。
ヒロは着ていたトレーナーの裾を捲って、包んでいた袋ごとそれを取り出す。体温ですっかり温まっていた。いつもより柔らかいくらいだ。
「…その、暫く食べ物にありつけないと思って…」
袋の隙間から丸くて平べったい硬いパンがはみ出している。いたたまれない気持ちになった。カイルは優雅に微笑むと、
「私のところにいれば、飢えることはないよ。それに、もっとましなものを出せるだろう」
「そうですか…」
確かに男は十分、裕福そうに見えた。男はヒロから手を離すと、身体を起こす。
「私はカイル・グラナード・蓬生だ。この一帯を取り仕切っている」
「カイル──グラナード・蓬生……」
記憶が過去に引き戻されそうになったが、カイルの問いかけにすぐに我に返る。
「──どうした?」
「え? い、いいえ。何も…」
「君はヒロと言ったか。向こうへ戻りたいとか?」
「はい…」
カイルは脇に置いていた書類を手元に引き寄せると、それに目を落としながら、
「先ほど奥貫から聞いた情報を元に届けが出ているか確認したが──一切、出されていないようだ」
その言葉に思わず聞き返していた。
「本当、ですか…?」
「ここに事故後の届けのある行方不明者リストをプリントしてきた。──残念だが、君の名前はまだない…」
カイルが手にしていた書類を差し出してくる。それを半ば奪い取るようにして受け取ると、中を確認した。
プリントアウトされたそこには、行方不明者の氏名、年齢、容姿、住所、届け出人の名前などが記されている。アルファベット順にそれを追っていくが、
「…ない」
持つ手が震える。その事実に愕然とした。
◆
──ケイが…僕を探していない?
届け出ることを知らないのだろうか。ケイならきっと周囲にも頼み、ヒロを探したはずだ。役所や警察にも問い合わせたに違いない。
見つからないとなれば、あの壁の爆発事故に巻き込まれたのではないかと気が付くはず。そうなれば、届けが必要なことも知るだろう。
──なのに、どうして…?
ショックと落胆と疑問と。様々な感情が入り乱れ、ただ手にした紙を見つめるばかり。カイルは小さく息をもらすと、
「──よくあることだ。君も知っていたようだが、届け出た場合、見つけ出してくれた相手に、それ相応の謝礼を払わなければならない。向こうとこちらでは物価も違う。一週間、滞在しただけでもかなりの額を要求される。そうだな、平均的な一般家庭の一年分の給与ほどは最低でも必要だ。──それを知って、届けを出せなかったのかもしれないな…」
「一年分……。そんな…」
体温が下がって、嫌な汗が手に滲む。
確かにそんな額は用意できない。ヒロの母が残した遺産がどれくらいあるか、ケイは知っている。とても足りなかった。
──だから、出せなかった…?
「ことに君は怪我を負ったのだろう? その治療費はかなりの額になる…。手持ちがなければ借金をすることになるだろうが、下手をすれば、今の生活が壊れる可能性もあるだろうな」
「……」
──ケイ…。
帰りたい。けれど、大好きなケイをそんな目には遭わせられない。
手が微かに震えだした。足元の地面が崩れ去ったように感じる。突然、暗闇に放り出された心地がした。
──これから、どうしたらいい?
帰れないなどと考えてもみなかった。こちらに知り合いもいない。たったひとりだ。
──いったいどうしたら…。
「──取り敢えず、邸に着いてから、落ち着いて話そうか」
「…はい…」
カイルの声にも、半ば上の空だった。
それからほどなくして、車は郊外に向かい、塀に囲まれた古い門扉をくぐった。鉄でできた黒塗りの門扉だ。自動で開いたそれは、車が通りすぎると音もなく閉まる。
車はそのまま、両脇に木々の立ち並ぶ道を進む。しばらく行ったところで、木立の合間に建物が見えてきた。まるで城と見紛うばかりの邸だ。
──すごい…。
近づいてきた邸は、四階建ての石造りで、かなり時代を経ているのか古めかしい威圧感がある。敷地は広く、建物の周囲を高い塀が覆っていた。車は警備員のいる門扉を通り抜け、邸のピロティで停車した。
「あの…ここは?」
「私の邸だ。君は客人としてもてなそう」
「──ありがとうございます…」
あまりの規模に呆然とした。こんな邸だとは思ってもみなかった。
──もっと気楽な場所だと思っていたのに…。
「私についてきなさい」
「あ──はい…」
気後れしたが、周囲を護衛に囲まれているため、のろのろともできない。と、車を降りた拍子に、膝に置いていた例のパンが、袋ごと地面に転がり落ちた。慌てて拾おうと手を伸ばせば、
「そんなもの、人が食べるものではない。──拾う必要はない」
「え…」
ぴしゃりと言われ、拾いかけた手が止まる。確かにまずくて固くて、人の口にするものなのかと疑うほどだった。けれど、これはきっとユージンたちが毎日食べているもので。
──人が食べるものじゃないって…。そんな──。
「さあ、中へ──」
ためらうヒロの背を支えるように腕を回すと、中へと促す。落ちたパンに後ろ髪を引かれつつも、仕方なくそれに従った。




