6.脱出
「──よし。行こう」
傷の痛みが幾分収まって一週間ほど経ったある日、出ていくことを決めた。
意外だったのは、あんな態度をとったユージンが、事細かに世話を焼いてくれたことだ。部下に頼めばいいのに全て自分自身で。
食事の上げ下げ、傷口の手当てに入浴の介助、はじめのころは着替えも手伝ってくれた。うまくTシャツを脱ぐことができなかったからだ。
お互い気まずさがあって、会話が弾むことはなく最低限。あいさつや指示の言葉を端的に口にするだけだったけれど。
──だからって、騙されない。
出ていくことに悔いはない。感謝の気持ちはあったけれど、信じようという気は起きなかった。やはり、最初に目にした光景が焼き付いて離れないのだ。
ただ、薬代や手術費用を踏み倒すのは、やはり気が引ける。それについては、あちらに戻ったら、払おうと決めて折り合いをつけた。
この計画にあたって、朝食にと出してくれたパンのうちひとつを、数日前から貯めていた。固くてまずかったが、何もないよりましだ。もしかしたら、しばらく食事にもありつけないかもしれないのだ。この固いパンなら日持ちもするだろう。
それを手近な布に包んで、ジーンズの腹のあたりに挟みこんだ。身に着けた紺色のトレーナーがオーバーサイズなお陰で、少しだぶついても目立たない。
この服は数日前にユージンが用意してくれていた。家の周囲を散歩したいと言うと、用意してくれたのだ。ここにきた時、着ていた服は血で汚れ、破れてボロボロで着れる様な状態ではなかったからだ。
それから、普段、すぐに飲めるようにと用意してある水差し代わりの瓶を尻のポケットに突っ込むとスニーカーを履く。
何気ない様子で部屋を出た。ここは二階で、ヒロのいる部屋のほかに三部屋あって、一部屋をユージンが使い、後は空室になっているようだった。
階下へ下りると、すぐそこがリビングキッチンになっている。たいていそこに、ユージンやその部下が屯していた。他に浴室と個室が数部屋あって、個室は部下の男らが使っていた。
今日はリビングにユージンの姿がなかった。顔だけは覚えた部下が数名、ソファや窓際に陣取っている。ヒロが下りてきたのを見て、ソファに座っていた、口ひげに黒い巻き毛の男が尋ねてきた。
「散歩か?」
確かロブと呼ばれていた気がする。顔は覚えたが、あいさつ以上の会話をしたことがない。ヒロは小さく頷くと、
「…うん」
「遠くへ行くなよ」
「わかってる…」
そう口にした。この男は以前、階下で起きた騒ぎでユージンのすぐ傍にいて、部下に指示をしていた男だ。抜け目ない男の様で、少しでも前と違えば、どうしたのかと尋ねてきた。いつもこちらの行動を監視しているのだ。
──今日は大丈夫だ。
いつもと変わりないはず。そのロブの視線から逃れるように外へと出た。
◆
ここ数日、周辺を歩き回ったおかげで、大体この辺りの地図は頭に入っていた。
この根城にしている家の前の道がここでは一番広く、向かいの家々の間の細い路地を抜けると、さらに大きな通りへ出る。そこからは、ユージンの管轄外となるらしい。
そこは人の往来がかなりあった。ユージンの家の前の道とは大違いだ。あそこは、近所の人が出歩くくらいで、人々が行き交うことはまずなかった。
大通りには屋台もあり、そこで何かを買っている人もいる。生活感に溢れる道だった。危険な様子は微塵もない。
──ここならきっと、信用の置ける人間がいるはず。
目星はつけていた。ひとつは道具屋で、様々な雑貨を店先に並べている。バケツや箒、スコップに鍬、鍋に大きなタライ、食器の類も中に見える。店主は中年の恰幅のいい男で、見る度、いつも笑顔で対応している。人当たりもよさそうだった。これなら、質問にも快く応じてくれそうだった。
もう一つは古書屋だ。こちらはほとんど人の出入りはない。時折、本の埃を払いに外に出てくる店主は、眼鏡をかけた細面の男で、幾分神経質そうにも見えたが、大人しそうだった。
もともと本が好きで、書店でアルバイトをしていたくらいだ。書籍を扱っている人物に悪い人間はいないはず。そんな考えもあって、ここに目星をつけたのだ。
──どっちかに尋ねてみよう。
そう決めていた。とりあえず、根城の家の周囲をぐるりと一周してから、少し離れた所へわざと出て周囲を確認した。
誰かがつけてくる気配はない。今までも散歩に誰かがついてきた試しはなかった。念のための確認だ。
──よし。誰もいないな。
何気ない様子で、向かいの路地の一つに入った。ひっそりした通りにはひと気がない。そこからいくつかの家の路地を曲がりながら、目的の大通りへの路地へと出る。
薄暗い路地の先からは明るい光が射し込んできていて、まるで自身の未来を暗示している様に思えた。
──これで、助かる…。
そう思った。あの、暗くてじめじめした、カビと埃の混じった匂いのする部屋で、ただじっと待っている必要はなくなるのだ。
──まずは道具屋のおじさんに声をかけて──あ、なんだか混んでいるな…。
見ればひっきりなしに客が出入りしている。当分、空きそうには見えなかった。客足が途切れるのを待っている間に、帰って来ないことに気が付いたユージンらが、捜しに来ないとも限らない。
勝手にしろとは言われたものの、金づるであるヒロを簡単に逃がすとは思えなかった。そうなれば連れ戻されて、ユージンの監視のもと、あの埃と湿気のこもる部屋に逆戻りだ。
──それは嫌だ。
それなら古書店の店主にしようと決めた。視線の先にある古書店にひと気はない。皆薄暗い店内を覗こうともしなかった。店先に並んだ本が、日を浴びてさらに黄ばんでいくようだ。
──よし、行こう。
行って助けを求めるのだ。もしかしたら、あちらへ戻る為の、別の方法を知っているかもしれない。
──早く帰って、またケイと二人、あの部屋で笑いながら過ごすんだ。
ヒロは心を決め、大通りに足を踏み出した。
◆
人を避けながら大通りを横切り、古書店のガラスの押戸の前に立って、一度深呼吸する。それから、摩耗して下地が見える金属製の取っ手を押した。ドアに取り付けられたベルが鳴る。
「…あの」
開けた途端、埃と古くなった本のすえた匂いが鼻先を掠めた。薄暗い店内には、ところ狭しとうず高く本が積まれ、壁の本棚にはぎっしり詰め込まれている。それは、こちらに襲い掛かるのではと思われるほど迫って見えた。
「あの……!」
もう一度、今度は声を張った。以前、見かけた店主の姿を探す。と、奥の方に人の気配がした。
「…誰かな?」
少し枯れた声が返ってくる。あの店主だろう。ほっと息をついて、本を崩さないように気を付けながら声のした奥を目指す。すると、行き止まりにカウンターがひとつあって、その向こうにこちらに背を向けた人の姿があった。
「あの、ちょっとお尋ねしたいことがあって…」
「──はい。なんでしょう?」
男が振り返る。白髪交じりの黒髪で細面、眼鏡をかけた例の男だ。近くで見ると意外に壮年に映る。眼鏡の向こうの目は笑んでいるせいで糸のように細くなって見えた。
一瞬、なんと話し出そうかとためらったが、他に言いようもない。単刀直入に言葉にした。
「あの…実は僕、壁の向こうの住人なんです」
「──壁の向こう?」
ひどく驚いた顔をして聞き返してくる。それにたじろぎつつも、
「その、一週間くらい前に、壁の爆発事故に巻き込まれて、間違ってここへ来た者なんです…。その時、怪我をして暫く休んでいたんですが、なんとか動けるようになって…」
店主は顎に手を当てながら思案顔になる。
「そう言えば、一週間前、壁が暴徒に壊されましたね。確かこの地区の壁でしたか…。沢山の人が怪我をしたり、行方不明になったとか…。あなた、そこに居合わせたんですね? それで巻き込まれた…」
「はい! そうなんです。それで、今日ここに訪ねてきたのは、壁の向こうに戻る方法を知りたくて…。壁の向こうからの届けがないと帰れないとは聞いているんですが、他に方法がないのかと思って…。あの、なにか知りませんか? 壁の向こうに帰れる方法は──」
店主は首を捻ると、
「私も他の方法は耳にしたことはありませんが──」
「…そうですか」
一気に意気消沈するが、男はにこりと人のいい笑みを浮かべると、
「けれど、もしかしたら、私から上に頼めばもう少し融通が利くかもしれません…」
「上…?」
ユージンとの会話でも出てきた言葉だ。
「ここの地域を取り仕切っている方のことですよ。あなた、運が良かったですね? 私は特別懇意にさせていただいているんです。さっそく話をしてみましょう」
「いいんですか?」
「ええ、ええ。私、こう見えて人助けは好きですから。店はもう終いでかまいません」
そう言うと、店主はカウンターを出て、本でごった返す通路を器用に通り抜け、表の玄関に鍵をかけた。そこへ閉店と書かれた札をドアにぶら下げると、これでよしと言って振り返り、
「上に連絡するので、そこで座って待っていてもらえますか? ──ああ、その前に少しあなたの事を知っておかないとね。お名前と年齢を教えていただけますか?」
店主はメモ帳を手に尋ねてくる。
「はい。ヒロです。ヒロ・ライネ。十七才です…」
「怪我をしたのは、どの箇所で?」
「左の肩、背中側です…。巻き込まれた時に、警官に撃たれて…」
「それは大変な目にあいましたね…。手当はどちらで?」
「この大通りの路地を越えた先に住んでいる人に助けてもらいました。──名前はユージンって言います。髪はプラチナブロンドで、褐色の肌の──」
「ユージン…ですか?」
メモをしている手が止まった。店主の顔つきが変わり、表情が険しくなる。なにかあるのだろうか。
「…はい。あの、知っているんですか?」
「知っているも何も。こちらの地区では、もっぱら噂されてますよ。非情な男だと…」
「──やっぱり。逃げてよかったんだ…」
「逃げたんですか?」
「はい…。散歩に見せかけて…。あいつ、許しを請う人間をナイフで刺したんです…。それに、まだ小さい娘も取り上げようとしていて──」
「ああ、ああ、あの男はそういう男です! 逃げて正解でしたね? 彼はあちらの地区を取り仕切っているのですが、まだ若いせいかやることなすこと、めちゃくちゃでね。──さて、事情はわかりました。それでは暫くその椅子に座ってお待ちくださいね」
店主はニコニコと笑いながら、書き終えたメモを手に奥へと消えていった。




