9.行方
その日、ヒロの帰宅が遅れていた。午後六時過ぎ。アルバイトの日ではない。いつもなら帰ってきていい頃だ。なのにいつまで経っても帰って来ない。
朝、出がけに、もしかしたら帰りに露店に寄るかも、そう言っていたのを思い出す。
──なにかあったのか。
露店は学校からの帰り道、脇道へ入った先にある。
地元の農家が売り物にならない青果物を、安く卸しているのだ。見た目さえ気にしなければ、随分いいものが手に入る。ケイもよくそこを使っていた。
──まさか、事件とは思えないが。
このあたりの地区はそこまで治安が悪い場所ではない。中心からは外れているが、それがかえってのんびりした空気を生んでいて、住人は皆穏やかだった。
それでも稀にひったくりや空き巣などはあるが、凶悪な犯罪は起こった試しがない。
ただひとつ、ごく稀にだが、気になる事象が起こる。ある日突然、家人が帰って来なくなることがあるのだ。たいていはなんらかの技術者などで、自身の意思なのか、それに反して拉致されたのか、忽然と姿を消してしまう。
噂では壁の向こうに連れて行かれたのだと囁かれていたが、真偽のほどは定かではない。
なんにしても、それらがヒロの帰宅時間の遅延に関係しているとは思えなかった。
さすがにこれ以上待てない。捜しに行くため玄関を出ようとしたところで、酒屋の店主、ジョシュが駆け込んできた。
「おい! 今さっき北側の壁で爆破事故があったらしいぞ。壁が崩れて、向こうの連中がなだれ込んできたって。配達途中で耳にしてよ、って──ケイ?」
「……まさか」
「なんだよ? そういや、ヒロはもう帰ってきてるんだろ? ──って、帰ってきてねぇのか?」
ケイの表情を見たジョシュも、顔色を青くする。
「見てくる!」
「待てって! 今行ったらあぶねぇ! 巻き添え食らうぞ! 警察の連中、容赦ねぇ」
ジョシュが首根っこを掴んでくるが、
「行かないと! ヒロが巻き込まれてるかも!」
「待て! おいっ!」
ジョシュが引き留めるのを振り払って、飛び出した。それと同時に、街頭に設置されたスピーカーから、けたたましいサイレンが鳴り響く。
この音を聞くのは久しぶりだった。これは、壁の向こうの人々が流入したことを意味する。その場合、住人は外出を禁止された。
理由は向こう側からきた人間を的確に排除するためだ。排除とは、そのままの意味。大人しく投降しない者は手あたり次第、撃たれる。
そんな中、出歩けば、壁の向こうの人間だと間違われる可能性が高い。それでも、気にしてはいられなかった。
──ヒロ──!
朝、いつものように行ってきます、そう言って出ていった。いつまでも見送るケイに、笑顔で手を振って。
当然のように帰ってくると思っていた。頭にはヒロのことしか無かった。
◆
「えー、じゃあここに、あなたのお名前と住所、連絡先と、行方不明者の名前、年齢、身体的特徴、あなたとの関係を書いて下さい」
「…はい」
役所の職員から用紙を受け取り、区切られた枠の中へ必要事項を書き記していく。
磨き抜かれた窓からは朝の光が差し込み、ケイの手元を照らし出していた。館内全体がこざっぱりとした様子だ。最近、クリーニングが入ったばかりなのだろう。床も滑りそうなくらい磨き抜かれていた。曇るケイの心とは裏腹に。
その後、規制線が引かれ、駆けつけたケイは爆破のあった地区へ向かうことができなかった。
周囲には、あちら側に家のあるもの、仕事で行っている家人を心配するもの、またはやじ馬で溢れかえっていた。そのどこにもヒロの姿はなく。
家に戻ってからも、ヒロからの連絡は一つもなかった。ジョシュも近所の連中をかき集め、探し回ってくれたが、崩壊した壁の近くで泥だらけになって破れたカバンが見つかっただけで──中に辛うじて原型をとどめていたノートに記名があった──後は何一つ手掛かりはなかった。
しかし、それで事故に巻き込まれたのは、確かだとわかった。その後、手がかりを求め、夜遅く警察署へと向かったのだ。
警察では、爆破事故で死亡した者のリストを見せてもらった。数十名にも上るその中に、該当する年格好のものはいない。
亡くなった者に哀悼の念を抱きつつも、ヒロと思われるデータがなく、ほっと息をつく。年若いものが紛れることは稀で、大抵は大人ばかりだった。
ちなみに、死亡理由は記されていない。ただ、死亡とあるだけだ。壁の崩壊程度で、ここまでの死者が出るとは思えなかった。具体的に書かないのは、書きたくない理由があるのだろう。
警察や軍は、壁の向こうの人間を人とは思っていない。投降しても撃たれるらしいとは、人伝に聞いた話だが、あながち間違ってはいないのだと、この数字を見て思う。
──安心はしたが、それならヒロはどこへ行ったのか。
すると、警察がもしかしたら、壁の向こう側に行った可能性があるのではないかと口にしたのだ。
確かにあり得た。崩壊した壁の側にいたのだ。逃げ惑う人々に流され、あちらに行ってしまった可能性は高い。
しかし、あちらで捜す手段がない。基本、警察はあちら側に積極的に関わることはない。もし動くとしたら、警察よりも軍になるが、よほどの要人でもない限り、動くことはなかった。
──どうしたものか。
すると、対応した職員が声をひそめ教えてくれた。
役所の一角にさまざまな問い合わせに対応している部署がある。そこでは、壁の向こう側での行方不明者にも対応していて、非公式に警察とも連携しているというのだ。
そのため届けを出せば、あちら側で該当者が出た場合、互いのリストを照合して、該当者と分かれば、申請者に連絡が行くという。
その後、行方不明者に間違いないと分かれば、審査の末、こちら側に戻ることができるというのだ。
そして、次の日。役所の窓口が開くのを待って、朝一番にここへ来た。
書き終えた用紙を職員に手渡す。人の良さそうな、眼鏡をかけた中年の男性職員は、出された申請書を丹念にチェックしだす。
「──あの、もし向こうからの届けがあった場合、どれくらいで連絡がくるものなのですか?」
「えーと…。ここ最近、そう言う例がなくってねぇ…。早ければ三ヶ月、長ければ一年くらいは見てもらわないと。本人がすぐに申請すれば早いでしょうが、なにぶん、ひと捜しは時間がかかりますからねぇ。まあ、半年以内には。──はい、たぶん、行くでしょう」
書類から視線を上げ、にこりと人の良さそうな笑みを浮かべたが、どうにも頼りない。
「大事な子なんです。──お願いします」
「はい。わかりました。で、えーと、ここからはさらに非公式なんですが──」
そう言った後、なぜか周囲に目を向けたあと、もう一度ケイに戻し、声をひそめ、
「…もし、見つかった際は、金銭が必要になります」
「金銭?」
「要は相手方に払う謝礼です。期間や関わった連中によって、金額はまちまちなんですが──安く見積もって、一般的な中流家庭の一年分の給与程度の金銭がかかります。もしくは、それ以上の場合も。──その準備はありますか?」
一瞬面食らったが、
「──はい」
そう答える。
「もし、心もとない場合は、届け出を取り下げていただいてもかまいません。こちらからは、該当者がいなかったということで処理できますから──」
「取り下げません」
ケイはきっぱりと言い切ると、強い眼差しを職員に向けた。ケイが取り下げると思ったのだろう。職員は拍子抜けした表情を見せたが、
「そうですか…。──では、今日はこれでお終いです。連絡が行くまでお時間がかかりますが、それまでお待ちくださいね」
「よろしくお願いします…」
ケイは深く頭を下げて役所を後にした。
──三月から半年。
ヒロが無事で、届け出のことも知っていれば、最短で連絡がくるはず。
──無事でいて欲しい。
ヒロはかならず、こちらへ戻ろうとするはずだ。行方不明者として、あちらできっと申請するはず。
──金など、幾らかかってもかまわない。
ヒロは知らないが、その辺りの心配は必要ないのだ。それに、ヒロが戻って来られるなら、それらを使い切っても、何のためらいもない。
本当なら別の手段もあったのだが、それはどうしても使いたくなかった。いや使えないのだ。それはとうに捨てた手段で。
それに、もしその手を使えば、何もかもが壊れてしまう。それだけはどうしても避けたかった。
──どうか無事で。
祈るような気持ちで、建物の間に見え隠れする壁に目を向けた。
それから、役所からの連絡を待つ日々が始まった。
◆
その日、業務を終えた窓口担当の年若い女性職員は、届け出のあった書類を、それぞれの担当部署用に仕分けしていた。
箱にまとめて入れてあった文書を取り出し、フォルダに入れ直し、それぞれ専用のポスト代わりの引き出しへ入れていくのだ。あとで配送担当者が来て、それを関係部署に持っていく。
「これで最後っと──」
やや日焼けして黄ばんだ申請書類が一枚。あまりない申請が今日あったのだ。
その最後の一枚をフォルダに入れようとしたところで電話が鳴った。表示を見ると内部からだ。しかも、昨年まで担当していた部署から。
これは長くなりそうだと、内心でため息を漏らしつつ、一旦、机に書類を置いて受話器を取り上げる。
「はい、五番窓口ですが──」
思った通り、それは込み入った内容だった。昨年まで所属していた部署から、過去の手続きについて尋ねられたのだ。
メモ帳を取り出し用件を聞く頃には、一気に記憶が過去へと引き戻され、いま、やっていた事を一瞬忘れる。
換気のために薄く開けていた窓から風が入り込んだ。夕方の冷えた空気が、淀んだ空間を清浄なものに変えていく。
それは身体を逸らし、横を向いた職員の前髪をかきあげたあと、机の上を吹き抜け、置いてあった書類をそっと音を立てず運んだ。浮いた用紙はするりと、机と机の隙間に落ちる。残されたのは、空のフォルダだけ。
数十分して電話が終わる。長い用件が終わりほっと息をついた。その頃には、すっかりその前にしていた作業を忘れていた。
取り敢えず、事務的に目の前にある空のフォルダを片付ける。そのあと、空箱をきちんと重ねて、専用の棚に積み重ねた。
昼にベテラン職員から引き継いだ書類は仕分けし、引き出しへと仕舞い終えた。全て滞りない。今日も無事に終えられたと安堵する。すると、同じく残っていた同僚が声をかけてきた。
「おーい! 終わったのか? ここも閉めるぞ」
「あ! はーい、終わりました! すぐに行きます!」
このまま閉じ込められてはまずいと、慌てて席を立った。就業時間を過ぎているのだ。
そのまま、机との隙間に一枚、落ちた書類があったのを、気づくことはなかった。




