2.プラム
休日の昼下がり、ケイがタルトを焼いてくれた。プラムの乗ったタルトだ。休日になると、決まってお菓子を作ってくれる。
きっかけは、母を亡くした頃に遡る。母親を恋しがって泣いていたヒロに、パンケーキを焼いてくれたのが始まりだ。当時のケイは、料理の腕前もまだまだで、初めて焼いたパンケーキは、片面が真っ黒に焦げたのだ。
それを見て二人で顔を見合わせ笑った。その時の甘い香りと、涙を流しながら笑ったことをよく覚えている。お陰で随分、癒されたことも。
「ケイ、これ持って帰る袋に入れておく?」
使い終え、綺麗に洗われた円形のタルト型を軽く振って見せる。もう一方の手には、ケイの手提げ袋を持って。
いつも様々な道具や、野菜の類いをここへ入れてくる。今日はそこへタルト作りに必要な道具や足りない材料を入れて持ってきていた。ケイは今まさに切り分けようとしていたタルトから顔を上げると、
「ああ、それはそこの棚に入れておけばいい。どうせ、ここにきてまた作るから」
「やった! このタルト、好きなんだ」
ヒロは飛び跳ねるようにして、キッチンに立つケイの腰辺りに腕を回しまとわりつく。
「またプラムが手に入ればな?──ほら、包丁を持っていて危ないから。そっちのテーブルにカップを先に持っていってくれ。お茶の準備をしてくれるか? 俺はこれを持っていくから」
「僕の大きく切ってよ? ね?」
紅く色づいたフィリングの下には、アーモンドクリームが仕込んである。少しだけ焦げた縁が香ばしい薫りを立てていた。プラムとアーモンドの相性は抜群で、兎に角絶品だ。外の店で買ってきたタルトと比べても一番だと思う。
「わかった、わかった。ほら、このフォークも持っていってくれ」
「うん。早く食べよ!」
「まったく。直ぐ食べるより、少し置いた方が味が落ち着くんだけど──」
「だめ! 今食べる! すぐ食べる!」
頬を膨らませてそう言えば、諦めたようにため息をついたケイは苦笑して。
「わかった。まるっきり子どもだな? ──そら、大きくカットしたぞ。残りは一日一切れずつ、食べるんだぞ?」
「えー! そんなの、待てないって…」
「なら、残りは俺が持って帰ろう。それで、俺のところに来て食べればいい。どうせ夕飯は一緒に食べるだろ?」
「えー…。わかった。そうする…」
「いい子だ。さあ、食べよう」
香りの立つ紅茶と共に、ケイと二人、テーブルを囲んで、昼下がりのお茶を楽しんだ。
ケイの笑顔を見ると胸が痛む。それでも、自分に向けられる優しさは本物だとわかっているから、悲しくはない。こうして、ケイと過ごせるだけで十分だった。
◆
その日、授業を終えた帰り道、ヒロは収穫に頬を綻ばせ帰途に就いていた。
収穫とは、畑で小麦を刈ったわけでも川で魚を釣ったわけでもなく。露店で大量のプラムを安く手に入れることができたのだ。
傷が入っていたり、日に焼けてしまっていたり。通常では売り物にはならないものばかりだ。もちろん、アルバイトで貯めたお金で買った。
ちなみにアルバイト先は書店だ。そこまで稼ぐことはできないけれど、お小遣い程度は捻出できる。元々本が好きで選んだバイトだった。
大量のプラムだけれど、ケイに渡せば、あっという間にひと手間加えた美味しい料理に化けてしまう。アルコールに漬けて果実酒を作ったり、ジャムにしたり。なにより、またプラムのタルトを作ってもらえる。形も不揃いで傷もあるけれど、ケイの手にかかればそんなことは関係なかった。
──ケイは魔法使いみたいだな。
料理上手でなんでも美味しいものに作り変えてしまう。そのままでも美味しいものが、さらに美味しくなるのだ。
ヒロも教わるが、なかなか上手く出来ず、なんとか覚えることができたのは、野菜のクリームシチューのみで。あとは、ひとりで作ると大抵失敗する。水が多かったり、味が足りなかったり、または濃すぎることも。加減が難しいのだ。
これだけ大量に持っていけば、きっと目を丸くして驚くだろう。喜んで作ってくれるだろうし、作られる大量のそれらを思って心は弾む。
──楽しみだな。
そうして、カバンを斜めがけにし、紙袋一杯に詰まったプラムを腕に抱え歩いていると、少し先で異音がした。なにかが弾けたような、爆発したような。とにかく、いままで耳にしたことのない大きな音だ。
──なんだ?
プラムの山の向こうに見える壁に目を向けた。音はその辺りから聞こえた気がする。
これはただの壁ではない。隣の区域とを区別する高く厚い壁だった。高さは六、七メートルと言ったところか。厚さは分からないが、たまに運転を誤った車が激突する事故がある。この時、壁が壊れたと聞いたことがない。びくともしないところをみると、頑丈であることは確かだ。
これがいつからあるのかは分からない。ただ、向こうの地域は、こちらとは違う、危険な場所だと認識されていた。
もともとはひとつの地域だったのが、大きな戦争のあと、こちらとあちら側とに分けられるようになったのだと、学校の授業で教わった。
理由は土壌の汚染だ。あちら側の区域は、過去の戦争に使われた化学兵器によって汚染され、人の住める場所ではなくなった。そのため壁を作り人が近付けないようにしたのだという。
当初はここまで堅牢な壁ではなかったらしい。柵や鉄線を張り巡らしている程度だった。そのため、長い年月が経つうち、汚染の恐怖が忘れ去られ、またその影響も薄れ、いつの間にかこちら側からあぶれた人々が、壁の向こうへ抜け出し移り住む様になったのだ。
たいていは貧しいものや、こちらで犯罪を犯した者たちで、彼らが集まりひとつのコロニーを作り出した。それが今ではかなり大所帯となり、ひとつの国を成すほどになっていると言う。
そこには、彼らを取り仕切っている者がいる。いわゆるマフィアのボスと一緒だ。噂ではこちらでは扱うことのできない、様々な闇の取引も行われているのだという。
今ではすっかり頑丈な壁が作られ、当初のように簡単には行き来できないようになってはいるが、たまにテロなどによって壁が爆破され、そこから人々が流入してくることがあった。
それは、ヒロが幼い頃、一度か二度あったくらいで、ここのところ、そんな物騒なことは起こっていなかった。
──まさか、それじゃないと思うけど。
どこかで車のタイヤがパンクでもしたのだろう。プラムを抱えなおし、壁を横目に路地を曲がろうとすれば、更に大きな、耳をつんざく様な爆発音がした。同時に爆風と小石、砂ぼこりが襲ってきて視界を遮る。
──な──に?
あまりのことに立っていられず、プラムをひしと抱え、その場にしゃがみこんだ。すると、舞い上がった土ぼこりの向こうから、大勢の人の群れがなだれ込んでくるのが目に入った。
見れば壁が壊され大穴が空いている。壊れた壁の断面からは、ひしゃげた鉄筋が露になっていた。
──うそ──。壁が…。
驚きに足がすくんでそこに座り込んだままでいれば、こちらに駆けてきた男に足を蹴られた。あ、と思った次の瞬間に、今度は背中を別の男に蹴られる。
雪崩れ込んできた人々は、逃げることに必死で、周囲に誰がいようがお構いなしのようだ。人々は次々とこちら側へとなだれ込んできて、気がつけばもみくちゃ状態だ。
「ちょ──やめて下さい──!」
必死にプラムを抱え、立ち上がろうとすれば、突然、大音量のサイレンが鳴り響いた。
これが何を知らせるものかは理解している。壁の向こうの住人が入り込んだ時に流れるのだ。これが鳴り響くと、すぐに皆、扉を閉ざす。そうして、サイレンが鳴り終わるまで大人しく自宅で待機するのだ。
──なんとか、安全な所まで逃げないと。
そう思い立ち上がると、人の少ない方へ、少ない方へと流れていった。そうして気がつくと、いつの間にか壊れた壁の傍まで来ていた。
◆
壁にはかなり大きな穴が開いている。二、三人は平気で通れる広さだ。爆破のせいで中の鉄筋がねじ曲がりむき出しになっているのは前述した通り。
と、そこへ乾いた音が鳴り響いた。連続したその音に、人の群れが蜘蛛の子を散らすように、あちこち逃げ惑いだした。こちらへも逃げてきて、立ち止まっていたヒロを押しのけようとする。何の音か、考える余裕もなかった。
「ちょっ、やめ──!」
強く押され、そこへ尻もちをつく。その拍子にプラムの入った袋が放り出された。慌てて拾おうとしたが、その身体の上へ逃げ惑う人の足が踏み下ろされる。たまらず、顔の前を腕で覆った。
人に踏みつけられたことなど今まで一度もない。恐怖におののき興奮しきった人々は、踏んでいるものが人だろうがプラムだろうがおかまいなしだ。
「止めてっ! 踏まないで──」
声を荒げるが誰も聞いてはいない。皆、逃げるのに必死だ。それでもなんとか、尻もちをついたまま後ずさりし、奥へ奥へと逃げれば、ようやくその人の群れから脱出することができた。
「っ…た…」
肩に斜めにかけていたはずのカバンも、いつのまにか留め具が外れ、中身が地面に散乱していた。それももれなく踏まれてドロドロになっている。手足が傷だらけになっていた。着ていたシャツも汚れ、破れかかっている。
かなりの状態だったが、そんな中でも右手にはしっかりとプラムをひとつ、握り締めていた。拾おうとしたときに、ひとつだけ手に残ったのだ。
──ケイ…。
せっかく手に入れたのに。これで、美味しいタルトを作ってもらおうと思ったのに。袋いっぱいに詰まったプラムは、人に踏みつぶされ目も当てられない状態だ。
──なんでこんなことに。
一つだけ残ったプラムを握り締めたまま、壁を頼りによろめきながら立ち上がって、周囲を見回す。
と、見える景色がいつもと違うのに気がついた。目の前にあるのは、歩きなれた石畳の道ではなく、土ぼこりの舞う未舗装の道に。見慣れたレンガの建物の連なりではなく、数軒並ぶ掘っ立て小屋に変わっていた。
──まさか。
見れば見慣れた景色が開いた穴の向こう側に見える。人波を避けるうち、塀のこちら側に来てしまったようだった。
──戻らないと!
慌てて壁の割れ目へと向かった。割れ目は逃げまどう人々であふれ返っているが、そこしか帰る道がない。迷うことなくそこへ突っ込んでいった。
「と、通してください! あっちの住人なんですっ!」
必死に声を張り上げても、誰も聞く者はいない。押し戻され、また進み──を繰り返していれば、人の肩越しにまた連続する乾いた音を聞いた。
──いったい、何の音なんだ?
音のもとを辿れば、人波の頭越しに機関銃を構えた警官の姿が見えた。彼らは壁を越えようとして、逃げ惑う人々にその銃口を向けていたのだ。
──そんな──…。
「まって! 僕は違うんだ! 撃たないで!」
そう叫んで、必死に人ごみをかき分けようとしたとき、再び乾いた音がした。前にいた男がどっと背を向けたまま、こちら側に倒れこんでくる。支えようとした手の平に、ぬるりと生暖かいものが触れた。血だ。
「!」
男はそのままヒロの足元に仰向けに倒れ、動かなくなる。
──嘘だ。嘘だ。
目の前に広がる光景が、まるで作りごとの様に思えた。心の中で叫びながら、皆と同じように必死になってもと来た道を戻る。
壁の向こうへ戻ることになるが、今はかまっていられない。その間にも、次々と周囲の人々が、まるで糸の切れた操り人形のように倒れていく。
──このままじゃ、僕も──。
そう思った矢先、鋭い衝撃を左肩に受け、そのまま地面へ突っ伏した。
「……っ!」
どくり、どくりと体中の血管が脈打つ。尋常ではない痛みと、急速に血を失うのを感じて、その場にうずくまった。
そこへ壁の崩れる音が聞こえる。途端に重く固いものが次々に背中に降ってきた。壁がまた崩れたのだろう。手をつき、身体を起こそうとしたが無理だった。力尽きその場にまた突っ伏する。
脳裏にケイの笑顔が浮かんだ。
──ケイ…。
そのまま意識を手放していた。




