プロローグ
「ヒロ。今から教える名前はね、あなたの本当の名前なの」
「本当の?」
母が横になるベッドに、半ば乗り上げるようにしながら聞き返す。母はひたとこちらを見つめると、
「そう。この名前はとっても大切なものだから、誰にも話してはいけないのよ? どんなに仲が良くなってもね」
真剣な眼差しで語ってくる。それに気圧され、
「…わかった」
こくりと素直に頷く。母はベッドから半身を乗り出すようにして、すっかりやせ細った指先を、ベッドに置いていた僕の手に触れさせた。ひんやりとした手の平が、僕の握りしめていた手を包み込む。
なにが起こるのかと不安げに見上げると、にこりと笑んでみせた。それからゆっくりと、その名前を口にした。僕が覚えるまで何度も何度も。
「──そう。覚えたね?」
「うん!」
大きく頷いた。空で言えるくらいだ。母は微笑むと、
「『ヒロ』はお父さんとお母さんで考えた名前。けれど、このミドルネームは、あなたのお父さんがつけたの。とっても大事に思っていた人の名前をつけたのよ。その人の事を忘れないように…。あなたは沢山の大切なものから出来ている…。それを忘れないでね?」
「うん」
「母さんがいなくなっても、あなたが素直でいる限り、周りの人がきっと助けてくれるから」
「…うん」
──でも、母さん。僕はこのまま、母さんとずっと一緒にいたいんだ。
骨の浮く母の手の甲に頬をこすりつけ、強く目を閉じた。いい香りがする。
──母さんの匂いだ。
目蓋の端からこぼれた涙が、長い睫毛をそっと濡らした。




