1.日常
ヒロ…主人公。幼い頃に両親を亡くす。十七才。
ユージン…街の一画を治めるボス。十六才。
ケイ…ヒロと同じアパートに住む住人。ヒロの後見人。二十八才。
カイル•グラナード•蓬生…壁の向こうの世界を取り仕切る。三十才。
ロブ…ユージンの部下。二十三才。
ヤート…ユージンの部下。二十五才。
「ケイ、いる?」
向かいの住人、ケイの部屋のドアをヒロは遠慮がちにノックする。
栗色の髪の襟足はあちこちに向かって跳ね、モスグリーンの瞳はまだしょぼしょぼとしている。起きたばかりだ。けれど、眠気を押して起きたのにはわけがある。
ドアは一見すると新品のようだが、隅っこはペンキが剥げかけていた。そこから幾度も塗り重ねられた層が見えている。長い年月を経た証拠だ。
古いアパート。黒ずんだ漆喰の壁。踏まれ過ぎて擦り減った階段。
ここで僕ヒロ・ライネは六歳から十七歳まで過ごしてきた。今は地区内の高校に通う三年生だ。
時刻は朝の七時過ぎ。
──この時間に僕の部屋を訪れないという事は──。
ドアノブを回して中に入る。かん高い金属音が響いた。小人が叫んだら、きっとこんな感じだろう。
鍵はかかっていない。ケイにはいつも言われていた。自分が部屋にいるときは、玄関に鍵はかけていないから自由に入ってきていいと。だから遠慮なく部屋に入って主を探す。
ケイは向かいの部屋に住む住人で、自宅で翻訳の仕事をしていた。きっちり同じ時間に起きて出勤する必要のない生活だ。
けれど、毎日同じ時間、ヒロの部屋を訪れ、二人分の朝食夕食──休みの日は昼食も!──すべて用意してくれ、一緒に食べているのだ。
それが今朝、訪れないと言う事は──たいていが寝坊だ。美味しい朝食がかかっている。いつものいい匂いが漂ってこないのに気がついて、呑気に寝てはいられなかったのだ。
探すと言っても、部屋はそう広くはない。キッチンとリビング、寝室が二つに浴室とトイレ。だいたいがこの間取りだ。一歩進むごとにきしむ床板の上を歩きながら、途中途中の部屋をのぞく。
キッチンには──いない。その先のリビングにも──いない。浴室も──空っぽ。となると後は──。
二つある寝室の一部屋のドアが、ネコ一匹が通れるくらいの幅で開いていた。ケイの寝室だ。まだ寝ているのかもしれない。
「ケイ──」
言いながらドアを押し開けると、半分ほど開いたカーテンのすき間から漏れる光の中に、探している人物を見つけた。ケイだ。
ベッドに腰かけ、額に手を当て俯いている。下着以外はなにも身につけていない。肩まである黒髪は、今は乱れて額を覆っていた。碧い瞳は半ば閉じている。今起きたばかりのようだ。正直、寝起きは悪い。
ケイの背の向こうに、クシャリとシーツが丸まって見えた。そこから栗色の長い髪が覗いている。
──あ。
女性が訪れていたのだ。慌てて頭を引っ込め、壁に背を預ける。漆喰の壁が上気した身体にひんやりと冷たい。朝、起きてこなかった理由がこれでわかった。十七歳になるヒロにはまだその経験がなくて、正直、刺激が強い。
「…ヒロ?」
「ごめん! お客さんだね? 今日は適当に食べておくから気にしないで。──じゃあ」
壁越しに早口にまくし立て、すぐに立ち去ろうとすれば。
「…まって、ヒロ。今からそっちに行って朝食を準備する…」
「え? でも──」
──女の人がいるのに。
すると、半分ほど開いていたドアが大きく開き、中からケイが姿を現した。下だけジーンズを履いて、手にシャツを持っている。上半身は裸のままだ。いつものことだが、女性の影を見たあとは、少し艶かしくもある。
ケイはすっかり興味を無くしたオモチャを見るように、ちらと背後を見やったあと、
「…彼女は勝手に帰るから、放っておいていいんだ。あっちに行こう」
僕の背を押し促す。サイドボードには、しわくちゃの紙幣が数枚乗っていた。それがどういう意味かも分かる。
「うん…」
この前はベリーショートの栗色の髪のひと。その前は褐色の肌をした栗色の髪のひと。次がロングヘアの栗色で、その次はボブで栗色の──。その前も確かいたはず。
思いだせるのはそこまでだ。皆の共通点は、髪が栗色ということ。決まって綺麗な明るい色をしている。ヒロの髪色と一緒だ。それが偶然なのか、意図したことなのかは、聞いてみないと分からない。
──きっと、偶然だとは思うけど……。
そんなことは無いと思うが、もし万が一にでもヒロが関わっているのだとしたら──。
「──ヒロ?」
そんなことを考えていたせいで、すっかり会話が上の空だった。ケイが怪訝な顔をしている。
「あ? ううん。なんでもない」
「今朝は何が食べたい? 昨日はパンケーキだったな…」
「うーん…。今日はフレンチトーストの気分!」
「わかった。じゃあ、家から卵を持っていこう」
「やった!」
それでいつもの朝食の時間が始まる。
ケイはヒロの十一上だ。今年で二十八歳になる。ヒロが六歳の頃から親しく付き合っていて、母が亡くなってからは、身寄りのなくなったヒロの後見人となってくれた。半ば親代わりと言ってもいい。
ちなみに、父親は物心つく頃にはいなかった。その理由を母は口にすることなく亡くなり。ヒロ自身もいないことを疑問に思うほど成長してはいなかった為、知る機会を失い、今に至る。
ケイは、ヒロが母親と共にこのアパートに移り住んで二年目、向かいの部屋にやって来た。人見知りするたちだったのに、ケイとはすぐに打ち解け、母も含め互いの部屋を行き来する仲になった。
が、その一年後、母は肺を患いあっけなくこの世を去ってしまう。
残されたヒロは身寄りもなく、孤児院に入るしかないところを、隣人のケイが面倒を見ると申し出てくれたのだ。それからずっと一緒。
幾ら親しくしていたとは言え、血のつながりもない子どもを引き受けてくれたことに感謝しかなかった。
ヒロを引き取った時のケイはまだ、十八歳。今のヒロの一つ上。やりたいことも、行きたいところもいっぱいあっただろうに、すべてを投げうって、家事に育児に、家計を支えるための仕事に奮闘した。手を抜くこともなく。自分と重ねるとあり得ない! と思ってしまう。
──僕はケイが大好きだ。
もし、ケイが特別な目で自分を見ているなら、それはそれで良かった。
──ケイだから、受け入れられる。
けれど、やはりそれには別の事情があったようで。最近、それを意外なところから知った。
◆
「ああ。あいつは、おまえの母ちゃんに横恋慕してたからなぁ」
ケイに頼まれ、ワインを買いに来たついでに、ケイがどうして自分の後見人になったのか尋ねたヒロに、店主のジョシュが、ニヤニヤ笑いながら教えてくれたのだ。
三十一歳バツイチ独身。茶色の髪に髭面。強面。けれどいつもにやけ顔をしているせいで、ちっとも怖くない。そして、たばこ臭い。
酒がからきし飲めない癖に、酒屋の店主をしていて、いかにも飲んだことがあるようにうんちくを垂れては酒を売りつけている変わり者だ。
人をからかうのが大好きで、ヒロはいつもいいターゲットにされている。もっともらしい嘘ばかりつかれて、お陰ですっかり人間不信に陥った。奥さんも愛想を尽かして当然だ。
それでも昔からここに住んでいるからと、この男にケイの過去を尋ねたのだが──それが間違いだった。まともに話さないと決まっているのに。魔が差したと言うしかない。
そうして、冒頭のセリフだ。
「横恋慕?」
「ま、おまえの所は、親父がいなかったから、横恋慕じゃねぇんだろうが。とにかく、あいつはおまえの母親にぞっこん。心奪われてたってわけだ。確かに美人だったからなぁ。おまえの母ちゃんは。十七歳の青年にはそりゃ、キツイ。イチコロだろ。で、恋した相手のその落とし種を放っておくなんて、できなかったってわけだ」
「そうなんだ…」
「なんだ? 聞いたの初めてか? てか、あいつが言うわけねぇしなぁ。ま、そう言うことだ。──なんだ? がっかりして」
「別に」
そう言ってジョシュから顔を背ければ、
「はっはぁん? まさか、おまえが可愛くて仕方なくて、手放したくなかったから面倒見たとでも思ってたのか?」
詰めよるジョシュに、慌てて否定する。
「ち、ちがうよ! ジョシュ! ばか言わないでよ!」
「ははは! 図星だな? はは、かわいいなー、ヒロは。ケイに言ってみろよ? 『どうして? 僕のことは好きじゃなかったの?』てよ!」
がはははと大口開けて笑う。ヒロはその大口目掛け、近くにあった子どものお駄賃用の飴玉をひとつかみすると、思いっきり突っ込んでやった。そのまま、ワインを手に店を後にする。背後で思いっきりジョシュが咳き込むのが聞こえてきた。
──いい気味だ。
ジョシュは決して悪い人間ではない。ではないけれど、口は悪いし、意地も悪い。いつもなにかしら、からかってくる。それも愛情表現の一つではあるのだろうけど、今のヒロにはただただ、腹立たしい存在なだけで。
──ケイに聞けるわけないじゃないか。
憤慨しながらも、買ったワインを大事に抱えアパートへの道を急いだ。
◆
「ヒロ、ワインをもらっていいか? ちょうど今必要なんだ」
玄関を入ったところで、夕食準備中のケイが声をかけてきた。
「あ、うん…! 今、もってく」
紙袋に入れられたそれを取り出し、キッチンで煮込み料理をしていたケイの傍らに立つ。すると、ケイはワインを受けとりながら、何かに気づいた様子でこちらに目を向け。
「どうした? 元気がないな? ──さては、またジョシュに余計なことを言われたんだろ?」
「別に。──いつものことだし…」
そっぽを向くが、
「俺から言っておく。からかい過ぎるなって。いいやつなんだけれど、ああいう所が玉に瑕だな」
ケイがワインの蓋に栓抜きを差し込む。それはコイル屑を出しながら、栓に収まっていく。傍らでそれを見つめながら、
「──ねぇ、ケイ」
「なんだ?」
いい音を立てて栓が抜けた。液体が濃い緑の瓶の中で揺れている。
「…なんでもない」
尋ねようか迷って、結局止めた。
──僕の母さんを好きだったの? だから、僕の世話を引き受けたの?
なんて。今更だし、ケイが話さないことを尋ねるのは気が引けた。
「ヒロ?」
「なんでもないんだ…。それより、それ、いつもの鹿肉のワイン煮? あれ好きなんだ!」
「そうだ。いい肉の塊がはいってな。──ヒロ、あまり悩むなよ? 何かあれば、なんでもいい、俺に話すように」
「うん…」
ケイは優しい。もちろん、好かれているのは十分、分かっている。でも、それは母親というフィルターを通してだ。
──僕を見ていたわけじゃない。
大切な人の忘れ形見、という所か。ありがちな話だ。
ヒロの顔は母親には似ていない。似ているのは、明るい栗色の髪だけ。あとはきっちり父親似、もしくは親族の誰かと似ているのだろう。写真も絵もないからわからないが、母と似ていないという事は多分そういうことだ。栗色の髪を好む理由がこれでわかった。
──僕の髪色は関係ないんだ…。
ケイの心を占めているのが母親なのだと知って、胸の内にぽっかりと穴が空いて、すきま風が吹くよう。大好きで、唯一と慕っていた人が、実は自分を見ていなかったと思うと、悲しくて仕方なかった。




