4.こちら側
──痛い…。
左肩が脈打つように痛んで、思わず目を開いた。とは言っても瞼は重く、開くのも億劫だった。
一番先に目に入ったのは、ほの暗い中に浮かび上がる、灰色のすすけた漆喰の天井。
「──起きたか? しばらく動くなよ?」
若い声。ケイではないことは確かだ。
──撃たれて、それで──。
記憶の糸を辿るが、途中でぷつりと切れていて、何も思い出せなかった。無事に生きているということは、助けられたのか。
動くなと言われても、自分がどんな状態なのか気になる。確認しようと少しだけ顔を左に傾けた途端、左半身が引きつれ激痛が走る。
「っ!」
「ほら、動くなって。左肩、縫ったばっかだから。抗生物質を打ってもらったけど、痛み止めは限られてる。──飲むか?」
声が出せず、ただ頷いた。この激痛は耐えられるものではない。声の主は尋ねたくせに小さく舌打ちする。
「これ、高価なんだぜ? ったく、回復したらすぐにあっちに引き渡して、たんまり謝礼もらうからな?」
「……?」
言っている意味がわからなかった。
「少し、身体を起こすぞ?」
言って、声の主はヒロの背に腕を回し起こしてくれるが、
「──!」
痛みが走ってまた顔をしかめる。しかし、薬を飲むためには仕方ない。
「我慢。ほら、薬」
唇に突きつけられた錠剤を、薄く開けて含むと、続いて水差しが唇の端に当てられる。乱暴そうに見えて、意外に甲斐甲斐しい。されるがまま水を含む。喉に通る水が心地いい。それで、喉が渇いていたことに気が付いた。
「もう少し飲めよ。痛みが収まったら、あとで飯も持ってくる」
水を飲んだことで少し落ち着いて、辺りを見渡せる余裕ができた。改めて声の主を見直す。
声の主は明るいプラチナブロンドに褐色の肌を持つ少年だった。身体つきは自分より小柄で細い。ヒロより二つ、三つ、下かもしれない。耳に幾つもピアスが開けられていて、刺青も首や二の腕に見えた。
なにより、瞳の色が印象的だった。明るい褐色なのだろうが、それが光の加減で金色に見えるのだ。
──ヒョウみたいだ。
それが、全体的な印象だった。小さい頃、ケイに連れて行ってもらった街の動物園で見たことがある。しなやかな身体つきと褐色の肌、金色の髪と瞳がそう見せるのだろう。
「きみ、は…?」
「俺はユージン。倒れてたあんたを背負って連れてきた。ここは俺の根城の一つだ。あんた、名前は?」
「…僕は、ヒロ…。ヒロ・ライネ…。助けてくれて、ありがとう」
「──で、ヒロ。あんた、あっちの人間か?」
「…あっち?」
すると、ユージンは焦れったそうに、
「壁の向こう」
とだけ口にした。
──壁。
あの高い壁のことだろう。確かにヒロは、言われた通り壁の向こうの住人だ。
「うん…」
「何があった? 壁の爆発に巻き込まれたのか?」
ヒロは頷くと、記憶を辿る。
「そう…。学校の帰りに買い物をして、その帰り道、傍の壁が壊れて、人が押し寄せて…。それを避けるうち、壊れた壁のこっち側に来ていて…。急いで戻ろうとしたら──撃たれて…」
あの時の衝撃が今も生々しく蘇る。震える手を握り締めた。
「たまにあるんだ。ああやって壁の向こう側へ抜け出そうとする連中の暴動が。あっちの豊かな生活にあこがれてんだろうけど、あんなやり方したって、あっちで楽な暮らしができるわけねぇんだよ」
ユージンは毒づいた。
「…僕、帰らないと。ケイが、心配してる…。あれからどれくらい経った?」
「壁が壊れてから、三日目の夜、か。──帰るって、そう簡単には帰れないぞ」
「どうして…?」
◆
驚いて問い返せば、ユージンは壁のあると思われる方向に首を振ってみせると、
「壁の向こうの連中にとって、俺たちはいないことになってる。それなのに、いないはずの奴らがあっちに行ける方法があると思うか?」
「それは──」
「けど、あんたの場合、条件次第では戻ることができる。俺が助けたのもそれがあるからだ。この前の騒ぎでこっちに来たことが確かなら、向こうから行方不明者の届けが出されるはずだ。出すのは、大抵家族や知人だ。──で、こっちは行方不明者を探し出して、上に引き渡せば謝礼が出る。要は手数料だ。上が七割、探し出した方が三割。三割でも届けた相手から相当額取るから少ないって事はない。──あんたの身内は金持ちか?」
突然問われて面食らう。
「──どうだろう…。ケイは、一般市民だから…」
ケイの収入がどれくらいかは知らないが、生活に困らない程度、稼いでいることは確かだ。けれど、そこから謝礼金を払うほどの余分があるかどうか。だいたい、いくら後見人になっているからといって、もとは他人であるケイにそこまで面倒はかけられない。
わずかとはいえ、母が貯めていてくれた分がある。それを使えばなんとかなるかもしれない。ケイのことだ。きっと気付いて届け出るはずだ。その時に母の遺産を使ってくれと頼めばいい。
しかし、それを聞いたユージンは腕組みして唸ると。
「それなら、あんまり期待できねぇな…。まあ、いい。とにかく今は休め。回復したら、あんたのことを上に話す。順調に行けばすぐに帰れるだろう。──あとそれ、ずっと握ってたぞ」
「?」
それ、と言われて目で示された方へ顔を向ければ、ベッドの脇にあるサイドボードの上、水の入った小瓶と共に、プラムがひとつ置かれていた。強く握り締めていた割には、そこまで傷んでいない。
──ケイ…。
それを見た途端、心配しているケイの顔が浮かんできた。
「…その、家に連絡だけでもしたいんだ…。どうすれば連絡がつく? 電話は?」
すると、ユージンは首を振ってみせ、
「無理だ。俺たちが使う電話はあっちと繋がってない。向こうから届けが出ないことには何も始まらない」
「……そんな…。他になにも無いの?」
「ないな。──とにかく、しばらくは大人しくしてろ。水はそこに瓶で用意してある。洗面所の水は口をすすぐ程度ならいいが、飲むなよ? 念のためだ。トイレは廊下を出て左奥だ。──あと、それ食わないとじきに腐るぞ。もう三日だ」
それとはプラムの事だ。ユージンは面倒くさそうに言い捨てると、部屋を出ていこうとする。
「あ、待って!」
ヒロはすぐわきに置かれたプラムを手に取ると、
「…その、お礼にもならないけど。僕の持ち物で、返せるものがこれしかないんだ…。こんなになっちゃったけど、露店で買った一番おいしいプラムなんだ…。本当は沢山買ったんだけど、巻き込まれた時に、全部落としちゃって…。──最後の一個だけど、良かったら…」
なんせ、三十分近く粘って選んだ代物だ。傷んでしまったが、味は満点のはず。ユージンはしばらく、差し出されたプラムとヒロとを見比べていたが。
「──わかった。ありがたくもらっておく」
「よかった…。あっちに帰ったら、もっとちゃんとしたお礼を送るよ」
当然帰れるものと信じてそう返せば、ユージンは、一瞬目を見開いてみせたあと、すぐに真顔にもどると。
「──わかった」
そう言ってプラムを受け取ると、そのまま部屋を出ていった。
◆
ユージンが出ていくと、室内はしんと静まり返った。外では時折、犬が思い出した様に吠えている。灯されているランプの光が、すき間風に揺れた。
今、ヒロが寝ている部屋はかなり古い。天井然り、壁然り。漆喰がはげかけ、下のレンガが覗いている。ヒロのアパートの方がよっぽどましだ。
部屋の四隅には蜘蛛の巣がかかっている。気付けば寝かされているベッドもどこか湿っている気がした。掛けられている毛布も薄っぺらで、埃っぽい匂いがする。とたんに、そこで眠るのが嫌になった。
──早く帰りたい。
助けてもらい、手当もしてもらったと言うのに、早くここから抜け出したくてたまらなくなった。
帰って、清潔で温かいベッドで眠りたい。なにより、ケイの優しい眼差しに包まれたい。
普段なら、今頃、ケイの美味しい手料理で夕食を済ませ、食後のデザートをケイの淹れた紅茶と共に食べていただろう。
「……大丈夫、すぐに帰れる」
口に出して言うと、少し落ち着いた。
──そう、すぐに帰れるから。
再び、湿気たベッドに潜り込むと、肩の痛みに耐えながら無理やり目をつむった。そうすれば、早くケイに会える気がしたからだ。
その後、ユージンが運んできた夕食をほんの少し口にすると、後はベッドに横になって朝まで眠った。それはひどく浅い眠りだった。




